第七章 北大陸 〜其の漆〜
「か、陽炎……ッ!」
床に伏したノヴァが、掠れた声でその名を呼ぶ。
黄金の湯気を纏い現れた陽炎は、五感を極限まで研ぎ澄ませた代償か、その皮膚からは微かに血が滲み、呼吸のたびに肺が焼けるような音を立てていた。
「陽炎さん……生きていたのですか。執念深いことだ」
ロキは不快そうに顔を歪めたが、すぐに余裕の笑みを取り戻し、ホメロスへと手かざした。
「ですが、無駄足でしたね。見ての通り、この部屋の『不協和音』は物質も精神も崩壊させる。あなたの成長した力とやらが、この『音』を消去できるとでも?」
陽炎は答えず、ただ静かに歩を進めた。
アゾットが激しく振動し、不協和音の相対する音の波長となり打ち消していく。
一歩、踏み出すごとに、周囲の空間を支配していた狂おしい不協和音が、無音となり消滅していく。
「………狂戦士…」
陽炎の止まらぬ成長を目にしたロキの表情が変わる。そして驚愕し、確信する。
(…いやはや、大したものですね。…人智を超えた力…楽しみですね…)
(.……五分か。上等だ)
陽炎の瞳が黄金色に燃え上がる。
彼はアゾットを正眼に構えると、背後のノヴァと紫苑に向かって短く伝える。
「ノヴァさん、紫苑、今のうちに雫とフィーネを連れて安全なところへ」
「分かりました! 陽炎さん頼のみます」
重圧から解放されたノヴァと紫苑が弾かれたように立ち上がり、気を失った二人を抱え、安全な柱の影へと飛び込んだ。
(…陽炎の様子が変だ…圧倒しているのに時折見せる苦痛のような表情…)
ノヴァが陽炎の様子がおかしい事に気付く。
「……ククク! 素晴らしい、実に見事だ陽炎さん! 私の『創造』を、貴方はいとも容易く『消去』していく」
砕け散った演算機の間で、ロキが狂ったように笑い出した。その瞳には、もはや商人としての計算はなく、一人の純粋な呪術研究者としての狂気と、どこか懐かしむような色が混ざり合っていた。
「ならば、私も『代償』を払いましょう。……かつて、私が純粋に真理を追い求めていた頃の、あの情熱を込めて!」
ロキが懐から取り出したのは、赤黒く脈動する水晶『呪獄』。彼は迷わずそれを自らの胸へと突き立てた。
ズガガガガッ!!
ロキの肉体が異形へと膨張していく。背中からは骨が突き出し、四肢は獣の如く変貌し、全身が呪力の塊であるキメラへと変じゆく。
「来い、金色の狂戦士よ! 私の生涯を賭けた最後の人体実験……その被検体は、私自身だ!!」
死を覚悟したキメラ・ロキが、音速を超えた爪で陽炎に襲いかかる。
陽炎は残された「二分」の時間を、ただ一振りの一撃に込めた。
【煌閃斬】
黄金の閃光と、狂乱のキメラが正面から激突する。
交差する一瞬。
(……狂戦士の力を2割ってところですか…ククク)
ロキは、陽炎の瞳の中に広がる「無」の世界を見た。かつて自分が呪術に憧れ、ただ純粋に真理を知りたかった幼き日の情熱に似た、純粋すぎる力の奔流。
(……ああ、そうだ。私は……これが、見たかったのだ……)
ロキは満足げな笑みを浮かべ、陽炎の刃によってその核を貫かれ、光の中に溶けて消えた。
「……イレギュラーの排除。出力を最大へ」
ホメロスの銀色の瞳が、無機質な殺意を宿して陽炎を捉えた。
彼が両手を広げた瞬間、シャフト内に張り巡らされた数千本の光の糸が、物理法則を無視した鋭利な刃となって一斉に陽炎へと殺到する。それは回避不能な「調律」という名の処刑。
しかし、陽炎は止まらない。
足元の鉄板が黄金の熱量で歪み、踏み込むたびに爆鳴が響く。
「——頼むっ、戻ってきてくれっ!」
陽炎がアゾットを振り抜いた。
【無刃斬】
黄金の刃が《不純物》を消し去っていく。斬るのではない。陽炎の意志が、アゾットを通じて魂のノイズを力ずくで『消去』していた。
陽炎は最短距離でホメロスの眼前に肉薄する。
「カハッ……!」
心臓が早鐘を打ち、全身の血管が破裂しそうな圧力が陽炎を襲う。黄金の瞳に一瞬、苦痛の色が混じるが、彼は歯を食いしばり、アゾットをホメロスの中央——胸元へと突き出した。
「目を覚ませっ! 雫が待っている」
ドォォォォォォォンッ!!!
渾身の一突きが、ホメロスを縛る銀色の電極と、浮遊プラットフォームを根こそぎ粉砕した。
凄まじい衝撃波が中央管理局を揺らし、街中に伸びていた光の糸が次々と弾け飛んでいく。ドヴォルグを支配していた不気味な不協和音が、断末魔のように霧散した。
崩れ落ちる装置が外れ、一人の男が床へ投げ出される。
九年もの間、『楽園』に利用され続けた雫の父、弥勒。
「……ハァ、ハァ……っ」
陽炎は剣を鞘に戻す前に、膝をつく。黄金の覇気が薄れ始め、五分の限界がすぐそこまで迫っている。視界は真っ赤に染まり、意識が遠のきそうになるのを必死で繋ぎ止める。
「陽炎っ!」
ノヴァが陽炎の元へ走る。
その声で、目を覚ますフィーネ、雫。
少し頭痛がする状態ではあったが意識が戻り、光景を目の当たりにする。




