第六章 楽園 〜其の参〜
ノヴァと紫苑が戦う金属音と怒号が、遠ざかっていく。
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代わりに陽炎の耳に届くのは、不気味なほどに静まり返った館の奥から誰かが何かをしている器具を使用する時に鳴る音がする。
(……この先か)
陽炎の掌にある《紅晶》の鼓動が先程とは打って変わり徐々に弱まっていく。それと同時に、抱えられた雫がある一点を指した。
雫の指差す先——回廊の突き当たりに、巨大な扉がそびえ立っている。
「……誰もいない?」
扉の前には、影の兵士も、九商の姿も見当たらない。ただ、扉の隙間から、甘い花の香りと、吐き気を催すような《薬品の匂い》が混じり合って漂ってくる。
「陽炎さん、お待ちしておりましたよ」
扉が音もなく開き、その奥から聞こえてきたのは、あの忌まわしき錬金術師ロキの声だった。
「蒼波さんは私の中にいます。早くしないと、彼、跡形もなく消えてしまいますよ……? ヒャハハ!!」
陽炎は雫をゆっくりと下ろし、そっと後ろへやる。
「……雫。俺の後ろから離れるなよ」
雫は力強く頷き返す。
二人は、部屋へと入りながら慎重に辺りを見回す。そこは、数多の生命を『材料』として弄んできたロキの巨大な実験工房。
天井まで届く巨大な棚には、ホルマリン漬けにされた異形の臓器や、不気味に色鮮やかな液体が詰められたフラスコが所狭しと並んでいる。
その中央にロキは優雅に椅子に腰掛けていた。
「…貴様の中にいる?どういう意味だ」
陽炎が声を押し殺しながら静かに問う。
二人は周りに気をやりながらも、ロキの姿に注視していた。
「言葉の通りですよ。以前にも言いましたよねー。お・い・し・く、いただきましたと。」
ロキがニタァーとにやけ、下を出して舐める仕草をしてみせる。
ロキが立ち上がると、顔半分が歪み始め一瞬、苦痛にの表情をした蒼波の顔が浮き出た。
「蒼波さん……!」
その瞬間、陽炎が叫んだ。
雫はあまりの異常な出来事を目の当たりにし、手で自分の顔を塞ぐ。
「…おや、そんなに怖い顔をしないでください。もう少しで取り込み完了しますので。ヒャハハハ!!」
(……違う。蒼波さんの魂は、まだ消えていない。ロキに取り込まれることを抗っている。)
陽炎は雫の陰陽の言霊と短剣の聖の力をもってすれば、助け出せることを確信する。しかし、陽炎の掌の中で、結晶の光がいよいよ消えかかっており、一刻の猶予がないということもわかっていた。
蒼波という存在が完全にロキの肉体に同化し、個としての「命」が消滅しようとしている末期症状だった。
「……っ! 雫!!」
陽炎が叫び、アゾットを振り抜こうとした瞬間。雫の体はまるで糸に吊られた操り人形のように不自然に跳ね上がり、背後の壁へと強引に引きずり込まれた。
「おっと、動かない……。この娘が傷のを見たくないよな。商談が終わる前に壊れては困るだろ」
天井の配管の隙間から、逆さまにぶら下がった傀儡師カーライルが姿を現した。指先からは、呪力で強化された鋼よりも鋭い糸が幾筋も伸び、雫の自由を奪っていた。
「ロキ、早く終わらせろ。顧客は、より凶暴で強い『キメラ』を望んでおられるんだ」
「言われなくて……わかってますよ…ん?」
自分の意に反して半顔が歪む。黙らせようと、顔を掻きむしると、その隙間から覗く蒼波の瞳が、必死に陽炎へ助けを求めるように激しく揺れた。
陽炎の掌の中、《紅晶》の光はもはや風前の灯火。完全に消えれば、蒼波の魂はロキの血肉に溶け、二度と取り出せなくなるだろう。
(クソッ……! 雫を助けるのが先か、ロキを斬るのが先か……!)
糸で吊られ、苦しげに顔を歪ませながらも、雫の瞳は陽炎を見つめていた。彼女は自分の恐怖よりも、陽炎が『やるべきこと』を信じている。
「……カーライル。お前の糸は、貴様の理で縛るためのものだよな」
陽炎がアゾットを正眼に構えると、刃から漏れ出す青白い光が、周囲の薬品の匂いさえも消し去るような《静寂》を広げていく。
「だったら、その理ごと『引き算』してやる」
——【虚空断】
陽炎が踏み込んだ瞬間、その姿が実験室から消えました。
直後。
雫を縛り付けていた透明な糸が、断面からパラパラと粒子になって崩れ落ちていく。
「な……!? 私の『絶対の糸』を、物質の概念ごと消しただと!?」
驚愕に目を見開くカーライルの横を、陽炎は風となって通り抜け、そのままロキの懐へと潜り込む。
雫が言霊の力を発し、痣が濃厚になっていく。陽炎が言霊の加護により、正気を保ちながら狂戦士の力が増幅していく。
「ロキ……。お前の中に蒼波さんがいるなら、お前ごと斬って、『お前だけ』を消してやる!!」
アゾットの先が、蒼波の顔が浮き出ているその中心部を捉えた。
しかし、ロキもまた、蒼波の呪印核の力を強引に引き出し、右腕を『剣』の刃に変えて陽炎の心臓を貫こうと突き出した。
「ククク、やれるものなら……やってみなさい陽炎!!」
(雫、今だ!!)
渾身の思いを『言霊』に乗せ、声にはならずとも、彼女の放つ『真実の言霊』が、ロキの肉体を縛る不浄な錬金術を内側から焼き払う。
しかし、カーライルも黙って見てはいない。雫めがけ飛びかかった。
「死ね、小娘ッ!」
カーライルの爪が、無防備な雫の喉元へと肉薄する。




