第五章 英雄祭 〜其の参〜
特別席で手すりを握りしめる阿修羅の瞳がヘルメスを捉える。
(……空間の歪曲。ただの速さじゃない、奴は『距離』という概念を商売道具にしていやがるのか……)
阿修羅が立ち上がろうとした瞬間、ヘルメスの槍先がピタリと特別席を指す。
「おっと、主催者様。あまり不粋な真似はしないでくださいね? これはあくまで正当な『余興』。ここであなたが動けば、この街の信用はガタ落ち……エデンの上客たちも、黙ってはいませんよ?」
「……離せ、ノヴァさん」
陽炎の声は、地を這うような低さだった。
彼の右拳は白くなるほど握りしめられ、全身からは今にも『赤』が噴き出しそうなほどの圧が漏れ出している。
「メイロウ……! 落ち着きなさい、今行けばアイツの思う壺よ! まだ試合は終わって——」
「終わってんだよ……。紫苑がやられたんだ、黙って見てられるか!」
陽炎の瞳が、一瞬だけ紅く発光する。
しかし、その時ーー
震える雫の手が、陽炎の右手にそっと重ねられた。
雫は涙を浮かべながらも、必死に首を横に振る。
(陽炎……思い出して。阿修羅さんの言葉を……『引き算』を)
彼女の手に触れた瞬間、陽炎の脳裏に地下修練場での『静寂』が蘇った。
「フゥー」陽炎が一呼吸する。
怒りで沸騰しそうだった血が、急速に冷えて、一筋の鋭い『意志』へと研ぎ澄まされていく。
「……ああ、わかってるよ、雫。……暴走はしねぇ」
陽炎は、木刀を握り直し、ゆっくりと一歩を踏み出す。
今、彼の瞳は不気味なほどに澄んだ「黒」のまま。
しかし、その歩みと共に、闘技場の空気そのものが陽炎の方へと吸い寄せられるような錯覚を周囲に与える。
「メイロウ! まだ貴方の出番じゃ……!」
実況の制止を無視し、陽炎は砂埃舞う舞台へと姿を現した。
ヘルメスは、陽炎の姿を認めるやいなや、口元をこれ以上ないほど吊り上げる。
「ヒャヒャ! いらっしゃいませ、最高級のヴィンテージ! 」
紫苑を抱え上げ陽炎は、ヘルメスの正面にたった。
数万人の観衆が、異様な気迫に飲まれて静まり返りる。
「……案内人。お前の言う『価値』がどれほどのものか知らねぇが、このままいけば決勝で貴様と当たる!その時はそのふざけた口を、二度と開けねぇようにしてやる」
そう告げると、陽炎が紫苑を抱え、ヘルメスに悠然と背を向けて歩き出す。その背中には、かつての『荒れ狂う獣』のような危うさはなく、ただ静寂を纏った『真の強者』の風格が漂っていた。
数万人の観衆は、一瞬前までの熱狂を忘れ、ただその静かな迫力に圧倒されて声も出なかった。
「……紫苑を貸して」
控え室の入り口で待っていたノヴァが、迅速に紫苑を受け取り、応急処置を開始する。
「命に別状はないわ。でも、あの槍……ただの槍じゃない……」
ノヴァの手が微かに震えていた。それは恐怖ではなく、エデンの使う非道な技術に対する激しい憤りだった。
雫は、戻ってきた陽炎の拳をそっと両手で包み込みこむ。
陽炎の拳は、先ほどまでの「静寂」の反動か、それとも抑え込んだ怒りの余熱か、恐ろしいほどに熱を持っている。
(……陽炎、ありがとう。戻ってきてくれて)
雫の瞳がそう語りかける。
陽炎は長く息を吐き出し、ようやく瞳の奥に宿っていた鋭い光を和らげた。
「……悪いな、雫。少し、熱くなりすぎた」
一方、舞台に残されたヘルメスは、陽炎の背中に向かって楽しげに手を振っていた。
「ヒャヒャ! 決勝、ですね! かしこまりました、最高級のヴィンテージ。その時までに、会場の『熱度』を限界まで上げておきましょう」
ヘルメスが槍を地面に突くと、紫苑が流した血が黒く変色し、蒸発するように消えていった。
特別席の阿修羅は、再び席に深く腰を下ろしていた。しかし、その指先は手すりの石を粉々に砕いた。
(……空間を無視した攻撃。あれは『理』の外にある力だ。まともに打ち合えば、陽炎の木刀など一瞬で塵にされる……)
阿修羅は隣の伝令を呼び、低く、重い声で命じた。
「……地下にある『あの剣』を、メイロウに届ける準備をしろ。修行は終わったが、今の陽炎に必要なのは、狂戦士の意志を受け止められる『剣』だ」
英雄祭のトーナメントは、ヘルメスの圧倒的な(そして悪趣味な)勝利によって、ついに最終局面へ向かっていた。
——そして、ヘルメスは難なく決勝戦へ駒を進めた。また、メイロウこと陽炎も決勝戦まで後一回。準決勝戦まできていた。
『メイロウ』こと陽炎の次なる相手は、予選を勝ち上がってきた、既に『薬』によるエデンの刺客とかした前回優勝者、炎の剣士【ブリギット】。
陽炎は控え室の隅で座り込み、目を閉じた。
頭の中に響くのは、観衆の歓声でもヘルメスの笑い声でもなかった。
ただ、地下修練場で感じた、あの一滴の雫。一瞬の揺らぎもない澄み渡った『静寂』。
「待ってろ、ヘルメス。……お前の『距離』ごと、全部まとめて叩き切ってやる」




