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神位の書  作者: KATSUMI


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第四章 阿修羅 〜其の伍〜

「ほらほら、そんなんじゃ英雄祭の舞台に立つ前に、自分の重さで潰れちまうよ!」


阿修羅は重力の影響を微塵も感じさせない足取りで、陽炎の周りを悠々と歩く。

「力を込めるんじゃない。余計なものを削ぎ落とせ。お前の怒りを、鋭い一筋の『意志』に変えるんだ」


陽炎は、溢れそうになる心臓の鼓動を必死に抑え込もうとする。しかし頭でわかってはいるのだが、根にある狂戦士の血がそうはさせてくれないでいた。


視界が赤く染まるたびに、雫の震える背中を思い出す。

(あいつに……これ以上、あんな悲しい顔をさせるわけにはいかねぇんだ!)


阿修羅は静かに見守る。

(狂戦士の力は「足し算」ではなく「引き算」だ…。早く気づけ!陽炎…)


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


地下での修行が続く中、泥と汗にまみれたノヴァが領主館の最上階へと戻ってきた。


彼女は無言で、奪取した赤紫の小瓶を阿修羅の机に置く。

「……阿修羅。街の地下は、すでに手遅れかもしれないです」


「お疲れ、ノヴァ。……ほう、これが噂の『強化薬』かい。相変わらず悪趣味な色だねー」

阿修羅は瓶を透かして見ると、冷ややかな笑みを浮かべた。


英雄祭当日、対戦相手や観客にこの薬を「共鳴」させ、街全体を暴走の渦に巻き込む計画。

「陽炎がこの事実を知れば、怒りで修行どころではなくなりそうだ……今はまだ、あの子には教えないでおこうか」


阿修羅の言葉に、部屋の隅で静かに二人の会話を聞いていた雫が、小さく肩を揺らした。


雫は、自分の首元の痣をそっと指でなぞる。

(…………陽炎は、私のために変わろうとしている)

(なら、私は……)

彼女は阿修羅に歩み寄り、机の上にあった紙とペンを取り、流れるような動作で一言だけ書き残した。


『私も修練場へ』


阿修羅はその言葉を見て、少しだけ目を見開いたが、すぐにいつもの不敵な笑みに戻る。

「…いいだろう。雫が隣にいれば、あのアホも少しは冷静になるかもしれないからね」


白亜の領主館。その最上階で見わした美しい夜景とは対照的に、地下深くからは陽炎の荒い吐息と、大気が軋むような音が響き続けていた。


阿修羅は雫の書いた紙を指先で弄ぶと、隣に立つノヴァを振り返る。


「……阿修羅様、本気ですか!? あそこは常人の娘が耐えられる重圧ではありません。ましてや、今の雫は……」

ノヴァが懸念を口にしたが、阿修羅は不敵に笑うだけだった。


「ノヴァ、あんたはまだ分かってないね。この子は『ただの娘』じゃない。……天明シャナが、そして須佐能袁スサが守り抜いたのは、守られるだけの弱者じゃないってことさ」

阿修羅は雫の肩にポンと手を置く。


「行きな、雫。あんたが隣に立つことで、あのアホの『引き算』が完成するかもしれない。……ただし、自身の内に秘められている禁忌の呪術『呪い』に飲み込まれそうになったら、すぐに引き返すがいい」


雫は深く頷くと、迷いのない足取りで地下へと続く螺旋階段を下り始めた。

一歩進むごとに、空気の重みが増していくのを肌で感じながら。


地下修練場の中央では、陽炎が膝をつき、肩で激しく息をしていた。全身の毛細血管が浮き上がり、視界はどろりとした紅に染まりかけている。


「くそっ……! 抑えようとすればするほど、逆流してきやがる……!」

木刀を握る手が震え、漏れ出した赤い気がバチバチと放電するように石畳を砕く。そのたびに回路が反応し、重力はさらに増し、彼の身体を容赦なく押し潰していく。


その時ーー

重厚な石の扉が、音もなく開いたのは。


「…………っ!? 雫!?」

陽炎は驚愕に目を見開く。そこにいたのは、重圧に顔を歪めながらも、一歩、また一歩と自分の方へ歩み寄ってくる雫の姿だった。


「馬鹿野郎! 来るな! ここは……身体が壊れちまうぞ!」

陽炎は叫ぶが、雫は止まらなかった。彼女の首元の痣が、地下の古代回路と呼応するように色濃くなり始めていた。


雫が陽炎の手が届く距離まで来たとき、彼女は言葉の代わりに、そっと彼の頬に手を添える。


その瞬間、陽炎の脳裏に《ノイズ》ではない、透き通った『静寂』が流れ込んできた。



(陽炎……怒らないで。力を外に出さないで……。私を、その中に……入れて)

声は聞こえないはずなのに、その意志が直接魂に響く。



「…!?」

陽炎はハッとする。


今までは「暴走を抑え込もう」と力んでいたことに気づく。それは、膨らみ続ける風船を外から手で押さえつけているのと同じ。いつか破裂するのは明白だったのだ。



「……そうか。外に出すんじゃねぇ。……自分の内側に、宇宙そらを作るみたいに……」




陽炎が静かに目を閉じると、沸騰していた血が、深い深海のように冷たく澄み渡り、吸い込まれるように彼の内側へと消えていく。


代わりに、彼の身体を中心に、半径数メートルだけの重力が『消失』したかのような凪が訪れた——


陽炎の周囲から、あらゆる「音」が消えた。


陽炎はゆっくりと目を開ける。その瞳は、狂乱の紅ではなく、深く、どこまでも澄み渡った真紅へと変わっていた。


「……今なら、わかる」


陽炎が、無造作に木刀を横一閃に振るう。


——シュン……。


それは、そよ風のような一振りだった。

赤い気も、破壊の衝撃も伴わない。

だが、陽炎の正面にあった巨大な石柱が、一瞬の遅れのあと、重力回路に反応することもなく「鏡面のように」滑らかに真っ二つに分かたれた。




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