第四章 阿修羅 〜其の参〜
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馬車が峠を越えたその瞬間、視界を遮っていた深い霧が嘘のように晴れ渡っていた。
眼下に広がっていたのは、これまでの薄暗い夜道とは正反対の、眩いばかりの光を放つ白亜の都。太陽の光を反射する大理石の街並み、天を突くように整然と並ぶ円柱、そして街の中央で圧倒的な存在感を放つ巨大な円形闘技場――。
そこは、伝説の剣士たちが技を磨き、最強の名を賭けて競い合う都市国家『マーベラス』
「ドウドウ」
御者が一旦馬車を止める。
「さあ、着いたよ。ここが『持たざる者』が腕一本で英雄になれる街、マーベラスだ」
阿修羅が荷台から街に入ったことを告げる。
陽炎は、そのあまりの輝きに目を細める。帝都の機械的な冷たさとも、アトアの喧騒とも違う。この街には、行き交う人々から放たれる「研ぎ澄まされた殺気」と、それを包み込むような「静謐な誇り」が満ちている。
道端のあちこちにある広場では、彫像のように鍛え上げられた若者たちが、木剣で幾何学的な軌道を描く「幾何学剣技」の修練に励んでいる。
また、街の至る所に、かつてこの街で最強を誇った剣士たちの石像が並び、民たちはそれを見て己を鼓舞している。ここでは出自や血筋は二の次。腰に差した剣の鋭さと、それを振るう覚悟だけが、その人間の価値を決定する実力主義の空気が立ちこめていた。
「……すげぇな。歩いてる奴ら全員、油断がねぇ」
陽炎は、周囲の闘気に当てられて微かに熱を帯びるのを感じていた。
馬車が街の心臓部を抜け、緩やかな坂を登り詰めると、そこには街全体を見下ろすように建つ壮麗な建築物が姿を現す。
幾重もの円柱が並び、黄金の装飾が月光にきらめく、マーベラスの権威の象徴。圧倒的な威圧感を放つ領主館。
門の前には、白銀の鎧に身を包んだ精鋭の衛兵たちが整列しており、馬車の姿を認めるやいなや、最敬礼を送る。
阿修羅は馬車を降りると、領主としての堂々たる足取りで大理石の階段を登っていく。
領主館の内部は、高い天井と豪華な回廊が続き、至る所に歴代の英雄たちの肖像や、国宝級の武具が飾られていた。
阿修羅の鋭い視線が、陽炎と雫のニ人を見据える。
「帝は陽炎を『必要』と言い、クラトスは雫の覚醒を『望まぬ再編』と呼んだ。まったくわかんないパズルだ、ハハ。……しかし、スサと私はあの時から今なお、お前たち二人に未来をかけてんだ」
「陽炎に雫、自分の意志で運命に抗い、切り拓く覚悟はあるか?」
陽炎は静かに頷きながら自信をもって返事をする。
「はなっから、そのつもりだ」
雫は、阿修羅の前に一歩進み出た。
彼女は自分の胸元を強く押さえ、真っ直ぐに阿修羅を見つめ返し、コクっと首を縦に振った。
彼女の覚悟は、もはや言葉を必要としなかった。
ーーその夜。
陽炎は領主館の最上階にある広大なテラスに立ち、宝石を散りばめたようなマーベラスの夜景を見下ろしていた。
「……狂戦士、か」
自分の掌を見つめる陽炎の背後に、気配もなく阿修羅が立つ。彼女の手には一振りの古い木刀が握られていた。
「陽炎。明日から、この領主館の地下にある『神代の修練場』を使う。そこで私が直々に鍛え上げてやる。覚悟しろよ」
阿修羅はそう言うとニャっと笑った。
「そして近いうちに、この街で開催される『英雄祭』の御前試合。陽炎には、そこに戦士として出場してもらう」
「えっ?そんな表舞台でやるような試合、大したことねーんじゃねーの?阿修羅さん」
「祭りの御前試合、通常ならそうだな。だが、今回はとんでもない情報が入ってきている。……『楽園』の死の商人の一人が出るのではないか、と」
阿修羅は陽炎の顔を横目でみる。
「……あいつらの狙いは、至極単純で、救いようがないほど強欲さ」
阿修羅は陽炎の瞳を真っ直ぐに見つめ、その『真の目的』を語り始める。
「この街で開催される『英雄祭』。何万人もの観客が熱狂し、叫び、敗者は絶望する。……死の商人にとって、その熱量は最高の『餌』なんだ。奴らは御前試合という最高の舞台を使って、観客や選手の感情を一気に高ぶらせ、それを雫の弱まりつつある『呪印』に当てる気だ」
「…錬金術師のロキだったか?そいつのよーなやつがでるのか?」
陽炎が問う。
「……そうだ。ロキのような、あるいはそれ以上に歪んだ連中が、あと八人いる。奴らは『楽園エデンの九商』と呼ばれ、それぞれが世界の欠片を売買してやがる」
阿修羅は木刀を肩に担ぎ、夜風に赤髪をなびかせる。
阿修羅の語る『九人の商人』という言葉の重みに、テラスの空気が一層冷え込む。
バガンで対峙した錬金術師ロキ。あの悪夢のような戦いを思い出し、陽炎の瞳が《深紅》に揺らぐ。奴らは人間を、感情を、そして雫の人生すらも『商品』としか見ていないだろう。
「ロキはまだ可愛い方だ。奴は『物』を弄ぶ。だが、今回来るかもしれない『死の商人』は『命の価値』を書き換える。 ……陽炎、お前が闘技場で暴走すれば、観客の歓喜は一瞬で恐怖に変わる。その巨大な感情の反転こそが、雫の『呪印』を内側から爆破する最高の起爆剤になってしまうってことさ」
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その頃、マーベラスの下層街にある薄暗い交易所。
そこには、純白の街には似つかわしくない、どろりとした闇を纏った男が一人、チェスの駒を弄んでいた。
「……準備は整った。『狂乱のおもちゃ』と、可愛らしい『神の器』…。英雄祭の最前列で、最高の絶望を見物させていただくぞ……カッカッカ」
男――死の商人が、不気味な笑い声を漏らすのだった。




