第四章 阿修羅 〜其の弐〜
阿修羅が背中越しだか、確かに意識はクラトスへ向け静かに言う。
「…で、どうだった?陽炎と雫は」
阿修羅の問いかけでクラトスは、戦鎌を静かに背中へ収める。
「はい、阿修羅様。陽炎は帝様に封印を施されているとはいえやはり、狂戦士の血を引し者。潜在能力はとんでもない力を秘めております。ただ、…このままでは自分自身に飲み込まれる恐れがあります」
「…そうか。雫は?」
「彼女は……危険な状態にあると思われます。須佐能袁様が身を隠し静かに暮らされていた理由に納得いたしました。此度の数々の出来事により帝様に施されている封印は弱まりつつあります…それに…彼女、雫は……記憶は既に…取り戻していると思われます」
陽炎とノヴァの二人は、空間が一瞬で凍りついたような感覚を覚える。
陽炎は、自分の隣で立ち尽くす雫を、まるで初めて見る他人であるかのように視線を向ける。
「……雫……?」
陽炎の声は震えていた。
雫は陽炎の視線を避けるように、小さく肩を震わせ、俯いている。彼女の握りしめた小さな拳は、白くなるほど強く握られていた。
「もはや帝様の封印という名の枷が解けるのも時間の問題……もし、彼女が言葉を取り戻せば…この世界は望まぬ再編を強いられることになるでしょう。………ただ彼女の中、もと深層部にもう一つの『何か』を感じました」
クラトスは漆黒の兜の奥で一度だけ目を閉じ、背を向ける。
「我ら『影の騎士団』は、帝様を守るために動きます。……それが例え、かつての英雄を討つことになろうとも。……それでは任務は終わりましたので行きます、阿修羅様」
クラトスの巨躯は、墨を流したように影の中へ溶け込み、アトアの港から完全に気配が消えていく。
港に残されたのは、波の音と、重苦しい沈黙だけ。
陽炎は、ゆっくりと雫の前に歩み寄る。彼女の小さな肩に手をかけようとして、その手が空中で止まった。
「……雫。あいつが言ったこと……本当なのか? お前、全部……思い出してるのか?」
雫はゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、先ほどまでの「恐怖」ではなく、すべてを悟ったような深い哀しみが宿っていた。
(…………ごめんなさい、陽炎)
雫の唇がかすかに動く。声は出ないが、陽炎にはその言葉がはっきりと聞こえた気がした。
「……っ、そんな顔すんなよ。雫」
陽炎がようやく絞り出した声は、潮騒に溶けてしまいそうなほど微かなものだった。雫が謝った理由。それは記憶を取り戻しながらも、自分を案じて黙り続けていたことへの罪悪感なのか、あるいは、思い出した記憶そのものが陽炎を傷つけるものだからなのか。
陽炎にはまだ、その答えを問う勇気が出なかった。
「……立ち話はここまで」
阿修羅が、二人の間に割って入るようにして口を開く。その声には、すべてを見通している者の重みがあった。
「陽炎、雫を頼むよ。記憶が戻るということは、この子にとって世界で一番残酷な罰を受けているようなものなんだから」
阿修羅はノヴァに目配せをすると、東の方向を指差す。
「行くよ。とりあえずマーベラスだ。……陽炎、あんたには『狂戦士』の力を御する方法を。雫、あんたには……その『記憶』と向き合う覚悟を。……たっぷり叩き込んであげる」
「……分かってるよ。……行こう、雫」
陽炎は、雫の少し前を歩き始める。振り向かなくても、彼女がついてきていることは気配で分かっていた。しかし、その気配は今までよりもずっと重く、そしてどこか儚いものに感じられる。
一行は、阿修羅が用意していた馬車の荷台に乗り込み、マーベラスへ向かう。
ガタゴトと揺れる馬車の荷台。
「……阿修羅さん。聞きたいことがある」
陽炎が、目の前に座っている阿修羅に問いかける。
「そんなに強かった『狂戦士』の種族がどうして俺だけになったんだ?…それに十五年前どうして俺を殺さなかったんだ、狂戦士化した俺は『破壊者』だったんろ?」
阿修羅は馬車の揺れに身を任せながら、ふっと夜空を見上げた。その瞳には、かつての戦場の硝煙や、血の匂いが一瞬だけよぎったようだった。
「……直球だな、陽炎」
阿修羅は少しだけ苦笑いをして、それから真剣な眼差しで陽炎を見つめる。
「まず一つ目。なぜ、あんただけが生き残ったのか。……答えは単純だ。『強すぎたから』さ。狂戦士の一族は、戦場に出れば一騎で一国を滅ぼすとまで言われた最強の種族。でもね、その力は『怒り』に依存する。制御を失った彼らは、敵も味方も、自分たちが守るべき家族ですら焼き尽くした。世界はその力を恐れ、天帝の名の下に、歴史から消されることになった……。いわゆる『大粛清』さ」
阿修羅の声は淡々としていたが、その内容はあまりにも残酷な歴史の断片であった。
「そして二つ目。なぜ十五年前、狂戦士化したあんたを殺さなかったか、だな」
阿修羅は隣に座るノヴァを一瞥した。ノヴァもまた、当時の記憶を辿るように拳を握りしめる。
「あの時のあんたは確かに『破壊者』そのものだった。帝都の精鋭たちが何十人と血の海に沈んだ。でもな、陽炎。……血に染まった爪を振り上げて、スサの前に立ち塞がったあんたの瞳の中に、『怪物の殺意』じゃなくて、『震える子供の悲鳴』を見たんだって…」
阿修羅は優しく、陽炎の肩を叩きました。
「スサは、この上もない甘ちゃんな考えなヤツ。『泣いている子供』を見捨てることができないってさ……そして以外なことにお前を見た帝は、陽炎、おまえを【必要】と言った。…全く何を考えているかわからない帝様だよ」
その話を聞き、陽炎は帝と会っていたことを思い出そうとしたが、記憶には無く思い出せなかった。
雫がそっと、自分の胸元を押さえた。
雫の記憶が戻った今、彼女は自分が陽炎を覚醒させる「器」であり、そのためだけの存在なのだと気づいた。しかし、クラトスが言った「彼女の中に眠る、もう一つの『何か』」。
彼女は自分が「何者」で、奥深く潜んでいるもう一つの『何か』それを知っていた。
そして雫は陽炎を、運命を共にする対等な存在として見つめ返した。
すべきことを知ったその瞳には、もう迷いはなかった。




