第10話 第十夫人ではなく、ただ一人の正妃
第10話 第十夫人ではなく、ただ一人の正妃
一年後、ナジュム王国の春は、前年より少し早く始まった。都の郊外では白い薬草の花が風に揺れ、再生農場の麦は人の膝を越える高さまで伸びている。点滴管から落ちる水は朝日を受けて光り、畝の間では農家の子どもたちが、芽を踏まないよう片足ずつ跳ねながら虫を探していた。
緑化事業は、最初の試験農場だけでなく、国内五つの地域へ広がっていた。沿岸部では塩分に強い麦、南部では乾燥に強い豆、北部では薬草と果樹を組み合わせている。同じ方法を押しつけず、それぞれの土地の水、土、風、暮らし方に合わせて、地域の住民が計画を作る仕組みになっていた。
農業技術院の執務室には、五つの地域から届いた土の瓶が並んでいた。瓶には採取日、天候、場所が記され、窓辺では薄紫色の砂漠桔梗が小さな花を咲かせている。机の端には、朝食の残りである胡麻パンが布に包まれ、冷めた香草茶の表面には細かな葉が浮いていた。
クラリスは生成り色の仕事着を着て、北部から届いた報告書を確認していた。右袖には朝の水質検査でついた青い染みがあり、左の靴には畑の土が残っている。明日は自分の婚姻式だというのに、机の上には衣装の見本より農場の資料の方が多かった。
「総裁、南部から緊急の報告です」
若い技術官のナーディアが、書類を抱えて執務室へ入ってきた。褐色の作業着の肩には砂がつき、髪を覆う布から一本だけ巻き毛が飛び出している。クラリスは反射的に立ち上がり、書類を受け取ろうとした。
「どこかで水質に異常が出たのですか?」
「いいえ。最初の豆が収穫できたので、乾燥方法を確認してほしいそうです」
「では、今日中に見なければなりませんね。試料を調理場へ運んで、乾燥前と乾燥後の重さを――」
「今日は総裁の休業日です」
ナーディアは書類を背中へ隠した。クラリスは壁に掛けた予定表を見て、今日の欄に大きく「仕事をしない日」と書かれていることを確認する。自分で決めた規則なのに、報告書が届けば忘れてしまうところだった。
「収穫は待ってくれません」
「豆は乾燥棚で待ってくれます。南部の責任者も、明後日でよいと書いております」
「少し確認するだけです」
「総裁が少し確認すると、質問を十個書いて返します。それを調べるため、南部の全員が夜まで働くことになります」
ナーディアに言われ、クラリスは差し出していた手を下ろした。以前の彼女は、自分だけが休まず働けば周囲を助けられると思っていた。しかし、責任者が休まなければ、部下も安心して休めないことを、この一年で何度も教えられた。
「分かりました。書類は、明後日の朝に読みます」
「今夜、こっそり執務室へ戻らないでくださいね」
「そのようなことはいたしません」
「先月、夜中に水質表を三枚確認なさいました」
「猫を捜していて、偶然見つけただけです」
二人が机の下を見ると、灰色の猫が農場の地図の上で丸くなっていた。いつの間にか増えた茶色の子猫も、その腹へ頭を載せて眠っている。ナーディアは地図を諦め、代わりの写しを棚から取り出した。
「猫を理由にしても、仕事は仕事です。今日は婚姻契約をご確認ください」
「はい。皆さんにも、明日は無理をしないよう伝えてください」
「式典のあと、夜まで宴を続けるという案は、総裁の命令で中止になりました。料理人たちが喜んでおります」
「命令ではありません。労働時間を確認しただけです」
クラリスはそう答えながら、机の上の胡麻パンを手に取った。硬くなる前に食べ、冷めた茶も最後まで飲む。仕事を残して席を立つことへの違和感はまだあったが、ナーディアへ書類を預け、自分の足で執務室を出た。
婚姻式を翌日に控え、宮殿では朝から準備が続いていた。中庭には白い砂漠百合と淡い青色の夜明けの鈴が飾られ、料理人たちは大鍋で羊肉を煮込んでいる。洗濯場には式典用の白い布が何十枚も干され、風が吹くたび、洗いたての石鹸と日なたの匂いが廊下まで届いた。
クラリスの居室では、三人の職人が婚礼衣装の最後の確認をしていた。衣装は深緑を基調とし、袖と裾には五つの地域で育つ麦、豆、薬草、棗椰子、アカシアが刺繍されている。宝石を縫いつける代わりに、女性職人たちが染めた糸を重ね、陽射しの角度によって緑の濃さが変わるよう仕立てられていた。
「もう少し胸元へ宝石を増やすこともできますよ」
年長の職人が、白い石の入った箱を開いた。クラリスは鏡の前に立ち、深緑の衣装を身につけた自分を見る。かつてロザリーが奪った銀色のドレスとは違い、この衣装は働く者の名前と報酬を確認したうえで、自分が選んで注文したものだった。
「このままでお願いします。刺繍を隠したくありません」
「では、首飾りも小さなものにいたしましょう」
「皆さんのお名前は、衣装の記録に残っていますか?」
「もちろんです。総裁が賃金表を三度も確認なさいましたから」
職人たちは顔を見合わせて笑った。クラリスは少し頬を熱くしながらも、衣装の裾を持ち上げ、歩きにくい場所がないか確かめる。婚礼の日だけ美しく見えればよいのではなく、自分の足で歩ける衣装にしたかった。
午後、クラリスはザイードの執務室を訪れた。彼の机には婚姻契約書が置かれ、隣には食べかけの干し無花果と、蓋を閉め忘れたインク壺がある。窓辺の赤い砂漠薔薇は前年より大きくなり、新しい蕾を三つつけていた。
「インクが乾いてしまいます」
クラリスは蓋を閉め、机の端へ飛んだ一滴を布で拭いた。ザイードは濃紺の上着の袖をまくり、婚姻契約の最後の頁を確認している。彼の字は相変わらず右上がりで、書き損じた部分には二本線が引かれていた。
「衣装の確認は終わったのか?」
「はい。職人の皆さんが、明日の朝に届けてくださいます」
「宝石が少ないと、式典担当官が困っていた」
「正妃の価値を宝石の重さで量る規則はありますか?」
「ない。だから、担当官には諦めてもらった」
クラリスはザイードの向かいへ座り、婚姻契約書を開いた。財産、仕事、住居、離婚、相続、子どもを持つかどうかまで、二人が半年かけて話し合った内容が記されている。どちらか一方が王族だからという理由で、もう一方の権利を制限する条項はなかった。
クラリスの財産と報酬は、婚姻後も本人が所有する。ザイードの事業とクラリスの農業技術院は、互いの許可なく人事や予算へ介入しない。二人で使う生活費については、収入に応じて負担することになっていた。
「この条項は、いつ追加したのですか?」
クラリスは最後の頁を指した。そこには、どちらかが公務で不正を行った場合、配偶者であっても告発できると書かれている。家族の名誉を守ることを理由に、証拠を隠してはならないという文章まで加えられていた。
「三日前だ」
「私が反対するとは思わなかったのですか?」
「思わなかった。ただし、書面にしなければ、私の後継者が勝手に解釈を変えるかもしれない」
「もし私が不正をしたら、あなたが告発するのですね」
「する。その前に帳簿を持って止めるが、やめなければ告発する」
「私も同じようにします」
「それでよい。妻にすべて従ってもらいたいなら、私はもっと簡単な契約書を作っていた」
クラリスは声を立てて笑った。机の下にいた灰色の猫が驚き、ザイードの靴へ爪を立てる。彼は顔をしかめて足を引いたが、猫は悪びれず、茶色の子猫を連れて窓辺へ逃げた。
「殿下、今のは猫が悪いのではありません。靴紐で遊ばせたあなたにも責任があります」
「昨日までは、引っかかれなかった」
「昨日まで無事だったことは、今日も無事である理由になりません」
「農場の報告書と同じ言い方をするのだな」
二人はもう一度契約書へ戻った。クラリスは最初から最後まで読み、理解できない箇所がないことを確認する。最後の署名欄へ進むと、ザイードはペンを差し出したが、彼女の手へ握らせようとはしなかった。
「クラリス。明日の式典を中止したいなら、今でも中止できる」
「国中から招待客が来ています」
「それは私たちが結婚しなければならない理由ではない。客には料理を食べて帰ってもらえばよい」
「羊肉の煮込みが、無駄になりませんか?」
「料理人たちは、むしろ喜んで持ち帰るだろう」
クラリスは契約書と、ザイードの顔を交互に見た。ベルフォード家で婚約を決められたとき、誰も彼女の返事を待たなかった。砂漠へ送られるときでさえ、父は署名するのが当然だと思っていた。
今は宮殿中で婚姻式の準備が進み、国内外から客が集まっている。それでもザイードは、クラリスの「いいえ」を受け入れるために、すべてを止めると言っていた。彼女はペンを取り、慌てずに自分の名前を書いた。
「明日、あなたと結婚します。国のためでも、招待客のためでもありません。私がそうしたいからです」
「ありがとう」
「ただし、婚姻式のあとに仕事を持ち込むのは禁止です」
「それは契約書にない」
「今、追加しますか?」
「いや。私が守る」
ザイードも署名し、二人は婚姻契約書を弁護士へ預けた。公印は明日の式典で押されるが、二人の意思はその日のうちに記録された。クラリスは執務室を出る前に、窓辺の砂漠薔薇へ水を与えすぎていないか確認した。
婚姻式の朝、宮殿には日の出前から香辛料と焼きたてのパンの匂いが漂っていた。厨房では羊肉と杏の煮込み、豆を詰めた野菜、薬草入りの魚料理が作られている。菓子職人たちは、初収穫の小麦粉へ蜂蜜と胡麻を加え、星の形をした焼き菓子を何百枚も並べていた。
クラリスは朝食を抜こうとしたが、サミーラが許さなかった。婚礼衣装へ着替える前に、豆の粥と薄切りの林檎が運ばれてくる。女性弁護士も赤い靴下の編み物を持って現れ、食べ終わるまで契約書を見せないと言った。
「緊張して、喉を通りません」
「匙を小さくすればよいのです」
「祖母も、同じことを言いました」
「では、お祖母様と私の二人分の命令です」
「今日は命令を聞かない日ではなかったのですか?」
「食事は命令ではなく、助言です。聞かなかった場合、式典中におなかが鳴ります」
クラリスは小さな匙で粥を食べた。途中で林檎を一切れ挟むと、酸味で口の中がさっぱりした。食べ終わった頃には、衣装を着るために立ち上がっても足元がふらつかなかった。
婚姻式は、宮殿の大広間と中庭を開放して行われた。王族、各国の使節、商人だけでなく、農業技術院の職員、庭師、配管工、洗濯係、試験農場に協力した家族も招かれている。席の順番は身分だけで決めず、事業へ関わった地域ごとに並べられた。
大広間には、輸入した豪華な花ではなく、国内で育った植物が飾られていた。白い砂漠百合、黄色い砂漠菊、淡い青色の夜明けの鈴、薬草の小さな紫の花が、麦の穂と一緒に籠へ生けられている。風が入るたび、香油ではない青い草と土の匂いが広がった。
クラリスは深緑の婚礼衣装をまとい、ザイードと並んで大広間へ入った。彼女の半歩前に立つ者も、後ろから進むよう命じる者もいない。ザイードは白い正装に深緑の帯を締め、胸元にはクラリスと同じ麦の刺繍を入れていた。
二人は婚姻契約書へ公印を押し、それぞれの署名が自分の意思によるものだと宣言した。司式官が婚姻の成立を告げると、広間と中庭から拍手が上がる。農家の子どもたちが麦の穂を振り、灰色の猫は音に驚いて椅子の下へ隠れた。
そのあと、ザイードは国内外の招待客へ向き直った。彼の手には、半年にわたる調査結果をまとめた文書がある。「九人の妻」に関する噂を流した仲介人と、それを利用して女性を集めようとした者たちは、すでに裁判へかけられていた。
「長く国外で流れていた噂について、この場で正式に訂正する」
広間が静かになった。クラリスはザイードの隣に立ったまま、彼の言葉を待つ。彼はクラリスを守るためだけでなく、ナジュム王国の婚姻制度への誤解を正すため、調査結果を公表した。
「私に九人の妻がいるという話は虚偽である。私は過去に一度も婚姻していない。『第十夫人』を求めた事実もない」
国外の使節たちが顔を見合わせ、書記官が内容を書き留めた。ザイードは噂を信じた者を責めず、虚偽を意図的に流した者の責任だけを明確にする。最後に書類を閉じ、クラリスの方を見た。
「私に過去の妻はいない。そして、これからもクラリス以外の妻を迎えることはない」
拍手が再び起こった。だが、クラリスは華やかな宣言だけに心を奪われなかった。昨日、誰も見ていない執務室で、婚姻を断ってもよいと伝えられたことの方が、彼女には大切だった。
祝宴では、国内五地域の料理が振る舞われた。クラリスとザイードの卓にも、豪華な飾り菓子だけでなく、農家が作った豆の煮込みと初収穫の平パンが置かれている。クラリスは花嫁だからと一口ずつしか食べないよう勧められたが、羊肉と杏の煮込みを二度取り分けた。
「正妃は食事を控えめにした方が美しく見えるそうです」
クラリスが式典担当官の助言を伝えると、ザイードは自分の皿へ煮込みを追加した。杏を一つ多く取ったため、クラリスも同じようにする。向かい側に座っていたサミーラは、二人の皿を見て満足そうに頷いた。
「食事は、正妃らしく見せるための道具ではない」
「生きるために必要なもの、ですね」
「覚えていたのか」
「何度も聞きましたから」
「君も最近、私へ同じことを言う」
「殿下が昼食を忘れるからです。あ、今日からは殿下ではありませんね」
「ザイードでよい」
クラリスは口の中の料理を飲み込んでから、初めて人前で彼の名を呼んだ。ザイードは平静な顔を保とうとしたが、杏を取る匙が空の場所を二度すくった。サミーラは気づかないふりをし、隣の弁護士へ星形の焼き菓子を勧めていた。
日が沈む前に祝宴は終了した。来客を夜中まで拘束せず、料理人や給仕も順番に帰宅できるようにしたためである。残った料理は捨てず、宮殿の職員と希望する来客へ分けられた。
夜、クラリスとザイードは婚礼衣装を脱ぎ、普段の長衣へ着替えた。クラリスは淡い緑色、ザイードは白い衣服を身につけ、二人だけで宮殿の裏庭へ向かう。護衛は見える距離を保ちながらも、話し声が聞こえない場所で待った。
一年前、枯れた枝とひび割れた土しかなかった庭には、アカシアと棗椰子の若木が育っていた。生活排水を浄化した水が点滴管を通り、薬草と白い夜咲きの花の根へ一滴ずつ落ちている。高い木はまだ少ないが、低い枝が作る日陰では、小さな苗が新しい葉を広げていた。
クラリスは白い花の前で足を止めた。夜になって開いた花から、蜂蜜に似た甘い香りが漂っている。彼女は一輪へ手を伸ばしたが、摘まずに花弁の外側だけを指で撫でた。
ベルフォード家の庭では、きれいに咲いた花を見つけるたび、母の部屋へ飾るよう命じられた。自分で育てた花でも、クラリスの部屋へ持ち帰ることは許されなかった。実った果物も、収穫した野菜も、家族の食卓へ出した残りしか食べられなかった。
「摘まないのか?」
「ここで咲いている方がよいと思いました」
「欲しければ摘んでもよい」
「欲しいものを、すべて自分の部屋へ持ち帰る必要はありません。明日の夜も見に来られますから」
二人は点滴管を踏まないよう、石の小道を進んだ。庭の奥には、簡素な食卓が用意されている。婚礼の豪華な料理ではなく、焼いた魚、胡瓜と乳酪のサラダ、温かい平パン、豆のスープが二人分だけ並んでいた。
「まだ食べるのですか?」
「料理人が、式典中はまともに食べられないだろうと用意した」
「羊肉の煮込みを二皿食べました」
「私も見ていた」
「ザイードも、杏を三つ食べていました」
「では、魚は半分ずつにしよう」
二人は長い魚を中央で分けたが、ザイードの方へ頭が入り、クラリスの方には尾が入った。どちらが多いかで少し言い合い、結局、身をさらに半分にして分け直す。婚姻式の日の夕食としては地味だったが、クラリスは昼の宴より味をよく覚えていた。
食後、ザイードは懐から小さな箱を取り出した。箱の中には、白い石と青い石を並べた指輪が入っている。ベルフォード家から取り戻した祖母の星石ではなく、ザイードが自分の財産から購入したものだった。
彼は指輪を手に取ったが、すぐにクラリスの指へはめなかった。昼間に婚姻契約を結び、国中の前で正妃として迎えたあとでも、彼は最後の選択を彼女へ渡した。クラリスは左手を膝の上に置いたまま、彼の言葉を待った。
「今日、あなたはナジュム王国の正妃になった。だが、この指輪は正妃へ贈るものではない」
「では、誰に贈るのですか?」
「仕事を終えると手袋をどこへ置いたか忘れ、猫を捜すと言って夜の執務室へ入り、私が昼食を抜くと自分のことを棚に上げて叱る女性へ贈りたい」
「ずいぶんな説明ですね」
「まだある。失敗を隠さず、自分より立場の弱い者の名前を記録に残し、食べ物を捨てない。仕事を抱え込みすぎるが、最近はようやく人に任せるようになった」
ザイードはそこで言葉を止めた。夜風が白い花を揺らし、灌漑水路を流れる水の音が庭へ届く。彼はクラリスの目を見た。
「クラリス。国のためでも、契約のためでもない。正妃としてだけではなく、私の妻として、これからも一緒に生きることを選んでくれるだろうか」
クラリスは指輪より先に、ザイードの手を取った。指先には執務でついた小さなインク染みがあり、掌には農場で道具を使った硬い部分がある。王族の手ではなく、この一年、同じ畑と帳簿を見てきた人の手だった。
「私はもう、誰かに売られてここにいるのではありません。帰る場所を、自分で選びました」
「その場所が、ここでよいのか?」
「はい。ただし、私の仕事部屋へ勝手に書類を置かないでください」
「君も私の机へ水質報告書を置かないなら約束する」
「それは必要な報告です」
「私の書類も必要なものだ」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。ザイードは改めてクラリスの左手を取り、指輪をはめる。白と青の石は月明かりを受け、派手ではない小さな光を返した。
そのあと、二人は食卓に残っていた平パンを一枚ずつ布へ包んだ。厨房へ返せば、明日の朝に香草油を塗って焼き直してもらえる。二人分の食器だけが残った庭で、夜咲きの花と湿った土の匂いがゆっくり混ざっていた。
翌朝、クラリスはいつもと同じ時間に目を覚ました。婚礼用の豪華な寝間着ではなく、肌触りのよい白い寝間着を着ており、寝台の下では灰色の猫と茶色の子猫が丸くなっている。窓を開けると朝の冷たい風が入り、夜咲きの花は花弁を閉じ始めていた。
食卓には、昨夜残した平パンが香草油を塗って焼き直されていた。縁は香ばしく、中にはまだ柔らかさが残っている。クラリスは半分を食べ、残りを昼食用の布へ包んだ。
ザイードは朝から王族会議へ出席していたため、今日は別々に朝食を取った。夫婦になったからといって、すべての時間を一緒に過ごす必要はない。クラリスは自分の居室で香草茶を飲み、仕事着へ着替えた。
農業技術院の執務室へ入ると、机には南部の豆に関する報告書が置かれていた。ナーディアは約束どおり、婚姻式の翌朝まで書類を持ち込まなかったらしい。表紙には、新しい農場計画書と書かれている。
クラリスは椅子へ座り、報告書を開いた。ベルフォード家の借金も、家族の浪費も、セドリックの契約も書かれていない。最初の頁には、南部農場の責任者が記録した豆の収穫量と、乾燥棚を増やすための予算が並んでいた。
表紙の責任者欄には、クラリスの名前が記されている。
**クラリス・ベルフォード――農業技術院総裁。**
結婚によって姓を変える義務は、婚姻契約に入れなかった。ベルフォードという姓には奪われた記憶もあったが、クラリスが十年間つけた帳簿と、砂漠で作った計画書にも同じ名が残っている。家族だけのものにして捨てる必要はなかった。
クラリスは自分の名前の下へ、もう一つの肩書きを書き加えた。
**ナジュム王国正妃。**
それから少し考え、頁の余白へ今日の予定を書いた。午前は南部農場の報告確認、昼食はナーディアたちと食べ、午後は水質検査、夕方には仕事を終える。夜はザイードと、庭に咲いた白い花を見に行く。
扉を叩く音がして、ナーディアが豆の試料を抱えて入ってきた。後ろには若い技術官たちが続き、全員の手に自分の担当資料がある。クラリス一人が働かなければ止まる組織ではなく、彼女が休んでも、それぞれが考えて動ける技術院になっていた。
「総裁、ご結婚おめでとうございます。さっそくですが、南部の豆について三つ相談があります」
「ありがとうございます。まず、皆さんは朝食を食べましたか?」
「食べました。総裁は?」
「私も食べました。では、始めましょう」
クラリスは新しい帳面の最初の頁を開いた。そこに書かれている名前は、誰かに売られた娘の値段でも、家族の借金を背負う保証人でもない。自分で働き、自分で休み、自分で帰る場所を選んだ女性の名前だった。




