『マヒルの生活』のレビュー
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東京から山形へ異動した佐伯真昼は、仕事の疲労と孤独によって、食事や入浴さえ後回しにする生活を送っている。そこへ現れるのが、203号室の天井裏に以前から潜んでいた三浦である。彼は真昼の許可を得ないまま部屋へ降り、味噌汁を作り、洗濯物を畳み、加湿器の水を替える。監視と不法侵入でしかない行為が、生活を崩しかけた真昼にとっては、自分を生かす世話としても働いてしまう。
本作の中心にあるのは、侵入者が善人だったという種明かしではない。三浦の行為は最後まで侵犯を含み、それを理解している真昼も、社会的な正しさによって彼を排除するのではなく、自分の生活に必要な存在として隠すようになる。三浦も第54話で、階下の生活音が続いていることに安心を覚えると語る。二人は互いを十分に理解したから結び付くのではなく、相手が生活を続けている音によって、自分の孤独を保たずに済む関係を作っている。
ホラーの材料は使われているが、作品の根幹は恐怖ではない。見知らぬ男が天井裏に住み、生活を監視しているという入口はサスペンスに近いものの、脅威の正体を追い詰めたり、侵犯から脱出したりする方向には進まない。恐怖の材料を、歪な共同生活を成立させる人間関係へ転用した作品である。したがって評価すべきなのは、ホラーとしての完成度ではなく、不快さを消さずに安心へ接続した関係描写である。
この作者は、人間関係の変化を感情名だけで説明せず、生活行動へ移すことができている。真昼は当初、管理会社や警察への通報を考える。しかし第7話では、点検に訪れた管理会社へ熱があると嘘をつき、自分から三浦を隠す。第11話では、激しい咳を聞き続けた末に点検口を開け、それまで「天井裏の何か」だった存在の顔を見てしまう。外出先まで監視されていたことには反発しながら、三浦へ薬を渡す。これらは、恐怖が消えたという説明ではない。嫌悪と警戒を残したまま、真昼の判断に三浦の事情が入り始めたことを示す行動である。
特に第25話で、三浦がいない静かな部屋に真昼が味噌汁の器を二つ並べる場面は強い。真昼は自分が依存していると宣言するのではなく、身体が既に二人分の生活を覚えていたことを、自分の行動によって知らされる。その後に天井から音が戻り、「いたんですね」と安堵することで、三浦が不法侵入者から帰宅を待つ相手へ変わった事実が確定する。人間関係と生活行動が別々に書かれているのではなく、生活行動そのものが関係変化の証拠になっている。ここが、この作者の最も明確な才能である。
音の扱いにも同じ長所がある。「ミシ」「ゴホ」は、それ自体には肯定や気遣いという意味を持たない。しかし、同じ部屋での時間を重ねるうちに、相手がいること、体調を崩していること、帰宅に応答していることを知らせる合図へ変わる。『ナミヤ雑貨店の奇蹟』が、隔てられた相手との関係を手紙の言葉によって具体化するのに対し、本作は意味の確定していない生活音を、二人だけに通じる連絡へ育てている。また、『パラサイト 半地下の家族』では家主の不在中に生活空間を占有する行為が、所有と階級の境界を崩す緊張へ使われるが、本作では同じ不在時の侵入が、住人の生活を整える世話として働く。作品全体が似ているのではなく、既存の要素を異なる感情へ着地させられることが、本作の個性になっている。
問題は、作者が苦手なことを書いた点ではない。**得意な人間関係と生活行動の描写を、変化のない反復によって自ら消耗させたこと**である。
第1話から第25話までは、同じ生活圏の中でも場面ごとに関係が進んでいる。通報を考える段階から、管理会社へ嘘をつく段階へ移り、姿を確認し、反発しながら薬を渡し、不在時には二人分の器を用意する。それぞれの場面が、前の場面ではできなかった行動を真昼にさせている。ところが、第25話で依存が行動として完成した後、第26話から第49話までは、異動の打診を保留しながら、帰宅して「ただいま」と言い、天井が鳴り、それに安心する日常が長く続く。反復によって二人の生活が定着したことは伝わる。しかし、その事実は数回で証明できる。
水泳に置き換えるなら、作者は一定のフォームと速度を崩さず、同じタイムでターンを重ねている。最初の数本では安定した技術として評価できるが、読者が次に確認したいのは、ペースを上げてもフォームを保てるか、疲労した時にどう修正するか、最後にタイムを縮められるかである。同じ速度を維持できることを24話近く示しても、新しい能力の証明にはならない。
「日常は簡単には変化しない」という説明も、この構成を支えられない。登場人物の生活が変わらないことと、その期間をすべて読者へ同じ密度で見せることは別である。小説は生活記録ではなく、作者が見せる時間を選んで作るものだ。変化のない数週間を数行で進め、三浦の返事を真昼が初めて要求した日、隠すことに負担を覚えた日、生活音が返らず怒った日、三浦側の依存が露呈した日だけを残すこともできた。作者が人物の時間と、読者へ渡す価値のある時間を区別できていないため、日常の定着が作品の停滞へ変わっている。
また、反復が長く続くことで、初めは人間関係を動かしていた味噌汁や床の軋みまで弱くなる。最初の味噌汁は侵入の証拠であり、同時に真昼が失っていた食事でもある。第25話の二つの器は依存の自覚を生む。しかし、その後も同じ作用だけを与え続ければ、味噌汁は人物の変化を示す行動ではなく、この作品らしさを知らせる記号になる。本来の長所を使い続けた結果、その長所から驚きも発見も失われている。
例外は、反復そのものに後から別の意味が生じる場合である。物語終了直後に三浦が真昼を殺し、各話の日付、買い物、咳、真昼の勤務確認が殺害までの準備や期限に対応していたと判明するなら、同じ日常は後から読み替えられる。もちろん殺害である必要はないが、反復の裏で進んでいた別の目的や変化が、各場面へ個別の意味を返さなければならない。そうした仕込みがなければ、長い反復は伏線ではなく、本当に同じ状態を繰り返した時間である。
三浦は真昼を支える役割としてはよく働いているが、一人の他者としての面倒さが薄い。長期間の天井裏生活をどう維持しているのか、食料、金銭、排泄、入浴、匂い、物音をどう処理しているのかが見えない。これは天井裏暮らしの設定を現実的に解説しろという話ではない。管理会社の点検を発覚の危機として使い、最後には真昼がこの生活を選ぶ以上、発覚を避ける仕組みと、共存によって真昼が負う制約は人物の選択へ関係する。
三浦を受け入れても、生活費が増えず、衛生上の問題も起きず、来客や私生活も妨げられず、隠匿の精神的負担も増えないなら、真昼が選んだものは現実の他者との共同生活というより、味噌汁と生活音を供給する便利な気配に近づく。侵犯性だけでなく、誰かと暮らす煩わしさまで描かれて初めて、真昼が東京への異動を断る決断に重さが生まれる。
この作者には、設定を増やさなくても人間関係を動かせる素地がある。薬を渡す、点検口を開ける、器を並べるという小さな動作だけで、相手への認識と距離を変えられているからだ。したがって、成長の方向は派手な事件や新人物を追加することではない。同じ生活行動を再び使う際に、その意味と結果を更新することである。
最初の「ミシ」は不審な物音、次は存在確認、その次は返事として扱える。さらに進めるなら、真昼が返答を待つようになり、鳴らなければ苛立ち、三浦が応答を拒み、音を鳴らすこと自体が二人の交渉になる。味噌汁も、最初は勝手な世話、次は感謝、さらに次は真昼が作る側へ回る、三浦が食べない、材料費を巡って衝突するというように、人間関係を別の段階へ運べる。生活描写を減らす必要はない。変化を生まない生活描写だけを選ばないことが必要である。
この作者は、同じ空気を維持する力については既に証明している。次に必要なのは、その空気へ負担や要求を加えても、人物の繊細さを失わずに書けることを示す段階だ。そこまで進めば、生活行動と人間関係という現在の長所は、静かな雰囲気を作る技術から、物語全体を動かす技術へ成長する。現状の最大の問題は才能が足りないことではなく、才能を変化の証明へ使わず、同じ状態の維持へ費やしていることである。




