『シドの国』のレビュー
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『シドの国』の文章が最も強く働くのは、人物の身体と周囲の環境が直接ぶつかる場面である。暴風が体力を奪い、泥濘が足を絡め取り、高気圧や熱波、酸素の欠乏が視界と判断を狂わせる。風景は世界観を飾る背景ではなく、人物の進行を妨げ、取れる行動を減らす敵として働いている。戦闘においても、後退した瞬間へ距離を詰める、喉元を狙った手刀を倒れ込むように避けるといった、動作と反応の順序が追える箇所には確かな躍動感がある。異常な世界を説明するより先に、そこへ放り込まれた肉体の苦しさを読者へ渡せることが、本作の文章に備わった大きな力である。
一方で、新しい国、制度、競技、犯罪が登場するたびに、地の文が要人詐称罪やゲームの規則などを先回りして説明するため、人物が異常を発見し、誤解し、試し、失敗する時間が短くなっている。情報自体は豊富であるが、その豊富さが場面の途中へまとまって流れ込むため、読者は「何が起きるのか」を追う状態から「この制度はどういうものか」を読む状態へ戻される。難読漢字やルビも作品の重厚さと異様さを作る反面、連続すると出来事より語句の解読が先に立つ。視点人物へ寄っていた最中に、作者による一般論や事実の訂正が差し込まれる箇所もあり、人物と一緒に世界を経験する感覚を切断してしまう。
台詞にも同じ問題が及んでいる。人物の倫理観や悪趣味、正義への距離が剥き出しになる発言には個性があるが、制度や能力を説明する役まで台詞へ担わせると、地の文と会話が同じ情報を別の形で渡すことになる。本来ならば、台詞は相手を挑発する、騙す、安心させる、責任を押し付けるといった人物間の作用を担い、地の文は声に出せなかった恐怖や身体の反応を担うべきである。説明を減らすことだけが修正ではなく、情報を人物の判断、失敗、駆け引きへ変え、文章の中で実際に働かせる必要がある。
作品の最大の魅力は、一つ一つの国や制度を、その場所だけで成立する異様な娯楽として作り出せる発想力にある。笑顔を強制する教会、人間と人形を分ける研究施設、臓器を賭ける医療機関、人肉を料理へ変える悪趣味など、訪問先ごとに別種の嫌悪と好奇心が用意されている。主人公側も正義によって悪を討つのではなく、復讐や加虐を娯楽として選ぶため、一般的な勧善懲悪とは異なる読み味が生まれている。使奴の解放を願うハザクラと、悪党をいたぶること自体を楽しむラルバが同行することで、「正しい目的」と「正しくない手段」が最初から同じ旅の中へ置かれている。
また、物語が進むにつれて、使奴の解放という目的は、正義を掲げた集団自身の暴走、支配欲への変質、旧文明から埋め込まれた命令との対立へ広がっていく。ハザクラが善良な王ではなく、汚れ役を引き受けてでも世界を自分の望む形へ近付けようとする人物へ進む構想には、本作を単純な悪党退治から政治と統治の物語へ発展させる可能性がある。使奴もまた、被害者であると同時に人間を圧倒できる存在であり、救済される側と恐れられる側を同時に背負っている。この矛盾は、作品名である「シドの国」が、使奴だけの安全地帯を意味するのか、人間と同じ一人種として暮らせる国家を意味するのかという、物語全体の問いへ繋がっている。
しかし現在は、国ごとの異常と攻略法が強い反面、前の土地で起きたことが次の土地の条件になりにくい。事件を解決して移動すると、次の国では新しい制度と敵が立ち上がり、物語の圧力も一度組み直される。ラーメンの調理過程に『土器を焼く』と『食べ終わったら土器を叩きつけて壊す』が入っているような感じである。読後感が悪いからと忘れるようなセッティングをした代償としてこうなってしまうのだ。移動中のトランプも、人物の思想、占い、後の選択、次の国の予兆へ接続されれば旅全体を繋ぐ記号になるが、単なる日常として終われば移動距離を埋める時間に留まる。浮遊馬車も便利な乗り物として置くだけではなく、なぜ航海ではなく陸路が選ばれ、旧文明の崩壊が地理、物流、水、国境へ何を残したのかまで背負わせてこそ、この世界にしか存在しない移動手段になる。実際に水辺の汚染や旧文明の廃棄物が怪物を生んだ土地は用意されているため、素材不足ではなく、それらを旅の因果へ統合し切れていないことが問題である。
オーバーテクノロジーを以てしても、政治学的な根本問題(人間の欲望と社会の業)は絶対に解決できない。というものの象徴としてヴァルガンがいたり、イチルギの責任放棄等も近しいものだ。
先ずこれの問題は単純な構造ではない、政治的結果は一朝一夕では出ない、WW1後のドイツによるデフレ政策なんかは後から成果を出したり、産業革命も結果が出るまでにそれなりに掛かり、当初の伸びはかなり小さい。
細かい箇所で引っかかるものもある。
ガナタアワシャ大統領の善人の取り合い理論、「汲んだ水を飲むべきか、作物に撒くべきか。互いに世界を良くしようと藻搔いているからこそ、互いに譲ることはできない。今飲まなければ乾いて死んでしまう。だが作物を育てなければ飢えて死んでしまう。そんなところで見えない綱引きをしているからこそ、答えは永遠に出ない」だが、志の違う善人なら譲歩出来るけど善人ですらないのが現実としていて譲歩出来ないから人間賛歌寄りになると判断している。しかし比喩としては釣り合いがとれておらず、もっと言うなら作物を変えるなりが出来る後者が譲歩すべき案件であって比喩としては方向性はあってるけど変数を固定してないせいで計算式で言うとy=x-1みたいな式になり、これを自分の身の可愛さ等が含まれないのは少し残念になってしまう。
次にデクスの支配の定理に関して、「高いモンが欲しけりゃ偉い奴に頭下げるしかねー。強い奴はより偉く、弱い奴は貧乏のまま。チケット制に縛られる馬鹿の中で上手く上下関係が保てるようにできてやがる」「これが経済の食物連鎖だ。王が愚民を支配し、その中でも強い愚民が弱い愚民を支配する。通貨の支配っつーのは、人の支配と同義」これにも問題があり、人間の支配の根本はメディアである、メディアは媒体全般のことで、それには会話や通貨も当然視野に入る、通貨を操作することは可能だし、人間も操作は可能だけど、人間が操作出来たところで自然や国全体に溜まる問題は解決できないから経済的問題は続くってだけで人間も通貨もマクロではあるけど最上位にあたる経済からは程遠い。これが外貨なのか、国内の通貨なのかなどの細かい箇所で突っかかるのもそうだが、国民に並び立つスケールは経済であって通貨と言われると若干の疑問が残る。
次は世界ギルド周りで、「邪の道の蛇自らポポロを招き入れ、自ら権利を差し出すならば抵触したことにはならない。そして一度でも権利を渡してしまえば、今度は他国からの調査を侵略だと言いがかりをつけて突っぱねることが出来る。弱者を守るはずの防壁が、弱者を逃さぬための檻となるのだ」に関してだが、国際条約って閉鎖的貿易環境だとどう足掻いても弱みにしかならず、無理矢理血管繋いで誰か死んだら死ぬよみたいな連鎖的な方式であるグローバル化で行うことで消耗戦に持ち込むことが出来る切っ掛けになる。戦争に対して抑圧の同盟を仕掛け、これって他者に血液を分け与えて成長を活かせずに消耗するか、消耗し続けて抑圧故に対立関係をそれぞれ悪化させて加害させるとか、そもそも国際条約自体は非常に脆弱といった内容が不足していないだろうか。
その様な細かい箇所で政治というセンシティブなものを扱う以上一般論で終わらせてしまうとつまらない、私は政治的な問題を記事にする際は細かく科学的背景、社会的背景を提示、解決方法を用意したり悪化するであろう問題を予想する、転売ヤーを放置すると不良在庫のゲーム機を敵国に買われ弾道ミサイルの材料になったりとか、建材を転売するためにシンナー類の管理を怠り火事が多発するとか、そういう細かい推論や知識により今後を予想するのが為政と学術であり、一般論で留めてしまうのは良くない。
改めて言うと、比喩に縛られ過ぎである。前回と今回は調べたら動画投稿者で、それもそれなりに有名な人物である一方で、その動画は例え話が多くそれこそ分かり易いが易化による対価がそこに発生してしまい、その一方で推論や発展、推測というものが多く、ここで最初に戻して異様な娯楽として色々な作ったというアイデア力の強みを政治面において発揮出来ていないじゃないか、という損失を感じてしまう。




