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色んなウェブ小説をレビューしつつ最終的に雑誌を作りたい話  作者: 伊阪証


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「悪役令嬢の見た夢」のレビュー

https://kakuyomu.jp/works/822139844092799794


本作の文章で最も優れているのは、視点が一貫して母親の歪んだ認知へ寄せられていることである。娘を苦しめている事実を書きながら、語り手自身はそれを教育、心配、愛情として受け取っている。そのため、文章が事実を説明するより先に、言葉の選び方そのものが母親の嫉妬、被害者意識、自己正当化を露呈させている。読者は母親の主張を聞かされながら、その主張とは反対の事実を読み取ることになる。この「語っている本人だけが、自分の醜さを理解していない」という距離が、信頼できない語り手として強く機能している。

現実の場面に置かれた生々しい描写も有効である。介護中の排泄を「じょわわ」と書く箇所は、単に老いた母親の状態を伝えるものではない。自分を愛さなかった母親を世話しなければならない惨めさ、嫌悪、疲労が、視点人物の選んだ音として現れている。リアルな事を言うとじょわわとか音がする時点で結構若くして老いた厄介なタイプである。娘に対する言葉も同様であり、「恋に憧れればそんな風に愛されるわけがないと教えてあげた」という言い分には、娘を守ろうとする母親の理屈と、娘だけが愛されることを許せない女の嫉妬が同居している。感情を別途説明しなくとも、何を見て、どのような言葉へ置き換えたかによって、人物の内側が読める文章である。

地の文と他者の台詞が異なる情報を渡している点もよい。母親の地の文は「自分は悪くない」という物語を築き続けるが、夫の言葉、娘の歌、ゲームの内容は、その物語へ外側から亀裂を入れる。とりわけ、娘の子守唄によって夢の中のヒロインと現実の娘が接続される場面では、母親が作った悪役令嬢の物語へ、娘本人の記憶が侵入してくる。説明によって真相を開示するのではなく、母親が排除したかった声を聞かせることで、妄想と現実を衝突させている。

文章は比較的追いやすく、現在の場面、過去の記憶、悪役令嬢の夢がそれぞれ何を示しているかも判別できる。複雑な技巧によって読者を迷わせる作品ではなく、母親の言葉をそのまま読ませながら、読者だけに嘘を見抜かせる作品である。狂気を難解な文章で飾らず、日常的な言葉の中へ置いているため、特別な怪物ではなく、現実にも存在し得る親としての不気味さが残る。


毒親と悪役令嬢を結び付けた発想そのものは非常に強い。毒親は子供を独立した人間として扱わず、自分が望む結末へ動かす存在である。悪役令嬢ものもまた、登場人物をヒロイン、攻略対象、婚約者、敵役という配置で捉え、その役割によって行動を解釈する。本作の母親は、現実の娘を自分の思い通りに操作しながら、夢の中でも娘を「身分を弁えず男を誘惑するヒロイン」という役へ押し込んでいる。現実でも夢でも、娘本人の意思を認めず、自分の物語に必要な役だけを与えているのである。

ゲームの中に悪役令嬢が存在しなかったという結末も、この構造を鋭く切り返している。母親は自分を悪役令嬢だと思うことで、物語に与えられた役を演じただけだと責任を薄めていた。しかし、実際にはその役さえ存在しない。彼女は物語に強制された悪役ではなく、自分の嫉妬によって娘を傷付けた、ただの悪である。

毒親の本領発揮というのは謝罪さえ「ここまで苦しんでいる私」を慰めてもらう道具へ変え、反省を責任逃れに使う。そのしぶとさこそが、毒親という題材の物語上の強みである。悪役令嬢もまた、断罪されて泣くだけの存在ではない。婚約、家柄、評判、法律、使用人、友人、世論といった社会的な関係を使い、自分の立場を守ろうとするから物語を動かせる。自分が不利になれば相手の出自を責め、証拠を突きつけられれば陰謀を疑い、味方を失えば新しい被害者像を作る。その抵抗によって周囲の人物にも選択が生まれ、誰が庇い、誰が離れ、誰が告発するかが決まっていく。悪役令嬢の装飾や断罪場面だけを借りても、この社会的なしぶとさがなければ「令嬢」という役割は物語を動かさない。

本作では、母親が「悪役令嬢は自分だった」と気付いたところで、その後の抵抗が描かれない。だが、この人物ならば、そこで素直に罪を引き受けるより、「娘が私を悪役にした」「夫が娘を甘やかした」「母親から愛されなかった私の方が被害者だ」「娘にも悪いところがあった」と、現実を使って新しい筋書きを作る方が自然である。最初の妄想が壊れた後、さらに粗悪な第二、第三の物語を作り、それも外側から壊される。そのたびに母親の言い訳が醜くなり、娘への愛情だと思い込んでいたものが、自分を守るための所有欲であったと剥がれていく。そこまで進んで初めて、毒親と悪役令嬢が一つの人物として噛み合う。

夫による告発、警察や検察の事情聴取、学校関係者の証言、報道、世間からの批判なども、社会問題を追加するために置く必要はない。それぞれを母親の自己正当化へ圧力をかける装置として使えばよい。夫が娘の苦しみを証言すれば、母親は「何もしてくれなかった夫が責任を押し付けている」と返す。娘の友人が恋愛を妨害された事実を語れば、「幼い娘を守っただけ」と教育へ置き換える。世間から非難されれば、「事情を知らない人間に石を投げられる私こそ悪役令嬢だ」と、再び物語の主人公へ戻ろうとする。外部の人物を増やすことが目的ではなく、どれほど事実を並べても自分を可愛がる母親の異常さを、選択と反応によって見せるのである。

この過程があれば、周囲の人物も母親を説明するためだけの証言者ではなくなる。夫は娘を救えなかった責任と向き合った上で妻を告発するのか、家庭の体面を守るために黙るのかを選べる。娘の友人は死者の秘密を守るか、母親の嘘を壊すために公表するかで迷える。母親を育てた祖母も、自分の行為を認めるのか、娘と同じように責任を転嫁するのかを迫られる。毒親の連鎖が、設定の説明ではなく、人間同士の判断として現れる。そこでようやく、母親一人の妄想から、人間ドラマへ広がっていく。

現在の結末は、異常な人物の内面を発見したところで止まっている。『TAR/ター』のように、異常者が自分の世界を失っていく様子だけを眺める構造にはなっているが、『セッション』のように、その異常性が他人の執念、怒り、才能、選択まで引き出すところには至っていない。異常者を描くことと、異常者によって物語を動かすことは別である。本作は前者には成功しているが、後者へ踏み込む前に幕を閉じている。

したがって、「ゲームの中に悪役令嬢はいなかった」という発見は、本来なら答えではなく最後の攻防を始める言葉である。自分には役がなかったと知った母親が、それでも現実の人々へ役を押し付け、自分だけは悲劇の主人公であろうと足掻く。その筋書きを夫、娘の記録、友人、司法、世間が一つずつ拒絶していく。最後まで拒絶された末に、それでも娘を責めるのか、初めて自分の行為だけを見られるのかによって、結末が生まれる。

悪役令嬢と毒親という邪道な二要素は交差しているが、その異常者が他者を動かし、他者との衝突によって普遍的な人間ドラマへ辿り着く王道までは描かれていない。邪道な設定は王道の為の接続として存在するのが基本な以上活用できているとは言えないのだ。

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