4-3 悪人の恩人
①
大橋は未だその身を輝かせることを許されず、深い夜の暗がりへ、海水で湿らせた風が吹いていた。約800メートルもの巨大さを携えた橋の片隅で、魔法使いは黒い眼帯の下で涙ぐんでいた。
想い人か世界中か。どちらかの命を差し出すという選択を、瞬間的に決断できないほどに、高校生の彼は若かった。
もしも魔王のように、人間の醜さだけに注目して生を送っていたならば彼女の命を選択することに迷いはなかったのかもしれない。
しかし星都ソラは様々な人間と出会い、そして守られている。
本当はどちらを選択するのが正しいか──そんなことは既に頭では理解できていた。
ただその答えを示す──引き金を弾くことができないままだった。
「おい。俺の身体ももう限界だ。早く決めろ」
緩やかに自分の身体から霧散していく黒い塵を、湿った風の中へ流しながら、柱に背中をつき座る瀕死の魔王が答えを急がせた。
「はぁ……はぁ……クソっ!! 決められない……!!」
魔王へ突き付けていたソラの持つ銃は震え、左手のほうで露わになっていた右目を覆い隠し、自分の戸惑いも闇へ隠した。
瀕死の魔王は横になりながら、銃を構える魔法使いを追い詰めている。
────この銃弾は、魔王ばかりか彼女の命を撃ちぬくことと同意だ。
まるで聖真白を自分が殺してしまうような錯覚が、時間を掛けるほどにソラには重く圧し掛かっていた。
「悩まなくて、いいですよ」
背後から彼女の優しい声が聞こえた。
真白へ視線を向けたソラの瞳に飛び込んできたのは、先刻、民間人へ威嚇の為に放った一本の剣だった。彼女はその剣を地面から引き抜き、グリップを握っていた。
彼女が何を行おうというのか──思考よりも先に、身体中に走った悪寒がそれを知らせていた。
血の気が引く絶望感に襲われ、彼女が握る片手剣へ向けてソラは右腕を伸ばし、意識を通わせようとするも──彼女は刹那で自分の首を切った。
「──真白さん!!」
血は噴き出さない。代わりに記号の集合体である黒い塵が、切れ目を入れた彼女の首から吹き荒れていく。真白はそのまま倒れ込むと、地面に着く前にソラに身を抱かれた。
「何で……何で……!!」
「……ほら、私……ドMなので……」
死に至る激痛の中で、彼女は微笑んだ。浮かべていた涙は痛みによるものではなく、ソラとの別れを悲しむ為に流れていた。
「回復……回復するんだ! 回復魔法持ってるじゃないか!」
「ふふ……使わない……です……私……死ぬように……消えるだけで……死なないんですよね?
それに……回復した……ら……魔王の思うツボで……貴方がもっと悲しむことになってしまう……」
ソラは左腕の中へ、横たわる彼女の上半身を収め、右手で彼女の手を強く握り、涙を彼女の頬へ落とした。
プログラムである彼女は何度でも再生可能だと──本当の意味では死なない存在だと理解しながらも涙は止まらなかった。
「泣かないで……下さい……こんな状……況でも……私興奮してるんです……まるで……ソラさんの剣で斬った……愛する人に斬ってもらったような……そんなプレイを……してもらった……みたい」
温かい微笑みを崩さない彼女が無理をしているのか、本心を語っているのか。ソラには区別がつかなかった。
それでも、悲しみに暮れて何も言葉をかけてやれないことだけは間違いっていると、それだけは理解できた。
眼帯で塞がった左目からも涙をボロボロと溢れさせながら、ソラは苦い笑顔を作って言葉を吐きだした。
「あはは……全く僕ら……どうしようもないカップルだね……」
「えへへ……本当ですね……私たち……お似合いの変態カップルです……よねぇ……」
「……僕が君を斬った。僕が君の首を斬ったんだ」
「わぁ……絶頂……しちゃいます……」
「はは……僕、未経験なのにテクニシャンだね」
「ふふふ……きっと……相性が……良いんです……」
ソラは笑いながら落とし続けた涙を、学蘭の袖でグイっと拭った。
「いつも会いに来させてごめんね。今度は僕から会いに行くから」
「……また……会えますか?」
「うん。魔王から君を奪う。絶対に。約束する」
「じゃあ……楽しみに……待ってます」
ソラのほうから唇を重ねた。唇に少しの間、柔らかい感触が当たっていたかと思うと、その内に空気が口先へ触れる感触に変わった。
彼女の唇が当たる温かさから、吹き荒れる風が唇を冷やすと、彼女の姿は消えていた。
「──これで交渉材料はなくなったな」
ソラは立ち上がり、背を向けたまま表情を学帽の鍔で隠すと、言葉だけを魔王へ放った。
「あぁ全く残念だ」
横たわる魔王は余裕さを失くさないまま、軽口を叩いて見せた。
「逮捕されればパソコンが押収されるだろう。その中から彼女のデータを頂くよ」
「馬鹿が……異世界化を行えるのは俺だけだ」
「何とか……何とかするさ……」
「ククク……存在しない相手と恋に落ちるなど……余程、現実には興味がないらしいな」
「……それも間違っちゃいない……かな」
「中途半端だな……全ては悪で出来ているという概念で己を構築してしまえば、それこそ苦労のない扉が開かれるというのに。
孤独に苦しみ、恋や愛などにも未練を持たず、様々な劣情から解脱できるのだがな」
ソラは再び魔王へ歩み寄る。帽子の鍔陰から魔王を見下ろす。
「人間全てが悪で、僕も悪で、だから何もかも要らない。何もかも自分も消えてしまえばいいって?」
「そうだ」
「ははは……大人は若者の言葉を知らないんだな」
「……何?」
ソラは再び魔王へ右腕を伸ばし、銃を突き付けた。
「そういうの、厨二病って言うらしいよ」
「…………ッハッハッハ!! 言ってくれる!!」
「──それとそうだ。僕はお前に会ったら絶対に言わなきゃと思ってたことがあるんだった」
「ほう? 何だ?」
「────僕を救ってくれて……有難う」
陰鬱の中に閉ざされ、その暗闇の中で魔法を手にした。魔法は自分を輝かすに至ると思われていたが、それは更なる深い孤独への入り口でしかなかった。
其処から救い出したのは、世界を異世界化させ多くの人間を殺し、魔法という存在が輝けるだけの場所を用意したのは、目の前に居る大量殺人犯に他ならなかった。
「……全く……滅茶苦茶なガキだ」
「……ありがとう……さようなら」
──七色橋の上で銃声が五回鳴った。
長い余韻を持って、その音が響き渡る。
余韻消し去らないままにソラは、「夢夢……居るんだろ?」と言葉を落とした。
橋の下にずっと隠れ待機していた夢夢が、ふわふわと三日月に乗って現れた。
「……ご苦労様ですぅ」
「ふふ、珍しく労ってくれるのかな」
「ふぅ……まぁ今回ばかりは、確かによく頑張ったと思いますよぉ」
「……ありがとう」
夢夢が腰を振り、動かなくなった魔王から綿を取り出す。割り箸に刺した綿夢を土星のデザインされた白いパンツの中へしまい込む。
「ソラ様ぁ。バクは寿命がありません。恐らく死ぬ時は餓死です」
「……ははは……どういう意味?」
「直ぐにまた遊びに行って差し上げますよお」
「……また小馬鹿にされるのかな」
「えぇ……ソラ様に訪れた不幸を一緒に笑ってあげますよぉ」
「……それは……凄く助かるなぁ……」
ソラが涙を滲ませる傍らで、夢夢は白黒の扉を取り出す。
夢喰いの獏が消え去った後、大橋はその身をライトアップさせた。
東京都全体に蔓延っていた全ての魔物が消え、異世界化は黒い塵と化した。
魔法使いの長い長い一日が、ようやく終わりの姿を見せたのだった。
②
七色橋の上で軽快な音楽が鳴った。魔法使いは疲労で橋の上へ寝そべると、ズボンのポケットから音の鳴る携帯電話を取り出した。
画面には『松平』と表示されていた。
「──もしもし」
『おう坊主! お前異世界化を終わらせたのか!? やるじゃねぇか!』
「ありがとうございます……魔王……どうでした?」
『あぁビンゴだ! 捕まえたぞ! 黒川真央! お前らの言ってた外見特徴と全て一致してる』
「……偽物と本体の姿を分けなかったんですか……」
『あぁ、犯罪者ってのは出来る奴ほど余計な手間を省く。捕まる時はどうせ容姿関係なく捕まるって理解してんだ。だから別の外見に装うことを辞めたんだろうよ』
「なるほど……」
『お前、七色橋に居るだろ?』
「え、何で知ってるんですか?」
『馬鹿デカい竜と魔法使いが七色橋で戦ってるって情報が結構前から入ってた。水髪がそこへ向かってる。もう少し待ってろ』
「わー……それは大変有難いです……もう動けないです……」
『ははは! ホントお前はよくやったよ!』
電話を切り、交通のない橋の上へ大の字に身を広げ、魔法使いは満天の星空と向かい合った。
「はー……終わった……」
安堵を零す少年の元へ、一台の黒い車が駆けつけた。中から現れたのは、防護服を纏った男四人組だった。後部座席に身なりの良い初老の男が乗っているが、車を降りては来ない。
ただならぬ雰囲気を感じ取るとソラは身体を起こした。
「……どちら様ですか?」
「……連れていけ」
問いかけに応えない黒づくめの四人組の対応を受けて、ソラは瞬時に理解した。魔法の正体を知ろうと思う者が漁夫の利を狙っての行動である。
魔王と魔法使いの所在は掴めない。所在を掴むとすれば、今回のように特例で魔王が異世界化される土地を予告し、その土地で包囲網を張り巡らせる。
松平という警察組織に自分の戦闘場所が伝わっているならば、僕の居場所を探ろうとしている者にも伝わっていても当然だと考えられる。
魔法などの能力を欲しがる第三者は、魔法使いと魔王のどちらかがギリギリの状態で生き残ることを狙っていた。
満身創痍の魔法使いならば攫うことが出来る。その理想的展開に車を走らせてきたのである。
ソラはそこまでを推測すると重たい身体を引きずり、両腕を伸ばして魔法陣を広げた。
────人を攻撃するのは嫌だ。
直ぐ様、懸念を浮かべた魔法使いは普段のように片手剣を練り出すことが出来なかった。
────逃げるか。
しかし、東京都の空を飛べば何処に貼られているかもわからない包囲網に目撃されるに違いない。ひょっとすると、このまま真っ直ぐ家に帰っては、自分はずっと尾行されている状態にあるのではないだろうか。
戦うことも逃げることにも迷いを見せる少年の元へ、もう一台の車が豪速で駆け付けた。
その車はトラック型で、車体をシーグリーン色に塗った車だった。
停車するや否や、黒い防護服が三十ほどの数の量を出し、ソラではなく四人組の元へ銃を向けて陣を作った。
「貴様ら! 何処の所属だ? こっちはお前らより上の人間から命令を賜っている」
四人の内、一人の男が大声で言った。
三十の黒づくめの男たちの中から一人の男が、四人組の男たちの前へ出ると、顔を覆うヘルメットと黒い布を取った。
「水髪さん!」
水髪は四人組の男へ敬礼する。
「自分は池袋署の水髪という者であります!」
「刑事だと? それならば、あの少年の身柄はこっちに渡してもらう。後で通告が行くだろう」
「いえ、それは出来ません!」
「貴様ぁ! 職を失いたいのか!?」
「どちら様か存じ上げませんが、自分は刑事です! 刑事である以上、犯罪者を野放しにするのは、職務違反に当たります!」
「犯罪者? あの魔法使いが? 一体何の犯罪を犯したというのだ?」
──銃刀法違反の現行犯です。と水髪は大声を上げた。
「恥ずかしながら、自分は魔法使いに銃を奪われ、それを奪回しに参りました!
あの魔法使いは銃刀法違反を始めとした、幾つかの犯罪を行った容疑者にあります! よって対象の拘束は急務であり、其方が見逃せと仰った場合、犯罪幇助に当たるものと思われますが!」
「──証拠で~す」
ソラが呑気な様子で引き金部分に指を入れ、銃を引っかけながら近寄った。
「貴様ぁ!! そんな理屈が通じると思ってるのか!!」
「犯罪幇助の現行犯として連行されたいですか? 後ろに見える屈強な二九人の男たちが目撃者兼、貴方達の連行をお手伝いしてくれると思いますけど?」
「っく……!!」
ソラには聞き覚えのある声が、「魔法使いめ! こっちへ来い、この野郎!」と、いささか棒読みの大声を上げながら、戦いで破れた学蘭の生地を掴みながら護送車に押し込んでいく。
秋葉原での戦いが始まる直前、代表してソラへ好意を示した隊長だった。
魔法使いもまた、「痛い! 痛いです!」とかなり棒読みの言葉を吐きながら、後部座席の中へ身を入れ込む。
四人組の男と初老の男性を乗せた黒い車が、遠くへ走り去るのを確認すると、護送車もまたゆっくりとタイヤを回し始めた。
巨大な後部座席の中は、賑やかさに満たされていた。
「水髪さん、良いんですか? あの人たちきっと凄い組織の人なんじゃ」
「この後、恐らく君についての報道が暫くテレビを独占する。つまり魔法使い関連の事件には、敏感になってメディアは取り上げるだろう。
自分を何かの権力で警察を追い出したとして、お祭り状態のメディアにそのことを告発したら……そう恐れないわけはないさ」
「それならよかったです……」
荷台の内側に背中で寄りかかり、ソラは大きく溜息を零した。
「少し眠ったら? 一応連行って形だから、池袋署までは運ばないといけないし、形式だけは尋問もさせてもらうけどさ」
「そうします……凄い……眠いので……」
「ホント、お疲れ様」
「おやす……み……なさ……い……」
魔法使いは物騒な護送車を揺り篭にしながら、久しぶりに緊張を解き放って眠りについた。
その眠りは時間の経過感覚を遮断し、予想しないような夢を見るような、そんな極普通の睡眠だった。
六月二三日、土曜日深夜。人類が魔王という大量殺人犯に正義の称号を渡さなかった──後々祝日として設けられるほど歴史的な日を作り出していたのだった。




