二幕
シャロウが顔を上げる。
「新しい契約者の前なら、本来の姿で現れられるかもしれないわ」
「……そしたら、有紗から出られるってことか」
「そう考えているの。試したことはないけれど」
少女は自分の手を広げた。
細い指も、そこにかかる銀色の髪も、有紗のものだった。
「貴方の魂を私に差し出すの。私がこの姿から抜けられれば、この子も元に戻るかもしれない」
「……起きるかどうかも、わからねぇんだな」
「ええ」
少女は、その返事を待つように黙った。
有紗の寝息だけが聞こえる。
明日の朝になれば、起きるのか。
起きなかったら。
その次も、こうして眠ったままだったら。
シャロウは寝台へ向き直った。
有紗の手が、毛布の端から覗いている。
指に触れても、握り返してはこなかった。
「……契約する」
少女の口元から笑みが消えた。
「本気?」
シャロウは黙って頷く。
「だから早く有紗を元に戻せ」
少女はシャロウの顔を見た。
それから寝台の有紗を見て、もう一度シャロウを見る。
「キスはできないのに、魂を差し出す契約を?」
「……早くしろ」
少女はしばらく黙っていたが、やがて唇の端を上げた。
「交渉成立ね」
すると突然、足元から黒い煙が立ち上った。
銀色の髪が煙に隠れ、小さかった角の輪郭が変わっていく。
シャロウは寝台の前に立ったまま、その姿を追った。
煙の中から、大人の女が現れた。
長い髪と曲がった角。黒い衣装をまとった身体を確かめるように、両手を広げる。
「ああ……やっと戻れたわ!」
煙の中に、有紗の姿が残っていた。
銀色の髪の先が、細かな光の粒になる。
頬も、指も、さらさらとほどけ始めた。
「……おい」
シャロウは思わず手を伸ばした。
指先が触れる前に、その輪郭が崩れる。
寝台へ目を戻すが、有紗はまだ眠っている。
「これ、大丈夫なんだろうな」
返事を待つ間にも、立っていた有紗の姿は薄れていった。
最後の銀色が消えるまで、シャロウは伸ばした手を下ろせなかった。
光が寝台へ降りていく。
眠る有紗の髪や頬に触れ、身体の中へ溶け込んだ。
シャロウは寝台の傍らへ戻った。
「……有紗」
返事はなかった。
顔を覗き込む。今度こそ、目を開けてくれ。
瞼が動いた。
有紗は眩しそうに目を細め、ゆっくりと彼を見上げた。
「……シャロウ?」
シャロウはようやく息を吐いた。
返事をしようとして、すぐには声が出なかった。
藤紫の瞳が、こちらを見ている。
名前を呼んだ声も、いつもの有紗の声だった。
「……ああ」
かすれた返事をして、もう一度その顔を確かめた。
寝台の縁を握っていた手から、少しずつ力が抜けていく。
有紗は瞬きを繰り返し、黒いマントを見て、その隣の女を見た。
毛布を胸元へ引き寄せる。
「……どなた?」
「私は悪魔よ。でも今は、こっちの吸血鬼と契約したわ」
「……吸血鬼?」
有紗の視線が、シャロウへ戻った。
マントを眺め、悪魔を眺めるうちに、その頬が赤くなる。
「シャロウ、その人と……?」
「違ぇよ」
「契約って婚約……?」
「違ぇっ!!!」
シャロウは悪魔を振り返った。
「俺はどうなるんだ?」
「まずは刻印を与えるわ」
悪魔の指がシャロウの顔へ伸び、目元へ唇が近づいた、その時だった。
「やめてください!」
有紗が寝台の上で身を起こしていた。
毛布を握ったまま、真っ赤な顔で二人を見ている。
「私のお部屋で、そういうことしないで欲しいです……せめて二人きりとか……そういうことは……」
悪魔の手が止まった。
「……は?」
「おまえ、何勘違いしてんだよ」
「だって……」
「俺はこいつの名前もなんも知らねぇよ。おまえが想像してるのとは違う!」
有紗は怪訝そうに眉を寄せた。
「……行きずりの人?」
「……どこで覚えた? それ」
「違うの?」
「違う!」
有紗は毛布の端を握り直した。
「……もういい。疲れた」
シャロウは深く息を吐いた。
「怒ってる?」
「怒ってねぇよ」
「一回お茶、する?」
「……ん」
悪魔は呆れたように二人を眺めた。
「……なんなの、一体。ちょっと、貴方たち!」
二人が揃って、こちらを見る。
「お姉さんも一緒にお茶を──」
「しないわよ!!!」
◇
「シャロウはお酒?」
「酒はいい」
「じゃあ、香草茶?お砂糖入れる?」
「……少し」
「私はミルクも入れようかな」
「……甘そう」
「おいしいよ」
二人は話しながら廊下へ出た。
悪魔は寝室に立ったまま、その背中を見送った。
「……ちょっと!」
慌てて後を追う。
階下の食堂には灯りがついていた。
卓の一角に、黒い神父服を着た紫音が座っている。
「紫音くん?」
「……おまえも仮装か?」
「本物です。教会の手伝いを頼まれたので」
紫音はカップを置いた。
「皆さん、こんな時間にどうされたんですか?」
「色々あってな」
シャロウが椅子を引き、有紗は湯を沸かしに行った。
悪魔は入口で足を止めた。
「……聖職者?」
「……珍しいお客様ですね。お名前を伺っても?」
「教えるわけないでしょう」
「そうですか」
紫音は悪魔を見たあと、少し長めに目を瞑った。
「ヴェシュラ・アザ=ネリス」
悪魔の動きが止まった。
口元の笑みも消えている。
「……なぜ、その名を」
「子どもの頃、間違えて古い悪魔史を読んでしまったことがありまして」
「……は?」
「いつまで読んでも目当ての昆虫に辿り着かなかったので、不審に思った頃には読み終えていました」
悪魔は、紫音の顔を見直した。
「昆虫?」
「ええ」
「気づかなかったの?」
「角と触角、似てませんか」
「ふざけないで!」
紫音は記憶を辿るように目を伏せた。
「ヴェシュラ・アザ=ネリス。古き悪魔の一柱。人の魂を対価として契約を結び、契約者に恩恵を与えるとされる。容姿は女性の姿を好み、角を有する。契約の成立に際しては──」
「ちょっと待ちなさい!」
紫音が顔を上げた。
「何でしょう?」
「それ、全部覚えているの?」
「一部、曖昧なところもありますが」
再び視線を落とす。
「当人の気づかぬうちに契約を交わしたことにする狡猾な手法は、悪魔の中でも賛否両論──」
「もういいわよ!!」
有紗は茶器を並べながら、感心したように紫音を見た。
「紫音くん、すごいねぇ」
「一生役立つことのない無駄知識だと思っていました」
「……おまえな」
シャロウは椅子の背にもたれた。
悪魔は入口から一歩も入ってこない。
紫音は、その顔を見て続けた。
「真名を知り、かつ、その名と悪魔本人とを結びつけて認識する者には従わなければならない。単に名を伝え聞くだけでは足りない、とも記されていましたね」
悪魔の唇が引き結ばれた。
「間違いありませんか?」
「……ないわよ」
「それでは、まずはお茶を愉しんでください」
悪魔は紫音を睨んだ。
それでも、椅子を引く手は止まらなかった。
静かに座った前へ、有紗が紅茶を置く。
「お姉さんもお茶飲むんだね!」
悪魔は返事をせず、カップを持ち上げた。
◇
ヴェシュラが立ち上がったのは、紫音から研究棟を去るよう告げられた時だった。
「……ああ、そうだ」
シャロウが顔を上げた。
「俺の魂、どうなるんだ?」
ヴェシュラは足を止めた。
「……さあ?」
「さあ、じゃねぇだろ。契約したんだぞ」
「ええ。契約は成立しているわ」
「じゃあ、どうなるんだよ」
「私にもわからないのよ。こんなこと、初めてだもの」
「……おまえなぁ」
ヴェシュラは肩をすくめた。
「でも、契約は契約よ。それだけは覚えておきなさい」
「……ったく」
ヴェシュラは扉へ向かい、振り返った。
「……本当に、変な人間ばかりね」
「おまえに言われたくねぇよ」
シャロウの返事に鼻を鳴らし、悪魔は夜の闇へ消えていった。
有紗はしばらく扉を見ていたが、やがてカップへ手を戻した。
「……帰っちゃったねぇ」
「ええ」
紫音も紅茶を口へ運ぶ。
有紗は黒いマントと神父服を見比べ、小さく息を吐いた。
「私も仮装したかったな。ハロウィン、終わっちゃった」
神父と吸血鬼に囲まれて、有紗だけが普段と変わらぬ姿だった。
「今年は悪魔の仮装をしようと思ってたの……毎年、魔女だから」
「そうだったのか」
「悪魔になりたいなぁって思ってたら、声が聞こえて──そこからずっと寝ちゃった」
悪魔になりたい。
シャロウは、組合で聞いた言葉を思い返した。
「……仮装の話だったんだよな?」
「うん。シャロウも仮装してくれるかなぁって思ってたの」
シャロウは有紗を見た。
「……おまえなぁ」
「なぁに?」
「……いや」
有紗は二人を見て、今度は顔を明るくした。
「紫音くんもシャロウもカッコイイね!」
紫音は自分の服を見下ろした。
シャロウはカップへ目を落とす。
「ねえ、シャロウ」
「なんだよ」
「血、吸うやつやって」
「……は?」
有紗が椅子を寄せた。首を傾け、彼の目の前に迫る。
「こういうの!」
シャロウの手が、カップに触れる手前で止まった。
「……有紗。はしたないですよ」
紫音は静かに有紗を窘める。
「えっ?! 名場面だよ!?」
「舞台上での話です」
有紗は首を戻した。
「そういえば最近、舞台観に行ってない」
「研究が落ち着いたら、行きましょう」
「いつもそれ」
紫音はカップを置いた。
「……来月には行きましょう」
「うんっ」
有紗が自分の席へ戻る。
シャロウはようやくカップを取り、冷めかけた紅茶を飲んだ。
◇
お茶会がお開きになると、三人はそれぞれの部屋へ戻った。
有紗の扉の前で、シャロウも足を止める。
「おやすみなさい。吸血鬼さん」
シャロウは、自分の肩を見た。
「……脱ぐタイミング逃してたな。ずっと」
仮装を断って組合から逃げた。
そのはずが、写真を撮られ、菓子を配り、酒場へ連れていかれた。最後には悪魔と契約までしている。
マントはまだ肩に掛かっていた。
「とっても似合ってる」
有紗が悪戯っぽく笑って、彼の全身を眺めた。
その声に、シャロウは顔を上げた。
坂道で呼んでも、振り向かなかった。
寝台では、ずっと目を閉じていた。
今は、目の前で有紗が笑っている。
シャロウは手を伸ばした。
ゆっくりと抱き寄せると、有紗が彼を見上げた。
「……シャロウ?」
身を屈め、その首元へそっと口付ける。
「……戻って良かった」
「ひゃあっ!」
声が廊下に響いた。
シャロウが身体を離すと、有紗は頬を赤くして首元を押さえていた。
その顔を見て、彼は少し考えた。
「……牙、なかったんだった」
有紗はぱちりと瞬きをした。
それから、芝居がかった仕草でびしりと彼を指さす。
「そなた、吸血鬼ではないな!」
言い終えるなり、有紗は笑い出した。
シャロウも、わずかに口元を緩める。
「……変な日だよな。ハロウィン」
「来年は一緒に仮装しよっ!」
「やらねぇよ。おやすみ」
シャロウは踵を返した。
黒いマントを揺らし、今度こそ自室へ歩いていく。
「……おやすみ。シャロウ」
その背中を見送って、有紗も部屋へ入った。
廊下の灯りが、小さく揺れていた。
◇
後日、組合で写真を見せてもらった。
黒いマントのシャロウが、子どもたちに囲まれて立っている。
隣にいたはずの少女は、どこにも写っていなかった。
「……悪魔の女、いたろ」
「そんなのいたか?」
写真をめくる手が止まる。
他のハンターに訊いても、返事は同じだった。
研究棟へ戻り、紫音にも確かめた。
「悪魔なら、お茶をご一緒しましたね」
「……ああ。その前は有紗の姿してたんだけど、誰も覚えてねぇんだ」
「有紗の?」
紫音は不思議そうに訊き返した。
有紗も、あの女のことは覚えていた。
「お姉さんが、私の姿だったの?!」
あの夜、一緒に町を歩いた少女のことだけが、誰の記憶にも残っていない。
知っているのは、自分だけだった。
写真の中で、シャロウは誰もいない隣へ顔を向けていた。
有紗が横から覗き込む。
「これ、私も一緒に写りたかったなぁ」
シャロウは写真から目を上げた。
「……まぁ、来年な」
ハロウィンに間に合いました^^;




