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雨上がりの商都にて  作者: 久遠 睦


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第十六章 一本の電話

月曜日は朝から雨だった。

昼を過ぎても止まず、夕方には窓ガラスを細い雨筋が流れていた。

美月はいつも通り仕事をした。

九時の会議で報告し、昼に後輩の資料を直し、夕方には取引先へ電話した。

昼休み、佐藤に一通だけ送った。

〈近いうちに、少しお時間をいただけますか。直接お話ししたいことがあります〉

返信は五分で来た。

〈いつでも。水野さんの都合に合わせます〉

それだけの文面に、彼らしい余白があった。

田中とも普通に話した。

「この単価、先方確認した?」

「した。メール転送する」

「ありがとう」

それだけだった。

決めたことが胸にあると、かえって相手をまっすぐ見られない。そんな自分が、少しおかしかった。

六時半、美月が会社を出る頃には雨が上がっていた。

御堂筋の街路樹から、水滴が落ちている。車のヘッドライトが濡れた路面に長く伸びていた。

美月は橋まで歩いた。

一年前と同じ川。

土佐堀川は雨水を含み、少し濁っている。それでもビルの光を揺らしながら流れていた。

美月は橋の上で立ち止まった。

この街で、恋が終わった。

この街で、仕事に逃げた。

この街で、誰かの好意を怖がり、境界線を引き、一人で暮らすことを覚えた。

そして今、同じ街で、自分から誰かへ近づこうとしている。

今度は、しがみつかずに手を伸ばしたかった。

帰宅後、美月は着替え、窓を開けた。

雨上がりの空気が入ってくる。

遠くの道路を走る車の音。どこかの部屋で閉まる窓。生活の音が重なる。

スマートフォンを手に取った。

田中の名前を表示する。

指が少し震えた。止めずに、そのまま押した。

コール音が二回。

「もしもし?」

田中の声。

「田中くん?」

「その呼び方、何。会社みたい」

美月は笑った。

「じゃあ、健二」

向こうが黙った。

「え、待って。今なんて?」

「一回しか言わない」

「もう一回言って」

「嫌」

また沈黙。

今度は気まずくなかった。

美月は息を吸った。

「この前、楽しかった」

「うん」

「それで、また会いたい」

「……うん」

「今度は、私から誘いたい」

電話の向こうで、田中が小さく息を吐いた。

「それ、期待してええやつ?」

美月は窓の外を見た。

雲の切れ間から、かすかな月が出ていた。

「期待していいよ」

声にした瞬間、胸の奥が熱くなった。

それは以前の恋の代わりではなかった。

航平を忘れた証明でも、田中が佐藤に勝った結果でもない。

一年かけて自分の生活を取り戻した美月が、その生活の隣に誰かを招くと決めただけだ。

「じゃあ土曜、空いてる?」

田中が聞いた。

「空いてる」

「どこ行く?」

「それは一緒に決めよう」

「了解」

電話を切ったあと、美月はしばらくスマートフォンを握っていた。

部屋は静かだった。

けれど、その静けさはもう、誰かに埋めてもらうための空白ではない。

窓の外で、大阪の灯りが雨粒を残した街路に反射している。

雨はまた降るだろう。

恋をすれば、傷つくこともある。仕事で失敗する日も、誰かと分かり合えない夜もある。

それでも、雨のあとには街の輪郭が少しだけ鮮やかになることを、美月は知っている。

窓の下を、濡れた路面を踏んでバスが通り過ぎた。ライトの帯が、水たまりの上をゆっくり伸びて、遠ざかっていった。



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