第二話
微睡に揺蕩う暗闇で、誰かがめいを呼んでいる。
呼ばれていることはわかるのに、暗闇が深くてなかなか目が開けられない。
「…の、あのっ……っかり!」
誰かの手が肩にかかり、ゆるゆると揺さぶられる。
反応がないせいか、どんどん強く揺さぶられ、とうとう揺れに耐えきれなくなっためいは目を開けた。
「あ、良かった。気分でも悪かったの?」
目に飛び込んできたものが信じられず、めいはポカンと口を開けてしまった。
(おぉ…メイドさんだぁ)
めいをのぞきこむのは、栗色の髪を二つに結んだ少女だった。濃紺の動きやすそうなワンピースに、真っ白なエプロン。あちこちにフリルがあしらってあり、かわいらしい。
「ほら、早く着替えないと間に合わないわ」
言いながら少女は座り込むめいを引っ張りあげ、すぐ近くの部屋に押し込んだ。
そこは衣装部屋―――それも、メイド服がたくさんかかっている。どうやらメイド服用の衣装部屋らしかった。
「奥へ行くほどサイズが大きいそうよ。あなたならこの辺でいいんじゃないかしら」
少女が手渡してきたワンピースは、ちょうどMサイズといったところか。
「え、えっと、これって…」
「何よ? 一人で着られないほどお嬢様じゃないわよね?」
訝しげに言う少女に慌てて首を振り、とにかくめいは着替えることにした。
―――どうやらここは、あの男の言った異世界らしい。
言いつけられた廊下の窓を拭きながら、めいは思考をめぐらせた。
大きな窓をはめこんだ窓枠には、細かな装飾が施されている。そこには立派な鬣を持つ獅子が彫られており、男が見せてくれた聖獣に良く似ていた。
「メイ、貴人がお通りになるわ」
ナタリーと名乗った少女がメイの袖を引っ張った。
一瞬、何のことかと首をかしげたが、ナタリーが深々と頭を下げスカートの裾をつまんだのを見て、慌ててめいも倣った。
「ハルキ様は本当に素晴らしい方でいらっしゃる。歴代の守り人の中でも後世にその名を残されることは間違いないでしょう」
「……いえ、そんなことは」
びくり、とめいの身体が震えたが、頭を下げているナタリーも通り過ぎる二人の貴人も気づかなかった。
顔を上げて、声をかけてしまいたい。
先輩、帰りましょう。
あのわけのわからない男を私が取っ捕まえるので、一緒に帰りましょう。
―――私の名前、まだ憶えてますか。
喉元まで込み上げる悲鳴にも似た思いを、必死の思いでめいは押し止めた。
男はどうやら、狙ってめいをここへ落としたようだ。
多くのメイドが働く城とはいえ、聖獣をまつる大切な場所だ。素性の知れない娘が働けるわけもない。
「ああ、あなたがルドルフ様の言うメイとやらですね」
メイド頭に会うなり、そう言われたのだ。ルドルフという名に覚えはなかったが、きっとあの男だろう。
「いきなりの推薦状でしたが…ルドルフ様のご推薦ということで、ラスディラーン様のそば近くに働ける栄誉を賜れたのですよ」
世間では単に『聖獣さま』と呼ばれる白ライオンは、この城ではラスディラーン様と呼ばれるらしい。
いくら推薦状があろうと、城にあがったばかりの娘がラスディラーンの世話役に就かされることなど有り得ない。そこにはルドルフがもつ影響力の大きさがあるのだが、その異質さや偉大さにめいが気づくはずもない。
「……精一杯、努めます」
めいは、人懐っこいとよく言われる。あまり人に警戒心を抱かず、抱かせず、すぐに打ち解けることができる。
その気質をめいっぱい酷使して、めいは情報を集めた。
里見は、昨日夜にこちらの城―――ヴァンフィード城に招かれた『守り人』。
ラスディラーンと呼ばれる白ライオンの眠っている間見守り、世界のバランスを保つため祈るのが役目だそうだ。
数十年に一人、守り人は異世界から招かれるが、役目を終えて戻る者もいれば、こちらに定住する者も少なからずいるらしい。
それもそのはず。残れば“元”はついていても“守り人”ということで、財産は使いきれないほど与えられるし、要職も与えてもらえるらしい。
里見がそのようなものに目がくらみ、家族や友人を捨ててこちらに残るとは思えなかったが―――長くいれば情もわくかもしれない。
守り人の役目は、ラスディラーンが目覚めるまで。
だが、ラスディラーンが目覚めるのはいつかはわからない。十日で目が覚めたこともあれば、八年かかったこともあるそうだ。
こちらの時間の流れと、あちらの時間の流れは同じのようなので、八年も行方不明だったら、死亡宣告が出されてしまうだろう。
たとえ、数ヵ月で済んだとしても、だ。
めいなら数ヵ月のうちに、たくさんの公式や偉人の名前を忘れてしまう。めいとは出来の違う里見だとはいえ、この時期の数ヵ月のブランクは受験生にとって命取りだ。
食堂で夕食をとったあと、与えられた自室に入っためいは腕組みをした。手狭なワンルームだが、一人部屋を与えられるのもメイドの中ではメイド頭と白ライオンの世話係だけらしい。
(……里見先輩なら、こんな世界どうなったっていい、とは思わないよね)
里見は、いつも笑顔だった。
困っている人を見るとつい放っておけなくて、自分でやれよ、なんて言いながら、一緒につきあってくれる。
ちゃんと相手のためを思って、自分が全部ひきうけるのではなくて、次に活かせるように手を貸すのだ。
(じゃあ、里見先輩が帰るためには、何がなんでもあのライオンを起こさないといけないってことだよね)
明日には、ラスディラーンの世話を教えてくれるとメイド頭が言っていたが、めいはそこまで待てなかった。
昼間教えてもらった沐浴場へ行くフリをして、白ライオンのところまで行ってしまえばいい。
多少手荒な真似をしても、起こしさえすればこちらのものだ。
小さなタオルと着替えを手に、そっとめいは部屋の扉を閉めた。
誰かに見咎められたときのための言い訳は両手の指以上用意していたが、幸い誰にも会わなかった。ラスディラーンの眠っているという部屋の前にも見張りさえいない。
めいは静かに口角を上げる。
(言い訳を一生懸命考えたかいがあったよね)
遠くの方では見張りらしい複数の人の声がする。
どうやら恋仲のメイドと逢い引きをしているところらしい。
普段であれば、爆発しろ! と念を送るところだが、今は拝みたいくらいだ。
(しばらく、いちゃこらしといてください)
音をたてないようにノブに手をかけると、あっさりと扉が開いた。
「……でっか」
思わずめいが漏らしたのも無理はない。
扉こそ他のものとさして変わらないものだったが、その向こうは体育館並みの広さだったのだ。
天井は高く、びっしりと天井画が描かれている。眠るラスディラーン、そのそばに座る人、割れた大地、嘆く人、実る果実、様々な動物。
ぽかん、と口を開けたまま一歩踏み出しためいは、ぐらりとよろける。
足元の絨毯の毛足が長すぎるのだ。
廊下の絨毯だって十分ふかふかだったのに、その三倍はあろう。極上の毛布と言われても頷いてしまいそうなほどとろける柔らかさがあった。
「…掃除大変そー」
昼間のメイド業務を思い出して、めいは顔をしかめた。掃除機も高圧洗浄機もないから、箒や雑巾で頑張るしかない。もしやこれが世話係の仕事?
絨毯を目で辿っていっためいは、途中で絨毯の色が変わったことに気づいた。
「……って、ああ!!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を塞ぐ。
毛足の長い絨毯にも見えたそれは、真っ白な獣。
聖獣と崇め奉られるラスディラーンだった。
(ライオンぽいなと思ってたけど、まんまじゃん)
真っ白な毛並みであることと、大人が五人は乗れそうなほど大きいことを除けば、よく動物園で見かけるそれと全く同じだった。
こくり、とめいの喉が上下する。
(どうしよう。髭を引っ張ったり、鼻の穴を塞いだりしたら起きる?)
一度伸ばした手は宙で止まる。
大きな手は爪もしまわれて、ふさふさの鬣の下に埋もれている。
(でも急に起きて、あの手でネコパンチされたら死んじゃうよね?)
いくら誇り高く知性も高い聖獣とはいえ、寝込みを襲われたら、反撃くらいしそうだ。
そして何より、自分の行為によって見も知らぬ人たちの生活が変わってしまうという事実が、めいの手を止めたのだ。
自分の世界のことを異世界の人に丸投げするのはどうかと思う。
でも自分たちでどうにもできないのであれば、仕方がないのかもしれない。
そして、一般の人たちには何の罪もない。
果てしない思考の渦は突然中断させられた。
「そこで何をしている!」
「ひっ!…わ、わあっ!」
驚いためいは振り返ろうとして、たたらを踏んだ。
踏んばった先が、硬い床であれば良かった。だがここは極上の絨毯の上。
見事に足をすくわれて、めいは思い切り聖獣様の上へダイブしてしまった。
◇◇◇◇
「ねえねえ、大丈夫ぅ?」
のんきな声と、ぽすぽすと背を叩く感触に慌てて身を起こせば、いつの間にか部屋が変わっていた。
大理石のような床が延々と続き、壁も天井もない。
(え、な、何? どこ? ここ)
「よかった、起きたね」
はっと声の主を探せば、目の前に鎮座する白い獣がめいの背から前足を下ろした。
「予想もしないときに思い切りぶつかったから、消えちゃったかと思った」
「……消え……?」
いきなり部屋が変わったこと、動物が当たり前のようにしゃべっていること。
驚かなければいけないことが多すぎて、めいの思考は固まってしまう。
「僕の身体は君たちとは作りが違うからぁ、あんな予測動作なしにぶつかったら、君を飲み込んじゃうんだよ。生きてて良かったねぇ」
ふわぁ、と大きな欠伸を間に挟みながら、ライオンは物騒なことを言う。
「良かった……? ってあなた、起きてるの?」
目もぱっちり開いているし、しゃべっている。
これで眠っているとは言わせない。
「んーん。精神は起きてるけどぉ、身体は寝てる。まだ寝たばっかりだもん」
ここは僕の頭の中だよぉ、とわけのわからないことを言いながら、太い前足で顔の辺りをごしごし擦る。
その様は猫科の動物が顔を洗うしぐさそのものだった。
「だもんって…、起きてもらわないと困るんだけど!」
あまりにも暢気な様子にめいが声を荒げると、不思議そうにラスディラーンは首を傾けた。
そしてゆっくりと鼻を蠢かせ、めいの臭いをかぐ。
「…ああ。君ハルキと同じところから来たの?」
難儀だねぇ、とラスディラーンは欠伸をする。
「どういう意味?」
「追いかけてきた人なんて、僕初めて見た。どうせすぐ帰るのにさぁ」
何が面白いのか、ごろごろと喉を鳴らしながら目を細めるラスディラーンに、めいは腹の底から怒りが沸き上がってくるのを抑えられなかった。
「すぐ? ぐうぐう寝てるあなたからしたらすぐかもしれないけどね! 里見先輩は受験生なの! 数週間の行方不明が命取りになりかねないの!」
手に持ったタオルはぐしゃぐしゃで、怒りのあまり頬が熱い。
「ふぅん。じゃあすぐ帰ったらいいじゃないか。守り人なんていてもいなくても変わらないんだから」
太い前足から鋭い爪を出して、べろりと舐める。時々あぐあぐと噛むところまで猫そっくりだ。
(ってか、これ、私をナメてるんだよね…!?)
「…! いてもいなくてもってどういうことよ。守り人はあんたが寝てる間に祈りを捧げるんでしょ」
「そうそう、よく勉強してきたねぇ。それなんだけどさ。結局気休めってやつだから」
今度こそめいはポカンと口を開けた。
「大体さぁ、異世界から招かれたって言ってもただの人だよ? 界を跨いだからって、急に特別な力なんて芽生えるわけないじゃない。祈ったって災害が減る訳じゃないし、草木だって勝手に育つ」
軽薄な口調で言いながら、ラスディラーンは後ろ足でガシガシと首の後ろを掻く。
綺麗な毛並みをしているのに、蚤でもいるのかもしれない。
「……じゃあ、なんで異世界から守り人なんて連れてくるの?」
「まあ、お守り代わり…っていうか。すがる先があると人って安心するんでしょ? 僕も退屈だとつい寝ちゃうからさ、異世界の話が聞けると起きる気になるんだよね」
アハハ、とラスディラーンが歯を剥き出して笑ったのを見て、とうとうめいの中で何かが壊れた。
「あのさぁ! そんな気休めで人生変えられちゃう人の身になりなさいよ! いくら運が良くたって、その上に胡座かいてたら足元すくわれるの! 与えてもらって安心するんじゃなくて、自分で動いて自分で掴もうって気はないの?!」
生まれてこのかた、めいはずっと運が良かった。
楽しみにしていた出掛け先は必ず晴れだったし、しっかり聞いた授業はまず間違いなくテストに出た。
逆に、憂鬱だったイベントでは転んで怪我をしたし、ぼんやりしていて大事な話を聞き逃してひどい目にあったこともある。
人生はそういうものだ。
因果応報。人に優しくすれば、どこかからそれは返ってくる。
確実に払った分が返ってくるわけではないが、何もせず手を出していても手に入るものなんてたかが知れている。
「…君、変わってるって言われない?」
「言われない! 少なくともしゃべるライオンよりずっと普通!!!」
間髪入れずめいが言い返せば、くわっと口を開けてラスディラーンが笑った。
「そんなに言うならさ。僕が寝なくて済んで、国民が安心するような方法を考えてよ。ほら、ちょうどそこにハルキと神官がいるしさ」
えっ、と振り返った先には、先ほどの絨毯が見えた。
どこまでも続く大理石の床も、霞がかって見えない壁や天井もない。
「お前は! 一体ここで何をしている!」
白髪頭の中年男性がめいに詰め寄ってくる。
先ほど誰何してきたのは、この人だったようだ。
その後ろには会いたくてたまらなかった里見がいる。
「えーと…何というか…」
信じるのならば、さっきまでいたのがラスディラーンの頭の中。
(ここは、現実。いや、異世界だったっけ?)
何と言っていいかわからず、めいは腹立ちまぎれにラスディラーンの髭を思い切り引っ張った。
「あっ、いたたたた!!! ちょっと、抜ける! 抜けるって!」
「うっさいわ! ライオンのくせに狸寝入りとか、馬鹿じゃないの!」
悲鳴を上げて真っ青になる神官を見て、めいはこっそり溜飲を下げた。