11 おかえりなさい –––– 婚約者ロッテ視点
夜になってから、風が強くなった。
窓の外で木々の葉が擦れ合い、ときどき伸びた枝が屋根を掻いている。昼間は暖かかったのに、日が落ちると急に冷えるようになった。そろそろ薪を多めに用意しておいたほうがいいかもしれない。
テーブルの上には、数日分の新聞が積まれている。この辺りまで新聞が届くのは週に1度だ。王都ではとっくに過ぎた出来事を、ロッテはいつも少し遅れて知る。
魔王討伐。勇者一行、王都へ凱旋。
どの新聞にもそんな大きな文字が躍り、その下には凱旋を祝う大規模なパレードの予定とともに、勇者と王女の婚約や、聖女を交えた三角関係の記事まで並んでいる。何度読んでも胸の奥はざわついたけれど、だからといって、書かれていることを信じているわけではなかった。
ルカはそんなことをする人ではない。それくらいは分かっている。
ただ、王都はあまりにも遠かった。何が起きているのか確かめることもできず、どんな記事が届こうと、ロッテにはここで待つことしかできない。だから今日も胸元に手を伸ばし、服の下から小さな石を取り出した。青い光が、指先を淡く照らしている。ルカと離れてからも、その色はずっと鮮やかなままだった。
大丈夫。そう言ってくれているような気がした。
「……うん」
誰に聞かせるでもなく呟いて、石を服の中へ戻した。椅子から立ち上がり、戸締まりを確かめる。寝る前に、ヤギ小屋のメイの様子ももう一度見ておこう。子どもを産んでからずいぶん食欲が増した。ジェーンおばさんは心配ないと言っていたけれど、ロッテにはまだ何もかもが心配だった。
ランタンを手に取り、外へ出ようとしたときだった。
何かが聞こえた。
風の音ではない。ロッテは戸にかけた手を止め、耳を澄ませた。遠くから、一定の間隔で音がする。風に紛れて途切れながらも、少しずつ近づいてくる。
馬だ。
こんな時間に?
街道から外れ、この家へ続く道を馬が上ってくる。胸が大きく鳴った。それでも、すぐに大きく息を吐いた。この1年、どれだけ似たような音に期待してきただろう。ついさっき読んだ新聞にだって、王都ではまだ祝賀行事が続き、その締めくくりには凱旋パレードが予定されていると書かれていた。
今、ここへ帰ってくるはずがない。そう思うのに、戸を閉めることはできなかった。開け放した戸から冷たい風が一気に吹き込んでくる。目を凝らすと、暗い道の向こうに馬の影が見えた。乗っている人の顔までは分からない。
それでも、分かった。
「……ルカ?」
馬が止まり切るのも待たずに男が飛び降りた。すぐに手綱を掴み直し、そのままこちらへ小走りで駆けてくる姿が、家から漏れる明かりの中へ入る。
少し髪が伸びている。服も汚れていて、前より少し痩せたようにも見えた。
それでも、見間違えるはずがなかった。
ルカだった。
「ロッテ!」
その声を聞いた途端、本当に帰ってきたのだと分かった。
新聞に書かれた勇者ではない。毎日、青い石の向こうに無事を願い続けたルカが、今、自分の目の前にいる。
「ごめん。こんなに長く1人にして」
気づいたときには駆け寄っていた。胸に飛び込むなんて、そんなことをするつもりはなかったのに、ルカは驚きながらもすぐに手綱を離し、ロッテを受け止めてくれた。背中に腕が回り、力いっぱい抱きしめられる。旅に出る前より少し硬くなった身体も、土と風の混じった匂いも、何もかもが懐かしかった。
「遅いよ」
「うん。ごめん」
「心配した」
「ごめん」
自分の声が胸元にこもってしまうほど、強く抱きしめられた。苦しくなって顔を上げると、思っていたよりずっと近くにルカの顔があった。何か言おうとしたけれど、その前に唇が重なった。すぐに離れるのかと思ったのに、ルカはもう一度、確かめるように唇を重ねる。
ようやく離れたあとも、額は触れたままだった。
「ただいま」
今度はロッテから抱きついた。
ルカが笑った気配がして、また腕が背中に回る。
ずっと張りつめていたものが、ようやくほどけていった。
◇
馬を小屋の脇につなぎ、水と餌を用意してから、2人で家に入った。ルカは椅子に座るなり、大きく息を吐いた。ロッテは暖炉の火を掻き立て、脇に置いてあったケトルに水を足す。
「ああ、帰ってきた」
しみじみとした言い方がおかしくて、ロッテは笑った。
「そうだ。魔王はちゃんと倒したよ。みんなも無事だから」
「うん、そうだってね。本当にお疲れさま。大変だったでしょう」
「え?」
「新聞に書いてあったから。本当に無事に帰ってきてくれて、よかった」
ロッテがテーブルの上を指すと、ルカはそこに積まれた新聞を見た。
「3日前に届いたの」
「そっか」
ルカが安心したように笑う。
温め直したスープとパンを出すと、よほどお腹が空いていたのか、驚くほどの勢いで食べ始めた。その様子を眺めているうちに、ロッテの目は自然と積まれた新聞へ向かった。
「でも、王都ではまだ凱旋パレードをしてないんじゃないの? 新聞が遅れてるだけ?」
「ああ、まだだよ。でも僕は断ったんだ。いつになるかも分からなかったし」
「……断ったの?」
「うん。早く帰りたくて」
あっさりと言って、ルカはまたパンをちぎる。
それを聞いただけで、胸の奥に引っかかっていたものが少し軽くなった。
「なんか、ほっとした」
「何が?」
「新聞にね、王女様とルカが結婚するって書いてあったの。それに、聖女様とも三角関係だって。信じてたわけじゃないんだけど……もしかしたらって、ちょっとだけ」
パンをちぎっていたルカの手が止まった。
「……心配してた?」
「石はずっと青かったから、大丈夫だとは思ってたよ。でも……うん、少しは」
心配していたのか、していなかったのか、自分でもうまく説明できなくて、ロッテは困ったように笑った。ルカはしばらくこちらを見ていたが、やがてテーブルの新聞を1部取った。
「どれ?」
「これ」
指差した記事に目を通したルカの眉間に、わずかに皺が寄る。
「王女殿下とは、ほとんど話したこともないよ」
「そうなの?」
「うん。聖女とも何もない」
新聞をテーブルに戻すと、ルカはロッテが置いていた手に自分の手を重ねた。
「ずっとロッテのところに帰るつもりだった」
「うん」
「本当に」
「分かってる」
分かっていた。信じてもいた。それでも、その言葉を本人の口から聞けたことで、胸の奥に残っていた小さな不安まで、ようやく消えていった。
「連絡もできなくてごめん」
「仕方なかったんでしょう?」
「うん。いろいろあって」
詳しく聞けば、きっと話してくれるのだろう。王都で何があったのか、なぜ連絡できなかったのか、新聞に書かれていたことのどこまでが本当で、どうしてそんな記事が出たのか。聞きたいことはいくらでもある。
けれど今は、それよりも伝えたいことがあった。ロッテは胸元に手を入れ、服の下から青い石を取り出した。ついさっきまで、遠く離れたルカの無事を知るために何度も眺めていた石が、今も変わらず淡い青色に光っている。
「これがあったから」
ルカが目を見開き、すぐに自分も胸元へ手を入れた。引き出された紐の先には、ロッテが持っているものと同じ青い石が下がっている。
「僕も」
ルカは石を外すと、ロッテのものの隣へ置いた。2つの青い石が、並んでテーブルの上を淡く照らしている。離れている間はそれぞれの手元にあったものが、1年ぶりに同じ場所へ戻ってきた。
「毎日こればっかり見てた」
「私もよ」
「ロッテが元気なことも、気持ちが変わってないことも、これが教えてくれたから」
ルカは自分の石に指先で触れた。ロッテも同じように、何度あの青い光を確かめただろう。朝起きたときも、眠る前も、新聞に不安になるような記事が載っていた日にも、この色だけは変わらなかった。
「本当に交換しておいてよかった。どれだけ救われたか分からない」
「私も」
その言葉にルカが笑った。その顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。何日分もの新聞を読んだけれど、どこにもこんな顔は載っていなかった。そこに書かれていたのは魔王を倒した勇者で、国中から称えられる英雄で、王女や聖女との噂の中心にいる人だった。
でも、ロッテが待っていたのはそんな人ではない。目の前で笑っている、この人だった。
「これからは、ずっと一緒だ」
「もう行かなくていいの?」
「たぶん」
「たぶん?」
思わず聞き返すと、ルカはしまったという顔をして、それから少し考えるように視線を上げた。
「きっともう呼ばれることはないと思う」
「どうして?」
「ちょっと強めに言ってきたから」
「……誰に?」
「王様と宰相」
「何て?」
「もう放っておいてほしいって」
「……それだけ?」
「まあ、うん。だいたい」
何かを省略しているのだろう。けれど、気まずそうにしているルカを見ていると、それ以上は聞かないほうがよさそうだった。
「僕はただ、ここで普通に暮らしてただけなのにさ」
ルカはまだ納得がいかないように、少し眉を寄せた。
「しかもロッテとこれからのことを決めたばっかりだったのに。急に勇者になれって言われて、ずっと連れていかれて」
珍しく愚痴っぽい言い方だった。魔王を倒して帰ってきた人が不満に思っていることが、勇者になったことそのものだというのがおかしくて、ロッテは笑った。
「何?」
「ううん。何でもない」
「そう?」
不思議そうな顔をしながら、ルカは残っていたパンを口へ運んだ。よほど空腹だったらしく、たっぷりあったはずのスープも、いつの間にかほとんど残っていない。
そのまましばらく食べていたルカが、ふいに顔を上げた。
「そういえば」
急に身を乗り出したので、ロッテもつられて顔を上げる。
「メイは? 子どもは産まれた?」
「ちゃんと産まれたわ」
「いつ?」
「少し前。ジェーンおばさんが来てくれたの。私1人じゃ心配だったから」
「そっか。よかった」
心底ほっとしたように息を吐く。その様子を見ていると、さっきまで王様や宰相の話をしていた人と同じ人には思えなくて、ロッテはまた笑いそうになった。
「今年のリンゴは?」
「よくできてるわよ。気候も良かったせいか実も多いし、きれいに色づいてきたわ」
「ほんと? 楽しみだな」
「あ、でも北側の柵が鹿に壊されちゃってて」
「え」
ルカの顔がはっきりと曇った。
「ほら、あの林に近いところ。今は細い木を何本か渡して、縄で縛っておいたんだけど」
「そっか。またやられたら大変だ」
ルカはすっかり真剣な顔になっている。
「明日、直しに行くよ」
「帰ってきたばかりなのに。疲れてるでしょ?」
「大丈夫。なんだか嬉しいんだ。ああ、戻ってこれたなあって」
その顔を見ているうちに、ロッテは笑いながら、目の奥が少し熱くなるのを感じた。何も変わっていない。きっと明日の朝になれば、ルカは道具を持って北側の柵へ向かうのだろう。その前にヤギ小屋へ寄って、メイと生まれた子どもの様子を見るに違いない。リンゴがよくできていると聞いたのだから、途中で1つもいで食べるかもしれない。
ロッテも一緒に行くだろう。2人で壊れた柵を直して、帰ってきたら食事を作る。ルカはきっと何かを直したついでに別の壊れかけた場所を見つけて、そこまで直そうとする。日が暮れたら家へ戻り、同じテーブルで食事をして、明日のことを話す。
そんな日が、また始まる。
新聞に載っていた、魔王を倒した勇者が帰ってきたのではない。
ずっと待っていた人が、帰ってきたのだ。
ロッテはテーブルの向こうへ手を伸ばした。ルカは一瞬だけその手を見て、それから何を尋ねることもなく、当たり前のように自分の手を重ねた。少し硬くなった指も、旅の間に増えた小さな傷も、これから少しずつ見慣れていくのだろう。2人の手のそばで、並んだ青い石が静かに光っている。
帰ってきたときには言えなかった言葉が、今なら自然に口から出てくる気がした。
「おかえりなさい、ルカ」
ルカは少しだけ目を細めた。
それから、ロッテがずっと待っていた顔で笑った。
「ただいま、ロッテ」
※本作の元となったショート動画をYouTube・TikTokで公開しています。
小説化するうちに設定や展開が少しずつ変わり、動画とはちょっと違う物語になりました。
元のお話も見ていただけたら嬉しいです!
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