ニコラス
はじめてセレニアと会った時、妖精と見紛った。
まだ礼儀も知らない私は、彼女と目を合わせることが出来ず、頬が紅くなっているのが自分で分かった。
話せば彼女が如何に博識で、私が如何に無知かを思い知った。別の意味で頬が紅くなった。
彼女のために、努力した。
それから、家庭教師や父王に褒められるようになり、私は優秀だと信じるようになった。
しかし、それは違った。
数ヶ月後に婚約が決まり、彼女のもとを訪ねた。
セレニアと話し、私が手に入れた知識なんかとは比べ物にならないほどのものを彼女は持っていることを知る。
それが悔しいうちはよかった。
また、努力して、打ちのめされて、の繰り返し。
婚約者として近付くうちに、彼女のことを知る。彼女が如何に才能があり、そして自分が如何に無能かを知るのだ。
そして、ある時ふと疑う。
セレニアは、私を見ていないのではないか?
今まで、セレニアに相応しくなるため精一杯やってきた。けれど、彼女は自分を見ていないのではないか?
そんなはずは無い、と思う。
けれど、思考が止まらない。
セレニアが私を自ら訪ねてくれたことがあったろうか?
セレニアが自分から話をしてくれたことがあったろうか?
セレニアが笑ったところを見たことがあったろうか?
疑いは確信に。そして、ぽきりと心が折れる。
私は、セレニアを避けるようになる。
学園に入ってから、ノエルと云う伯爵令嬢に出会った。
彼女は、私の周りを彷徨くようになる。
貴族令嬢が、王子という私の身分に惹かれて寄ってくるのは慣れていたから、今回もそれだと思った。
しかし、気がつく。
彼女‘も’私を見ていない。
私に話しかけていても、その目はもっと先の何かを見据えている。笑っていても、その目は冷えきっている。
ある日、ノエルが云った。
「セレニア様に、殿下の隣に私は相応しくないって云われました。」
彼女は泣いていたが、それが嘘泣きであることは分かっていた。セレニアがそう云うことなんてないことも分かっていた。
けれど、そうであったらどれだけ良かっただろう?
「セレニア様に、私みたいな平民がこの学校の制服を着るなんてって……」
「セレニア様が嫉妬して、私を階段から突き落として……」
彼女の妄言は、私の心を安らげてくれた。
そうであったら。セレニアが私を気にしていてくれたなら。
そのうちに、ノエルの言葉が真実なのでは、と思い込むようになる。
今考えると、なんて愚かで滑稽なのか。
私の自尊心を満たしてくれる存在として、ノエルは最適だった。いつでも私を褒め、時々セレニアが嫉妬していると告げ口のように云う。彼女の瞳は私を映していないというのに。
婚約破棄は、私がぽろりと零した言葉がきっかけだった。
「セレニアの近くにいるのが辛いんだ。」
云うべきではない弱音。
「離れちゃえばいいんですよ。私、いいことを思いつきました!」
ノエルの笑顔。
「婚約破棄しちゃえばいいんです。」
耳元で囁いた。
なにもかもがやけくそだった。
もう自分が堕ちてはいけないところまで堕ちきっていることを知っていたから。
「セレニア・フォーサイス!ここにお前との婚約破棄を告げる!」
すると、セレニアは、手をグーパーしたり、頬を抓ったりした。そして、
「やったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
と雄叫びを上げた。
ショックで死ぬかと思った。
アルベルトがそれに反応し、セレニアを問い詰めようとすると、セレニアは今まで見た事もないような冷えきった微笑を浮かべ、「お静かになさって?」と云った。
これには流石のアルベルトも恐怖でなにも云えず、黙りこくる。
なにをするのかと思えば、歩き、しゃがみ、手を握りしめ、最後にウィンク。
不覚にも最後のウィンクはときめいた。
いや、そのまえに何してるんだ?
そう思っていたら、セレニアは花が綻ぶような笑みをみせ、思わずといったように口から言葉が漏れた。
「本っ当に最高っ……!」
しまいには涙を流し、
「良かったぁ。」
と。
自分が今ショック死していないことが不思議なくらいだった。眼中に無いとは思っていたが、婚約破棄をここまで喜ばれるくらい嫌われてるとは思っていなかったのだから。
「セ、セレニア?」
「なんでしょうか、ニコラス殿下?」
「お前は何故泣いている?」
万が一にも違う可能性にかけて尋ねると、
「あ、嗚呼。私の長年の夢が今日果たされまして。思わず嬉し涙が。お見苦しいところを見せてしまい申し訳ありません。」
つまり、婚約破棄が長年の夢で、嬉しすぎて涙が出たと。
「お、お前っ!」
「申し訳ありません、云ってはいけないことを云ってしまいましたか?」
そんなことも分かっていなかったのか?と皮肉られる。
そして、HPがミリなのに、アルベルトがさらに心を抉ってくる。
その後、婚約破棄が嬉しいのは、誤解だと云われるが、さらにどうでもよかったと云われる。嫌われるのと、無関心とどちらが良いのだろうか。
「私殿下に興味無いので。」
知っていたけれど直接云われると傷つくものなのだ。
「興味無い、か。」
色々なことを考えたくて、ふらふらとその場を立ち去る。
ノエルが後ろから追ってくるのが見えて、素早く王家の馬車に乗り逃げた。
セレニアは、私との婚約で自分を色々とセーブしていたのかもしれない。とひとり馬車で考える。
今日ははじめてみる表情ばかりだった。
ウィンクを思い出して赤面する。
こほん、と咳払いをしてもう一度考える。
もしかしたら、今日のセレニアが本当のセレニアなのかもしれない。
翌朝先触れが届き、セレニアが王宮に来た。
そして、恋をしているような表情を浮かべながらふたりきりになりたいと云う。
もしかしたら、昨日のことは悪い夢なのではないかと考える。
「昨日の言葉は嘘です。婚約破棄がどうでもいい、なんて。」
「っ!本当か?」
「ええ!私、是非、婚約破棄して頂きたいのです!」
満面の笑みで云われて、自分の都合のいい考えに吐き気がした。
そんなわけが無いだろう、と。
母上達が聞いていた時には、私はもう終わりだと覚悟した。
事の顛末を話す。すると、セレニアは私のところまで来て云ってくれた。
「貴方に、勝ってほしかったわけじゃない。」
顔を上げると、その美しいブルーの瞳がよく見える。
「私のために、努力してくれたって云う、それだけが大事なんじゃないですか?人と比べるなんて、つまらないです。殿下は、私の事を大切に思ってくれたんでしょう?それで、頑張ってお勉強して、礼儀作法を身につけて、剣の練習をして。」
そして、笑った。
「かっこいいじゃないですか?私、覚えてますよ。殿下が色々なところに連れて行ってくれたこと。お祭り中の街や、人気のカフェ。歌劇場に、王家の別荘地。嗚呼、あそこで見せてくれたお花畑は今でもお気に入りです。殿下は、私を思ってくれました。それが、素敵だったんです。」
そのとき、はじめて報われた気がした。
セレニアは、ちゃんと見ていてくれたのだ、と。
陛下の寛大な措置により、私はもう一度やり直す機会を得た。
これからは、セレニアのために全てを捧げよう。