1920年
紀元1920年8月15日 首都ベルン ドワレム研究所
真夜中の研究所裏門に饐えた臭いをさせた男達がリヤカーを引いてやってきていた。
リヤカーの荷物は重いようで台車がきしむ音がするのだが、全面シートで覆われていた。
男達は空けられた裏門を手早く通り抜けると、すぐさまトタンとスレートで組まれたバラックに運び込んでいた。
バラックの中にいたのはドワレム博士、何日も風呂に入っておらず、その体臭は運び込んできた人間とさほど様子が変わらない。
薄汚れた白衣にモジャモジャの赤毛、伸び放題のひげはヘアバンドでツインテに纏められている。
彼はシートを外すとその物体をみて蕩けそうな顔をした。
シートの下から出てきたのは航空騎兵用の蒸気原動機 フォッカー社製の星型12気筒だ。
「思ったより状態がいいな。」
「そりゃ不時着機から手に入れましたから。」
「いいだろう、5マルク銀貨 200枚で買い取ろう!」
男達から歓声が上がる。紙幣はインフレの影響で価値が下がっていくが、銀貨は外貨に交換できるので価値は変わらないのだ。
「程度は問わない!集められるだけ集めてくれ。」
「壊れていてもですか?」
「もちろん査定はするが、部品の流用に使う、集めてくれ」
そう言った博士の背後には、スクラップ置き場のように山となった蒸気原動機や分解された部品が転がっていた。
ドワレム博士はここで航空機用や戦車用のスチームギアを分解して装甲猟兵用にレストアしていた。
先ほどのフォッカー社(1919年に帝国からオレンジ大公国に移転)のスチームギアも12基の装甲猟兵用スチームギアに作り直すのだ。
国内だけではなく、フラン共和国のシクローン社やラノー社製、アバロン連合のワット社、メリク合衆国のフォワード社やダックス社まで一切かまわず集めていた。
世界大戦が終了し供給がダブついた戦勝国側は大戦前期の旧式モデルならフリードリヒ共和国内での流通を認め始めた。
博士の行動はその隙間をついた作業であり、旧式なスチームギアから多数の装甲猟兵用スチームギアを量産するものであった。
もちろん出力は3~6kwとばらつきが大きく、最新型の半分もない。
しかし問題なく動かすことはできる、そして低出力のものは戦時賠償用にBWMから持っていかれる予定のスチームギアと(こっそり)入れ替えて、性能の良いものを少しでも国内に残すようにしていた。
その一方で出力規格が均一化されていること(Φ100mm 厚さ50mm 143枚歯の歯車)から筐体の試作を行った。
上記の理由から資源量が少なくてすみ、比較的供給状態のいい原動機による装甲猟兵が最初にターゲットになった。
装甲猟兵の略称から(Gepanzertes Jagerパンツァーイエーガー) GJ‐1型とされた試作機はスチームギア単基でどれだけのことが出来るのか見極めることを目標とした純粋な試作機だった。
見た目は簡素化した中世の甲冑で身体のあちこちから見える歯車は、それ自体を装甲の一部として利用しているような部分もあった。
固定武装は機関銃が一丁腕についているだけで、装甲についても7.62mm×54R弾に100mの距離で貫通できない程度の軽度のものが求められた。
運用指針については世界大戦の戦訓から塹壕戦における強化地点の移動配置装置のような思想が盛り込まれた。
この結果、装甲や速度よりも塹壕をすばやく移動できるように小型化に注力されており、装甲も塹壕からはみ出やすい上半身に集中して配置された結果、機体重量は60kgですんだ。
重火器としては手持ちのグレネードや火炎瓶をもって投擲することで対応することが考えられていた。
この機体を実証実験で1個増強小隊を試作して塹壕戦させたところマシンガンや砲弾の破片程度では防衛継続が可能で、戦車は随伴歩兵に圧力を加えることで戦線突破を防げることが判明した。(随伴歩兵のない戦車は視界が極めて悪いことから、歩兵によるグレネードや火炎瓶での肉薄攻撃で各個撃破可能)
反面、塹壕での防衛戦を前提としているため荒地踏破性が低く、攻勢に用いることは困難と判断された。
他国の装甲猟兵との比較試験では大戦中の開発品に比べてすら火力・装甲では劣った。
それらを踏まえても評価は極めて高く、試験監督官からは「GJ1個小隊は歩兵1個大隊に匹敵する効果を生み出す」との評価をもらった。搭乗員からも「まさか塹壕で中腰でなく歩ける日が来るとは思わなかった。」など極めて良好な回答を得ており、兵器開発局は発展余裕を持たせたスチームギア2基搭載のGJ-2型の開発命令を研究所に打診した。
1920年12月24日 ミュンヘル(バイエル州都) 街中のビヤホール
ベルン大学での基礎講座と速習プログラムで頭が膨れ上がってパンパンになったような6ヶ月、情報部員としての身を削る思いで体重の減った実務研修3ヶ月が過ぎた後、ドール社会民主党に入党して内部調査を行ってきた。
なりたての新人に重要かつ危険な組織を扱わせるはずもなく、定時連絡では注意項目には該当無しが続いていた。
意外といってはなんだが、極めて真面目に国の未来を考えている首脳部とそれを補佐する党員達、党員たちも工員や小作農が多く、元軍人大隊レーテの出身という肩書きは、それなり以上に役に立った。
相談にくる人々や一緒に事務を行う党本部の仲間達の間でも、友人らしい人物が徐々に増えてきた。
おかげで入党後1年もすると党の更正担当になった。党の序列としては第3位である。
そうなると党内の勢力抗争に巻き込まれずにはいられない立場になってしまった。
別に地位に未練があるわけではないが、任務上他所に移動できない中で身の危険を感じれば反撃せざるを得ない。
党首であるアントン・ドレクスラーのアルブ排斥、非資本主義については同意できる部分も多く、より民衆に受け入れやすい形での演説を行っていたが、その内容が過激だとして排除行動に出てくる党内外の人間がいた。
それらの人々から身を守るため党内の友人レームと護衛隊をつくった。
そうすると武装勢力の私物化だと第2位のヘルマン・エッサーとの党内抗争に発展した。
この抗争はエッサーが武装勢力を組織できなかったこともあり、エッサーが離党することで穏健に終了した。
この抗争から政治資金の重要性を学んだ私は党員の紹介によりミュンヘル社交界に進出して後援者を得ることに尽力することになった。
そんな折に軍から配置転換の指令が来たが、自分が作り上げてきた組織や人脈を捨てきれずに、軍のほうを退職するに至った。
幸い軍も下っ端の情報員の挙動など重要視しておらず退職届はすんなり受領された。
軍に対しては富裕化や未亡人の集まるサロンで、私はベルン大学を中退してミュンヘルにやってきた元歩兵ということで、比較的高学歴の評価をもらえるようになったのは感謝している。
こうやって夕方に仲間と集い、ソーセージとビールで飲めるのも彼らのおかげだ。
紀元1920年12月23日、フリードリヒ共和国 ニール村
吹いてくる風も冷たい。
もうすぐクリスマスだ。待降節毎にスライスして食べてきたくクリスマスシュトレンも明日の夕方の分しか残っていない。
天気こそ雪は降ってないが曇りで、全校生徒が校庭に整列するには厳しい寒さである。
みんなが整列して震えていると、校長先生の訓示が始まった。
偉い人の話は長いものだが、今日は比較的短くて済んだ。寒かったのだろう……
次に教師の一人が発表を開始した。
「1920年総代 一年次 アンドレア・ビート 二年次 ニルス・ハイドラル 三年次……」
総代?ボクが総代になれたのか。総代はその学年でトップの成績を修めたものが選ばれるのが慣習である。
「……以上4名を総代とし、メダルを授ける呼ばれたものは前に」
足と手が寒さと緊張のあまり、自分のものではないようだ。
受け取ったメダルは鉄製で凝った模様に学校名と1920年のゴシック体での表記、その下には自分の名前と年齢12歳が刻まれていた。
それと同時に、第1アドベント(3週前)以来の父親の機嫌のよさそうな顔が浮かんできた。
ニール村で一番の鍛冶師は父である、ということはこのメダルを作ったのも父であろう。
家に帰ってこの話を父にしたら肯定したうえで、馬蹄を打つことを許してくれた。
馬蹄は形状が決まっていて数が必要かつ取り付けの際に微調整が入ることから鍛冶師の入門に用いられる課題である。父なりの祝福の仕方だったのだろうと思う。
フリードリヒ共和国の戦後は未だ終わりが見えなかった。
このためフラン共和国との間で外交交渉が行われ、返済期間の延長と利子の低減で話合いがもたれたがフリードリヒ共和国の財政が健全化することで軍備が厚くなることを恐れたフラン側の強硬な態度により交渉は決裂、再度返済が遅れた場合は領土を接収するとのフラン側の宣言により交渉は決裂した。
しかしこのことから領土保全のため軍の発言力が強まり、フラン共和国側の思惑とは逆にフリードリヒ共和国首脳部は軍備再建の模索に入る。一方でメリク合衆国への大規模借款の申し入れ等国家財政を綱渡りながら維持していた。




