17話 妥協と妥協で回る歯車
新人四人は、嘘でしょこれで?と思うが、今の宵宮はあれでかなり態度を軟化させているらしい。
「いやいや、ねえだろ。あれでもアウトだろ」
いやまったくそのとおり。ホント、茜でなくとも『嘘でしょあれで?』である。
「柊はずいぶん我慢強くなったと思うぜえ?なあ、百合香」
「……そうですね。……ええ、そうですとも。まったく足りませんが。改善とも思いたくありませんが」
千両研究室に何故だか籍がある大谷部鋼志は、あまり人の事を悪く言わない人間だ。その意味で宵宮に関する評価への信頼性は落ちる。
だが、千両博士のスーパー秘書、立花百合香は週に二度しか研究所に立ち入らないが、その完璧な仕事ぶりから望月達新人から強い尊敬と信頼を得ている。その立花の言なので、確かなのだろう。あとその表情。美人の静かな怒りは、ただただ怖い。
ちなみに、立花のその細やかさは研究職の仕事を深く理解しているからなのだが、元々は千両研究室の研究員だったからだ。だが立花も例外なく宵宮と大喧嘩を何度となくやらかし、その結果として千両博士は尊敬しているが、こんな男と毎日顔を突き合わせながら研究はできない。として秘書業と研究室の事務職に専念する事になった。週に二度、書類の受け渡しや確認作業で数時間顔を突き合わせるのが『ギリ』らしい。何かを掛け間違えた瞬間、大谷部ぐらいでなければ止められない口喧嘩が勃発するらしい。
それはそれで嘘でしょう?と思うが、普段の冷戦めいた薄氷を踏むやりとりから、確かに察せられはする。
※ ※
ともかく、『自分だから我慢できる』とそれぞれ思っている新人達だが、『以前はこれ以上』となれば、もう全くここで研究をしていられやしないと思った。殴りかかるか親に泣きつくかなど、方法は個々人によるとしても。
今でよかった。まだ、我慢ができる。
宵宮も、その自覚はある。これならまだ、我慢ができる。
妥協に妥協を重ねて今の対応をしている。これですでに十分ストレスなのだが、世間ではこれ以上の対応をせよと求めてくる。無理だ。研究だけさせてくれ。
そう思うが、人手がないと研究すらできないのだ。悲しい事に。
新人四人が入ってくる直前の半年近くは地獄だった。研究室の実働が宵宮一人だった。我が身が招いた事ではあるが。たまに大谷部が手伝いを申し出てくれたが、こと、研究に関して大谷部に期待できるものは何もなかった。職員証だけでログインできるシステムはともかくとして、パスワードなどが必要な主幹システム系のパスワードをどれもまったく覚えていない人間に、何が期待できようか。
研究所の他研究室との共同研究についても致命的である。すでにあちこちでやらかしているうえに、千両研究室から異動した研究員がいたりする。宵宮が出禁になっている研究室がいくつかある。
研究所が『研究所全体の重要プロジェクトである』という旗振りをして、細心の注意を払った人員配置をしたうえで、宵宮を半隔離状態にしてどうにか共同研究を進める事が可能になっている事が多い。
なお、宵宮が顕著な例過ぎるが、研究所内は、様々な人間関係その他諸々が交錯している。奇人変人の集まりなので、そこはもう、不可解が極まる。研究所はキャベツや鶏、狐をどうにか研究成果という向こう岸に辿り着かせようと、日々苦労に苦労を重ねて舟を往復させている。誰か、抱きしめてあげてほしい。
ともかく、宵宮にとって、この四人を何とか使える後輩に育てなくてはならなかった。
でなければ、ろくに自分の研究も進まない。かれこれ半年以上、ろくな成果が出ていないし、以前は頻繁に千両博士に随行して学会や講演、研究発表に参加していたが、そんな事をしていたら、研究室がまったく回らなくなる。
いくら宵宮でも、この四人に『あとは任せた』とは言えない。そこまで無責任でもない。そして、放置すればろくな事にはならないのは肌感でわかる。
ここに来て初めて、宵宮は人間的成長を見せ始めている。……遅すぎる。
しかし、だからこそ望月の存在はありがたくもあり、不可解だった。
望月の兄は新月だ。新月は心配性で過保護気味から来るもので宵宮とは方向性が違うが、望月に対してだと重圧や支配性が高い。それに慣れているから宵宮の言動もそれなりに耐性があると望月本人が言っていたが、だとしても、辛抱が強すぎる。
宵宮としても、自身の抑えがきいていない事は理解している。自分と同じ人間がもう一人いたらどうか。絶対に喧嘩になっていた。いや、相手に実力があるなら歯をくいしばって耐えただろうか。相手に正面から意見できるだけの実力と成果を出そうと、より研究に勤しんだかもしれない。
おや?自分は二人いても問題ないのでは?むしろ二人いる方がいいのでは?つまり自分は必要な存在であり、自分に意見があるとしながら実力もなく吼える人間が愚かなのでは?
――いや、そこに致命的な欠陥がある事は、流石に宵宮も理解している。同じ人間は二人存在しえず、たとえ愚かだろうと何であろうと、妥協は必要なのだと。
※ ※
「……おい、望月」
「はい、なんでしょう」
「これはわかるな?」
特殊な測定法を取る実験だ。他研究室からの協力依頼である。今後の協力体制を確固たるものとするためにも、向こうから来た依頼にはなおさら、応えておきたい。
「ええ、この間教わりました」
そんな事はわかっている。
「アイツらには伝えたか」
「はい。こういうのは、茜さんが得意ですよね」
「……しかし、黒鉄は来週末に発表がある。千両研究室の代表として出す以上、黒鉄が満足している程度の甘い成果では出させん。黒鉄には今週いっぱいは発表研究に専念させたい」
「茜さんが一番得意ですけど、皆できると思います。分担すれば、作業時間も少なくすみますし」
「……それなら、いっそ黒鉄にもさせてみるか。どうも行き詰まっている様子だ。気分転換にもなるだろう。もちろん、日数がかかりそうなら、途中からでも離脱させるが」
「なら、茜さんに聞いてみます。茜さんの協力が得られれば私達も心強いですし。茜さんが研究発表の方を優先するとしても、私達も自信を持ってできるようになりたいですから」
「――任せる」
望月を送り出すと、茜は目を輝かせた。
「そうだよ!アタシはこうやって頼られたいんだよ!こんな楽な実験ならいくらでも言ってくれよ!」
そう言って望月からファイルを受け取った。複数の工程を行きつ戻りつするため、決して楽な実験でもないのだが、このあたりは個人の主観による。茜には合っているようだ。
望月は朱夕と透にも声をかけた。
朱夕は『別にいいよー』と軽く協力を申し出たが、透の方は自分の研究整理の方が今大詰めらしく、今回はパスらしい。
そのあたりは四人の間で裁量できるなら問題はない。宵宮も任せるとした。進捗管理は行う予定だが、望月も加わるようだし、茜がよくやらかす単位の取り違えも大丈夫だろう。
……つまりは、望月がこのように上手く中間の調整役として機能してくれている。望月本人が優秀だが、この役割は得難い。宵宮が直接動くと、こうスムーズにはいかない。
「宵宮さん。茜さんが協力してくださいます。透君は今回ちょっと無理みたいですけど、ゆんゆんと私の三人で分担できるし、今週中には余裕をもって茜さんも発表研究の方に戻れそうです」
「わかった。何かあればこちらに声をかけて結構だ」
「はい。では準備に取り掛かりますね」
すでに後ろで茜がルララと歌を歌いながら測定準備を始めているのが見える。
「――なあ、望月」
「はい?」
「望月は、その……よく我慢できているな、俺の元で」
「……宵宮さんは、イライラされてさえいなければ、さほど我慢は必要ない方だと思いますよ?」
やや引っかかる言葉選びな気もするが、ずいぶん買いかぶられていると思う。
「俺は、優秀な人間には寛容なだけだ。価値ある人間に対してしか、まともに口がきけん」
千両博士にもよく注意を受ける事だ。『損な生き方じゃのう』『もったいない』と。言い方は千両らしいが、つまるところ、愚かだと言われているのだと、宵宮は思っている。
「優秀でありたいとは思いますけど、私はそこまで優秀とは思えません。……価値があると思っていただけているなら、嬉しい事ですね」
「――」
「どうしましたか?宵宮さん」
「いや……望月が、そういう楽観的なものの考え方ができる人間で、助かっている」
「……もう少し、翻訳の必要がないお褒めの言葉を頂きたいです」
「何を言っている?」
「いえ。では、測定実験に入ります。今日の内には開始できると思うので、データは夜のうちに動かして、明日いっぱいで出せればと思います」
三人で行うのであれば、宵宮の見積りとも変わらない。
※ ※
途中、ちょっとしたアクシデントが発生した。だが、そこだけ透の手も借り、新人だけでリカバリーを成し遂げた。予定通り翌日午後には測定法に従った結果が出た。宵宮のチェックを受けたうえで、これを依頼のあった別研究室に送れば、地の底を這い続ける関係性もいくらか改善がみられるだろう。
茜の方も『そうだよ、アタシはやればできるんだよ……!』と自信をつけて、発表研究に戻っていった。自信をつけただけでどうにかなるものでもないが、同様に、向き合う姿勢が変わるだけで変わる事もある。
※ ※
「――早速、向こうから礼のメールが届いた。研究室の共有フォルダにも移しておくので、暇があれば見ておくように。……速やかに対処してくれて、俺も助かった」
「えー?柊副室長ー、もっと褒めても、いいんだよー?」
「三暁洞、調子に乗るな。このぐらい当たり前の事だ。そもそもだな、今回は速やかな対応が必要だったが、分析した人間ごとに書式が違うから、いらぬ手間と混乱が起きたんだろう。まったく信じられん。こんな基本を毎回言わねばならんのか?望月、最初の打ち合わせが甘いからそういう事に――」
なかなか万事穏やかには回らない。けれども、以前はその辛口すぎて舌が焼けそうな反省会すら、できる状況ではなかった。
千両研究室はようやく通常運転に回り始めたというところだろうか。
※ 毎週【火曜日】【金曜日】に一話ずつ更新中。
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