37 初めての宿泊客
「いやいやいや」
執務机へ崩れるように肘をつき、心底信じられないものを見る目で、女商館長は大きく口を開いた。
「ここは商人の町だぞ! そんないい加減な書面で通るか!」
そう言うと、彼女は年嵩の手でスヤンの首根っこを掴み、御史から引き戻す。
すると、ベルナルドは眼鏡を押し上げ、再び手錠を引いてスヤンを奪おうとした。
「それを言うなら、役人の領域に商人の道理を持ち込まないでいただきたい。我々は問題に対し迅速な解決を求められている」
「普通、こういうのって、言う人間が逆だと思うのだけどね~」
どこか他人事のように、アンドラスは薔薇色の内髪を掻き上げる。
その眼下、スヤンは商館長とベルナルドによって大岡裁きを食らっている。
肩が外れる、というささやかな主張については両者ともに聞き入れることなく、中央の役人相手にも一歩も引かない商館長が険しい顔で続けた。
「御史殿はご存じないかもしれないが、商館は領内に居住する人間の法的保護について、当地の支配者から全権限の委譲を受けている。このまま連行するというなら第三区決闘裁判所への告訴も検討するが」
「意外だな。それほどの価値がこの異邦人に? ああ、それとも、中央に入れない者同士の連帯かな」
びきり、と音がしたような気がした。
ベルナルドの挑発で商館長の額に青筋が浮かんだ瞬間、二人を両断するような鋭い声が上がる。ストラスだ。
「少なくとも、今回の件に関しては本当に関係がないと私は思うよ」
「何?」
ここまで興味もなさそうに黙っていた人物による予想外の援護に、商館長も驚いている。
一方で、振り返るベルナルドに寄りかかりながら、アンドラスが嘲笑のように言った。
「驚いたわ、ストラス。あたしてっきり、もう耳が遠くて話が聞こえてないのかと」
「いいや、呆れて声も出なかったのさ。この男を生きたまま解剖すれば真実に辿り着けると、お前たちが本気で考えているようだから」
輸入物のティーカップを置いて、ストラスは深く溜息を吐く。
「私の報告書を読んでいないようだね、アンドラス。スヤンの獣は実に絢爛で、争いにしか役立たない。それが何故、頻繁に反応を示しても誰も気づかず、このような危機的状況では表出しないと思うんだい?」
歪曲したスヤンの能力の詳細は、事件後の聞き取りによって大まかに推定されていた。
過去の記憶の再生と共に開花する花の翼は、その心の傷を表すように血を滴らせる。
その血は感情の高まりに応じて糸や嵐に姿を変え、半自動的にスヤンを保護していた。
ストラスの言う通り、理性的な運用は難しく、あまりにも目立ちすぎる。
アンドラスは苛立たしげに舌打ちをして、それっきり黙り込んだ。
しかし、もう一人のベルナルドは目を細め、納得しきれない様子で呟く。
「……一部の歪みは、寛解した後に能力の制御が可能になる事例もあるそうだが」
「絡繰りがあるかも、と自分の望む複雑な真相を捏ね繰り回す前に、もっと単純な説明を探しなさいな」
子どもを窘めるような台詞に、ベルナルドは老獪な趾を睨めつけた。
魔術協会の最高戦力、趾。その第三十六位を相手にして、力づくで押し通せるとも思えない。
そうと分かっていても、この横柄な御史は自分を曲げるということができなくて、唇を食みながら手元で軽く手錠を弄ぶ。
すると、今度は反対側から細い手が挙がった。
「あの、それなら私たちがその調査に協力して、無関係を証明することはできませんか?」
「シャオ」
机の上に仰け反りながらスヤンが目を丸くした。
緊張を隠せない少女を見下ろし、ベルナルドは意気揚々と反論する。
「ハッ、どこの馬の骨とも分からない人間をどうやって信用しろと? 犯人が捜査に紛れ込むのはよくある手口だし、もしかすれば我々を後ろから刺す気かもしれないだろう」
「では商館から正式に依頼を出そう。正体不明の歪曲災害が存在するのは事実だ。お前たちが二人を疑うなら、その捜査として彼らを見張っていればいい」
すかさず差し出された商館長の助け舟に、スヤンとシャオが頷く。
彼女から依頼を受けて動くのはこれが初めてでもない。いつも通りの仕事なのだと胸を張って引き受けられる。
何かを言おうとベルナルドが口を開いた瞬間、彼は想定外の裏切りを受けた。
「あー、まあ、いいんじゃない? そのほうがあたしは楽できるし」
アンドラスが一抜けした。眼鏡の向こうで絶句する。
自分の趾が手を引いたということは、ベルナルドは丸腰になったと言っても過言ではない。多少の心得があっても、あくまでも御史は役人だ。この空間においては、武力では下から数えたほうが早い。
だが、思い直す。
我儘な小娘に、皇帝直々に命ぜられたこの重大な仕事の何が分かる。
多少手荒く手綱を引いてでも、主導権は大人の自分が持つべきだ。
「アンドラス! お前はまた……」
しかし、彼の怒号は最後まで発せられることはなかった。
「あたしがいいって言ってんだよ、ベルナルド。何か勘違いしてるみたいだけど────御史と趾、対等な訳ねえからな? 口の利き方、気ィつけろよな」
アンドラスの灰の色をした視線を注がれるだけで、ベルナルドの肌に灼けつくような痛みが走る。
気づけば髪が少し焦げて、いやな匂いが鼻をついた。
これ以上、どうにもならない。
ベルナルドは頭を振って、スヤンの手錠から手を離した。
「……少しでも怪しい素振りがあれば、その瞬間、地下牢の最下層に叩きこまれると思え!」
かくして、交渉が成立した。
スヤンたち奇逢亭は商館の依頼を受け、正体不明の歪曲災害について調査する。
ベルナルドたちはそれを監視し、やはりスヤンが問題の原因だと証拠を得れば連行する。
期限は一週間。それに間に合わなくてもスヤンは手土産にされてしまうだろう。
一度、ベレタ村に戻って事情を説明しなくてはならない。
シャオに手伝ってもらいながら羽織に袖を通し、スヤンは率先して奮戦してくれた商館長に礼を述べた。
「ありがとう、ああまで庇ってもらえるとは思わなかった」
利益のためなら冷徹な判断を下すことも厭わない彼女だが、やはり人情も潜んでいるものだ。
今までに何度も商館の依頼を引き受けてきて、仲間としての信用を積み重ねたということもあるのではないだろうか。
そう思うと、何だか誇らしいような気持ちになってくる。
目を輝かせるスヤンの前で商館長は両肘をついて顎を乗せる。
「構わんさ。お前たちのおかげで一体どれだけ──」
「商館長……!」
「──どれだけ私があの七面倒くさい支配者に絡まれる時間が減ったか! その時間で得られる儲けときたら、お前の処遇を最高裁まで争っても黒字になるぞ」
「ラディアンテス……」
***
スヤンは御史たちを連れて奇逢亭に戻ることにした。
普段の荷車だけでは足りないので、追加で馬を借りて、長閑な放牧地の合間を抜ける。
この抜けるような空の下では、先ほどまでの緊張も嘘のようだ。
ベレタ村には何事もなく辿り着いた。
懐かしさすら覚える風見鶏、それから苔むした石垣。夏の自然の中に浮かぶ鮮やかな橙色の家々は、絵画の中に迷い込んだような気分にさせてくれる。
荷台に寝転んでいたアンドラスは片眉を上げて呟いた。
「なんだ、クソ貧乏な辺境なのかと思ってたけど、意外と雰囲気あって悪くないわね」
「おや、ようやくお前にも花鳥風月を解する心が育ったようだ」
ストラスが隣でくつくつと笑っている。
つい、と姉から目を逸らして吐き捨てた。
「別に? よく燃えそうだから気に入っただけよ」
楽しげなストラスとは対照的に、スヤンは自分の首に巻かれた首輪をつついて、複雑そうな顔をしていた。
「これは……」
「逃亡防止だ。つべこべ言うな」
ベルナルドが首輪に繋がる鎖を握って鼻を鳴らす。
医者に出かける犬のように、スヤンはとぼとぼと歩いて二人を奇逢亭に案内した。
まだ新しさの残る看板を見上げ、ベルナルドは腕を組む。
「異邦人が一丁前に店をやっているのか」
「旅亭です」
間髪入れずシャオが補足して、門の鍵を開ける。そのあとに続いてスヤンも恐る恐る口を開いた。
「だが正式に開業した訳ではないから……気に入らないなら、村の代表に頼めば泊める支度もあると思う」
「何を言う。お前たちが隙を見て逃げ出そうとするかも分からん以上、俺が目を離すことはない」
「……」
彼とはしばらく一つ屋根の下らしい。
閉口してしまったスヤンの肩を叩き、ストラスが先に入る。
「部屋の一つ二つならもう片付いているし、好きにさせればいいよ」
スヤンが動けないでいた間、ストラスが客室の内装を済ませてくれていたようだ。
それならこの中央から来た二人もそれぞれ個室に通していいだろう。寝るときくらいは首輪を外してくれるといいな、と思った。
そこでシャオが何かに気づいたようにこちらを見た。
「あれ? ということは……」
「!」
彼女の言いたいことはスヤンもすぐに理解した。
客室が出来ていて、二人は一週間、そこに泊まることになる。
あの執着の仕方では食事にも同席するだろうが、それならこちらとしては食費くらい頂戴したいものだ。
それは、つまり。
「シャオ、初めての客だ!」
看板を掲げて二週間。奇逢亭は、大きな一歩を踏み出した。
学業の都合でしばらく更新を休みます
定期的な更新の再開は来年以降になるかと思いますが、何卒ご容赦ください
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