12食目 温泉旅館の朝ごはん♪
翌朝、山の向こうからゆっくりと朝日が昇り始めていた。旅館の窓の外には薄い朝靄がかかり、遠くから川の流れる音が聞こえてくる。
三組の布団が敷かれた部屋の中で、杏々はまだ気持ちよさそうに眠っていた。
「お姉ちゃん。朝だよ」
「…………」
反応がないので、妹は布団の横へしゃがみ込んでもう一度声をかける。
「お姉ちゃん。朝風呂行く?」
「行く」
「早っ」
杏々はぱっと目を開けた。妹が思わず笑う。
「起きられるんじゃん」
「温泉」
「はいはい」
杏々は身体を起こしたが、髪は少しぼさぼさのままだった。
「お姉ちゃん、髪すごいよ」
「?」
「あとで直そうね」
「うん」
隣の布団では、凛がまだ眠っている。
「凛は?」
「起こす?」
「うん」
杏々が凛の布団へ近づき、そっと声をかける。
「凛。朝」
「…………ん」
「温泉行くよ」
「あと……五分……」
凛は薄く目を開けたものの、すぐにまた目を閉じた。杏々は妹を見る。
「行かないって」
「五分って言ってるだけだよ」
「そっか」
それから本当に五分後、三人はそろって朝風呂へ向かった。
◇
朝の露天風呂は、昨夜とはまた違った雰囲気だった。白い湯気の向こうには山が見え、その上には澄んだ青空が広がっている。杏々は肩まで湯に浸かりながら、ぼんやりと景色を眺めていた。
「気持ちいい?」
妹が隣から尋ねる。
「うん」
「昨日あれだけ入ったのにね」
「朝は違う」
「分かる」
凛も湯船の縁へ身体を預け、ゆっくり息を吐いた。
「これは早起きした甲斐があるわね……」
「凛、起きなかった」
「起きたわよ」
「五分」
「いいでしょ、五分くらい!」
杏々が少し笑う。湯気の向こうで、静かな朝の時間が流れていく。
妹はそんな杏々を見ながら、ふと尋ねた。
「旅行、来てよかった?」
「うん」
「一応、お仕事だったけどね」
「温泉あった」
「うん」
「ご飯もいっぱいあった」
「うん」
「凛もいた」
「私、温泉とかご飯と同列なの?」
「違う?」
「……まあ、杏々なら結構上位なのかも」
凛は少し笑った。
「ファイトも楽しかった?」
「うん」
「タッグも?」
「うん」
「そっか」
妹が嬉しそうに頷く。
「また来たい?」
「来たい」
「今度は普通の旅行で来ようか。お仕事なしで」
「会席料理ある?」
「そこ?」
「大事」
凛が吹き出した。
「ある旅館を選べばいいでしょ」
「じゃあ来る」
「決定条件が夕飯なのね」
杏々は満足そうに頷いた。
◇
朝風呂を終えて部屋へ戻り、浴衣を整えていると、妹が声をかけた。
「お姉ちゃん、朝ごはん行くよ」
「…………!」
杏々は完全に目を覚ました。
「行く」
「温泉より反応いいじゃん」
「朝ごはん」
「知ってる」
三人は朝食会場へ向かった。
◇
朝の広間には、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。その中に並べられた三人分の朝食膳を見て、杏々は足を止める。
焼き魚、だし巻き卵、湯豆腐、小さな野菜の煮物、山菜のお浸し、海苔、温泉卵、漬物、味噌汁。そして、蓋のついた小さな土鍋。
「…………♡」
杏々の視線は、土鍋に釘付けになっていた。
「ご飯?」
「そうだと思うよ」
妹が答えたところへ、仲居がやってきた。
「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「うん」
杏々は返事をしながらも、土鍋から目を離さない。
仲居はその様子に気づいたのか、少し笑いながら土鍋を示した。
「こちらは地元のお米を使った炊きたてのご飯でございます」
「…………!」
「やっぱりご飯だったね」
「うん」
仲居が蓋を開けると、白い湯気がふわっと立ち上った。艶のある白米が姿を見せる。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
「うん」
三人は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
◇
杏々はまず味噌汁を一口飲んだ。温かな出汁に、豆腐とわかめ、葱の香りが広がる。
「おいしい」
「朝のお味噌汁っていいよね」
妹も味噌汁を飲み、凛も頷いた。
次に杏々は焼き魚へ箸を伸ばした。身をほぐして口へ運ぶと、香ばしい皮とふっくらした身、ほどよい塩気が広がる。
「…………♡」
そのまま白いご飯を一口食べる。炊きたての米は噛むほどに甘く、杏々はもう一度焼き魚へ箸を伸ばした。
「ご飯」
「まだ食べてなかったの?」
凛が尋ねる。
杏々は茶碗の白米をもう一口食べ、そこへ焼き魚を合わせた。
「…………♡」
「合う?」
妹が聞く。
「すごく」
「よかったね」
魚を食べ、ご飯を食べ、味噌汁を飲む。その繰り返しを眺めながら、凛が言った。
「昨日の会席の時と同じ顔になってる」
「朝ごはんだから」
「理由になってないわよ」
◇
次に杏々が箸を伸ばしたのは、だし巻き卵だった。箸を入れると、ふわりと柔らかく崩れる。
「…………」
口へ運ぶ。
「…………♡」
「ふわふわ」
「美味しい?」
「うん」
妹も一口食べる。
「あ、美味しい」
「でしょ?」
「お姉ちゃんが作ったわけじゃないけどね」
「…………」
凛がすぐに続けた。
「あ、それ私が言おうと思った」
「先に言っちゃいました」
「取られた」
杏々は二人を見比べる。
「何?」
「なんでもない」
続いて温泉卵を割ると、中から黄身がとろりと流れ出した。杏々は少し考えたあと、白米の上へ温泉卵を乗せ、醤油を少し垂らして混ぜ始める。
「お」
凛が思わず声を漏らす。
杏々は混ぜたご飯を口へ運んだ。
「…………♡」
「どう?」
「おいしい」
「でしょうね」
さらに海苔でご飯を巻き、漬物を添え、山菜のお浸しまでご飯に合わせていく。
「これも」
「何でもご飯に合わせ始めた」
妹が笑う。
「朝食の楽しみ方としては正しい気もするけど」
「杏々の場合、最終的に全部白米へ帰ってくるのよ」
「ご飯おいしいよ?」
「それは分かってる!」
◇
一杯目を食べ終えると、杏々はすぐに茶碗を差し出した。
「おかわり」
「はい」
仲居がご飯をよそう。
二杯目は焼き魚とだし巻き卵、海苔を中心に食べ、また茶碗を空にした。
「おかわり」
「はい」
三杯目のご飯がよそわれる。
凛は杏々を見ながら尋ねた。
「何杯目?」
「二?」
「今から三杯目よ」
「そっか」
「自分で数えてないの!?」
妹は味噌汁を飲みながら、落ち着いた様子で言った。
「凛さん、数えない方がいいですよ」
「なんで?」
「疲れるので」
「経験者の言葉が重い……」
三杯目を食べ終えた杏々は、また茶碗を差し出した。
「おかわり」
「まだ行くの!?」
「朝ごはんだから」
「朝ごはんだから何!?」
杏々は首を傾げる。
「朝はいっぱい食べた方がいいって」
「物事には限度ってものがあるのよ!」
「凛」
「何?」
「凛も食べる?」
「食べてる!」
「そっか」
四杯目のご飯がよそわれる。凛はもう、数えるのを諦めた。
◇
その後も杏々は湯豆腐や小鉢、漬物を味わいながら、五杯目のご飯まで食べ進めた。
「おかわり」
仲居は少し笑いながら、またご飯をよそう。
「たくさん召し上がりますね」
「うん」
「ご飯、お好きなんですね」
「好き」
「それでしたら、厨房にまだございますから、遠慮なくお申し付けください」
「…………!」
杏々の表情が明らかに明るくなった。
「ほんと?」
「はい」
「よかった」
凛がその顔を見て言う。
「今の顔、昨日、釜飯のおかわりがあるって聞いた時と同じ」
「おかわりあるから」
「そうね……」
妹が笑う。
「お姉ちゃん、旅館の人に覚えられそう」
「なんで?」
「ご飯いっぱい食べるから」
杏々は少し考えた。
「また来た時いっぱいくれる?」
「そこ期待するんだ」
◇
食後、三人は温かいお茶を飲んだ。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
凛は杏々を見る。
「結局、何杯食べたの?」
「…………」
杏々は考えたが、答えが出ない。
「分かんない」
「でしょうね」
妹が言う。
「たぶん、途中から仲居さんも数えるのやめてました」
「そんなに!?」
「うん」
杏々は満足そうに頷いた。
「朝ごはん美味しかった」
「それなら何より」
凛はため息をつきながら笑う。
「昨日の私とのファイトより長期戦だったわよ」
「ご飯いっぱいあったから」
「比較対象がずっとおかしい!」
◇
朝食を終えると、二日目の仕事が始まった。温泉街の広場には今日も多くの人が集まり、ファイター交流体験や公認店舗の紹介、協会登録相談の案内が並んでいる。
昨日とは違い、今日は一般客との交流が中心だった。
「お姉ちゃん、今日はファイト少ないからね」
「そうなの?」
「残念そうにしない」
「してないよ」
「ちなみに、お昼は地元のお店のお弁当だって」
「頑張る」
「分かりやすい!」
凛が横から口を挟む。
「私とのファイトより扱いやすいんじゃない?」
「食事予定を教えておけば大体いけます」
「妹ちゃん?」
「お姉ちゃんの運用方法です」
「私、運用されてる?」
「されてる」
杏々はよく分からない顔をしていたが、お昼がお弁当だということだけは覚えていた。
◇
午前中、杏々は一般参加者へ簡単なファイター体験の相手をしていた。
小さな男の子が目を輝かせながら尋ねる。
「どうやったら強くなれますか!」
「いっぱい食べる」
「杏々」
凛がすぐ横から言った。
「それだけじゃダメ」
「あと練習」
「順番逆じゃない!?」
別の女の子が尋ねる。
「ファイターになると、美味しいものいっぱい食べられますか?」
「食べられるよ」
「杏々」
「?」
「普通の人でも食べられるから」
「そっか」
少し離れたところでは、妹がその様子を撮影していた。杏々なりに、ちゃんと仕事はしている。たぶん。
◇
昼になると、地元の料理屋が用意した弁当が配られた。山菜ご飯、川魚、煮物、だし巻き卵。
「…………♡」
「まだ食べるの?」
凛が聞く。
「お昼だから」
「朝あれだけ食べたわよね?」
「朝ごはんは朝」
「…………」
「お昼ごはんはお昼」
「理屈は正しいのが腹立つ!」
杏々は楽しそうに弁当を開けた。
◇
午後、最後の交流企画が終了した。
『以上をもちまして、温泉街ファイター交流イベントの全日程を終了いたします!』
拍手が起こる。
「終わった」
「お疲れさま」
妹が声をかける。
杏々は特に疲れた様子もなく、凛も荷物を肩に掛けた。三人は旅館へ戻り、預けていた荷物を受け取る。
玄関前で、凛がバッグを持ち直した。
「じゃあ、私はこっちだから」
「うん」
帰り道の途中から、三人は別方向へ分かれることになる。凛は杏々を見た。
「杏々」
「?」
凛は人差し指を立てる。
「次は勝つから」
「うん」
「絶対」
「うん」
杏々は少し考えた。
「私も」
「?」
「負けないようにする」
凛は一瞬、目を丸くした。
「へえ。言ったわね」
「うん」
凛の口元が上がる。
「じゃあ次は、もっと強くなってくる」
「楽しみ」
「私も」
少しだけ間が空く。
「またね、杏々」
「うん」
杏々が小さく手を振る。
「またね、凛」
凛は一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「うん。またね!」
手を振り返し、凛は歩いていく。杏々と妹は、その背中を見送った。
「仲良くなったね」
「うん」
妹は少し考えてから、ぽつりと言った。
「まあ、凛さんならいいかな」
「何が?」
「なんでもない」
「?」
◇
「じゃあ、私たちも帰ろっか」
「うん」
二人は温泉街を歩き始めた。昨日通った道を進んでいると、杏々がふと足を止める。
「お姉ちゃん?」
妹が視線の先を見る。
「あ」
そこには、昨日杏々が最初に立ち止まった店があった。
『名物 温泉まんじゅう』
「お土産?」
「うん」
「自分で食べる分でしょ」
「家のお土産」
「何箱?」
杏々は店頭に積まれた箱を見ながら考える。
「いっぱい」
「具体的に」
「お父さんも食べる」
「うん」
「妹ちゃんも」
「うん」
「私も」
「それが一番多いでしょ」
「…………」
「何箱?」
杏々は少し考えた。
「五箱」
「多い!」
「足りない?」
「逆!」
「…………」
「三箱くらいでいいよ」
「四」
「交渉始まった」
「四箱」
「間取ったね」
「うん」
妹は少し考えたあと、ため息をついた。
「まあ、日持ちするならいいか」
「やった」
二人は店へ入った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ!」
杏々は店員へ指を向ける。
「温泉まんじゅう」
「はい」
「四箱」
「四箱ですか!?」
「うん」
妹が横から説明する。
「この子、こういう子なんです」
「いっぱい食べる」
「なるほど……」
店員はなぜか納得した。
四箱の温泉まんじゅうを受け取った杏々は、それを大事そうに抱える。
「…………♡」
満足そうだった。
◇
帰りのバスで、杏々と妹は隣同士に座っていた。窓の外では、温泉街が少しずつ遠ざかっていく。杏々の膝の上には、買ったばかりの温泉まんじゅうが乗っていた。
「楽しかった?」
妹が尋ねる。
「うん」
「一番何がよかった?」
杏々は少し考えた。
「朝ごはん」
「会席料理じゃなくなった」
「会席も」
「うん」
「温泉も」
「うん」
「凛とファイトも」
「うん」
「タッグも」
「うん」
「温泉まんじゅうも」
「それもね」
杏々はもう一度考えた。
「あと」
「?」
「妹ちゃんと旅行」
妹は少し黙った。
「……そっか」
「うん」
「楽しかった?」
「うん」
妹は窓の方を向いた。しばらくして、その頬が少し緩む。
「私も」
「?」
「楽しかった」
「うん」
「また行こうね」
「うん♪」
杏々は嬉しそうに頷いた。
協会の仕事で来たはずの、一泊二日の温泉旅行。ファイトをして、温泉に入って、美味しいものをいっぱい食べて、新しい思い出も増えた。
そして杏々は、膝の上の温泉まんじゅうへ視線を落とす。
「妹ちゃん」
「ん?」
「一個食べていい?」
「帰るまで待てないの?」
「…………」
「一個だけね」
「やった」
杏々は箱を開け、温泉まんじゅうを一つ取り出した。
「いただきます」
ぱく。
「…………♡」
帰り道まで、やっぱり美味しい。
――そして。
杏々のおさんぽは、少しだけ遠くまで広がっていくのだった。




