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杏々のおさんぽグルメ  作者: わかめ


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13/17

12食目 温泉旅館の朝ごはん♪


 翌朝、山の向こうからゆっくりと朝日が昇り始めていた。旅館の窓の外には薄い朝靄がかかり、遠くから川の流れる音が聞こえてくる。


 三組の布団が敷かれた部屋の中で、杏々はまだ気持ちよさそうに眠っていた。


「お姉ちゃん。朝だよ」


「…………」


 反応がないので、妹は布団の横へしゃがみ込んでもう一度声をかける。


「お姉ちゃん。朝風呂行く?」


「行く」


「早っ」


 杏々はぱっと目を開けた。妹が思わず笑う。


「起きられるんじゃん」


「温泉」


「はいはい」


 杏々は身体を起こしたが、髪は少しぼさぼさのままだった。


「お姉ちゃん、髪すごいよ」


「?」


「あとで直そうね」


「うん」


 隣の布団では、凛がまだ眠っている。


「凛は?」


「起こす?」


「うん」


 杏々が凛の布団へ近づき、そっと声をかける。


「凛。朝」


「…………ん」


「温泉行くよ」


「あと……五分……」


 凛は薄く目を開けたものの、すぐにまた目を閉じた。杏々は妹を見る。


「行かないって」


「五分って言ってるだけだよ」


「そっか」


 それから本当に五分後、三人はそろって朝風呂へ向かった。


 ◇


 朝の露天風呂は、昨夜とはまた違った雰囲気だった。白い湯気の向こうには山が見え、その上には澄んだ青空が広がっている。杏々は肩まで湯に浸かりながら、ぼんやりと景色を眺めていた。


「気持ちいい?」


 妹が隣から尋ねる。


「うん」


「昨日あれだけ入ったのにね」


「朝は違う」


「分かる」


 凛も湯船の縁へ身体を預け、ゆっくり息を吐いた。


「これは早起きした甲斐があるわね……」


「凛、起きなかった」


「起きたわよ」


「五分」


「いいでしょ、五分くらい!」


 杏々が少し笑う。湯気の向こうで、静かな朝の時間が流れていく。


 妹はそんな杏々を見ながら、ふと尋ねた。


「旅行、来てよかった?」


「うん」


「一応、お仕事だったけどね」


「温泉あった」


「うん」


「ご飯もいっぱいあった」


「うん」


「凛もいた」


「私、温泉とかご飯と同列なの?」


「違う?」


「……まあ、杏々なら結構上位なのかも」


 凛は少し笑った。


「ファイトも楽しかった?」


「うん」


「タッグも?」


「うん」


「そっか」


 妹が嬉しそうに頷く。


「また来たい?」


「来たい」


「今度は普通の旅行で来ようか。お仕事なしで」


「会席料理ある?」


「そこ?」


「大事」


 凛が吹き出した。


「ある旅館を選べばいいでしょ」


「じゃあ来る」


「決定条件が夕飯なのね」


 杏々は満足そうに頷いた。


 ◇


 朝風呂を終えて部屋へ戻り、浴衣を整えていると、妹が声をかけた。


「お姉ちゃん、朝ごはん行くよ」


「…………!」


 杏々は完全に目を覚ました。


「行く」


「温泉より反応いいじゃん」


「朝ごはん」


「知ってる」


 三人は朝食会場へ向かった。


 ◇


 朝の広間には、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。その中に並べられた三人分の朝食膳を見て、杏々は足を止める。


 焼き魚、だし巻き卵、湯豆腐、小さな野菜の煮物、山菜のお浸し、海苔、温泉卵、漬物、味噌汁。そして、蓋のついた小さな土鍋。


「…………♡」


 杏々の視線は、土鍋に釘付けになっていた。


「ご飯?」


「そうだと思うよ」


 妹が答えたところへ、仲居がやってきた。


「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」


「うん」


 杏々は返事をしながらも、土鍋から目を離さない。


 仲居はその様子に気づいたのか、少し笑いながら土鍋を示した。


「こちらは地元のお米を使った炊きたてのご飯でございます」


「…………!」


「やっぱりご飯だったね」


「うん」


 仲居が蓋を開けると、白い湯気がふわっと立ち上った。艶のある白米が姿を見せる。


「それでは、ごゆっくりどうぞ」


「うん」


 三人は手を合わせた。


「いただきます」


「いただきます」


「いただきます」


 ◇


 杏々はまず味噌汁を一口飲んだ。温かな出汁に、豆腐とわかめ、葱の香りが広がる。


「おいしい」


「朝のお味噌汁っていいよね」


 妹も味噌汁を飲み、凛も頷いた。


 次に杏々は焼き魚へ箸を伸ばした。身をほぐして口へ運ぶと、香ばしい皮とふっくらした身、ほどよい塩気が広がる。


「…………♡」


 そのまま白いご飯を一口食べる。炊きたての米は噛むほどに甘く、杏々はもう一度焼き魚へ箸を伸ばした。


「ご飯」


「まだ食べてなかったの?」


 凛が尋ねる。


 杏々は茶碗の白米をもう一口食べ、そこへ焼き魚を合わせた。


「…………♡」


「合う?」


 妹が聞く。


「すごく」


「よかったね」


 魚を食べ、ご飯を食べ、味噌汁を飲む。その繰り返しを眺めながら、凛が言った。


「昨日の会席の時と同じ顔になってる」


「朝ごはんだから」


「理由になってないわよ」


 ◇


 次に杏々が箸を伸ばしたのは、だし巻き卵だった。箸を入れると、ふわりと柔らかく崩れる。


「…………」


 口へ運ぶ。


「…………♡」


「ふわふわ」


「美味しい?」


「うん」


 妹も一口食べる。


「あ、美味しい」


「でしょ?」


「お姉ちゃんが作ったわけじゃないけどね」


「…………」


 凛がすぐに続けた。


「あ、それ私が言おうと思った」


「先に言っちゃいました」


「取られた」


 杏々は二人を見比べる。


「何?」


「なんでもない」


 続いて温泉卵を割ると、中から黄身がとろりと流れ出した。杏々は少し考えたあと、白米の上へ温泉卵を乗せ、醤油を少し垂らして混ぜ始める。


「お」


 凛が思わず声を漏らす。


 杏々は混ぜたご飯を口へ運んだ。


「…………♡」


「どう?」


「おいしい」


「でしょうね」


 さらに海苔でご飯を巻き、漬物を添え、山菜のお浸しまでご飯に合わせていく。


「これも」


「何でもご飯に合わせ始めた」


 妹が笑う。


「朝食の楽しみ方としては正しい気もするけど」


「杏々の場合、最終的に全部白米へ帰ってくるのよ」


「ご飯おいしいよ?」


「それは分かってる!」


 ◇


 一杯目を食べ終えると、杏々はすぐに茶碗を差し出した。


「おかわり」


「はい」


 仲居がご飯をよそう。


 二杯目は焼き魚とだし巻き卵、海苔を中心に食べ、また茶碗を空にした。


「おかわり」


「はい」


 三杯目のご飯がよそわれる。


 凛は杏々を見ながら尋ねた。


「何杯目?」


「二?」


「今から三杯目よ」


「そっか」


「自分で数えてないの!?」


 妹は味噌汁を飲みながら、落ち着いた様子で言った。


「凛さん、数えない方がいいですよ」


「なんで?」


「疲れるので」


「経験者の言葉が重い……」


 三杯目を食べ終えた杏々は、また茶碗を差し出した。


「おかわり」


「まだ行くの!?」


「朝ごはんだから」


「朝ごはんだから何!?」


 杏々は首を傾げる。


「朝はいっぱい食べた方がいいって」


「物事には限度ってものがあるのよ!」


「凛」


「何?」


「凛も食べる?」


「食べてる!」


「そっか」


 四杯目のご飯がよそわれる。凛はもう、数えるのを諦めた。


 ◇


 その後も杏々は湯豆腐や小鉢、漬物を味わいながら、五杯目のご飯まで食べ進めた。


「おかわり」


 仲居は少し笑いながら、またご飯をよそう。


「たくさん召し上がりますね」


「うん」


「ご飯、お好きなんですね」


「好き」


「それでしたら、厨房にまだございますから、遠慮なくお申し付けください」


「…………!」


 杏々の表情が明らかに明るくなった。


「ほんと?」


「はい」


「よかった」


 凛がその顔を見て言う。


「今の顔、昨日、釜飯のおかわりがあるって聞いた時と同じ」


「おかわりあるから」


「そうね……」


 妹が笑う。


「お姉ちゃん、旅館の人に覚えられそう」


「なんで?」


「ご飯いっぱい食べるから」


 杏々は少し考えた。


「また来た時いっぱいくれる?」


「そこ期待するんだ」


 ◇


 食後、三人は温かいお茶を飲んだ。


「ごちそうさまでした」


「ごちそうさまでした」


「ごちそうさま」


 凛は杏々を見る。


「結局、何杯食べたの?」


「…………」


 杏々は考えたが、答えが出ない。


「分かんない」


「でしょうね」


 妹が言う。


「たぶん、途中から仲居さんも数えるのやめてました」


「そんなに!?」


「うん」


 杏々は満足そうに頷いた。


「朝ごはん美味しかった」


「それなら何より」


 凛はため息をつきながら笑う。


「昨日の私とのファイトより長期戦だったわよ」


「ご飯いっぱいあったから」


「比較対象がずっとおかしい!」


 ◇


 朝食を終えると、二日目の仕事が始まった。温泉街の広場には今日も多くの人が集まり、ファイター交流体験や公認店舗の紹介、協会登録相談の案内が並んでいる。


 昨日とは違い、今日は一般客との交流が中心だった。


「お姉ちゃん、今日はファイト少ないからね」


「そうなの?」


「残念そうにしない」


「してないよ」


「ちなみに、お昼は地元のお店のお弁当だって」


「頑張る」


「分かりやすい!」


 凛が横から口を挟む。


「私とのファイトより扱いやすいんじゃない?」


「食事予定を教えておけば大体いけます」


「妹ちゃん?」


「お姉ちゃんの運用方法です」


「私、運用されてる?」


「されてる」


 杏々はよく分からない顔をしていたが、お昼がお弁当だということだけは覚えていた。


 ◇


 午前中、杏々は一般参加者へ簡単なファイター体験の相手をしていた。


 小さな男の子が目を輝かせながら尋ねる。


「どうやったら強くなれますか!」


「いっぱい食べる」


「杏々」


 凛がすぐ横から言った。


「それだけじゃダメ」


「あと練習」


「順番逆じゃない!?」


 別の女の子が尋ねる。


「ファイターになると、美味しいものいっぱい食べられますか?」


「食べられるよ」


「杏々」


「?」


「普通の人でも食べられるから」


「そっか」


 少し離れたところでは、妹がその様子を撮影していた。杏々なりに、ちゃんと仕事はしている。たぶん。


 ◇


 昼になると、地元の料理屋が用意した弁当が配られた。山菜ご飯、川魚、煮物、だし巻き卵。


「…………♡」


「まだ食べるの?」


 凛が聞く。


「お昼だから」


「朝あれだけ食べたわよね?」


「朝ごはんは朝」


「…………」


「お昼ごはんはお昼」


「理屈は正しいのが腹立つ!」


 杏々は楽しそうに弁当を開けた。


 ◇


 午後、最後の交流企画が終了した。


『以上をもちまして、温泉街ファイター交流イベントの全日程を終了いたします!』


 拍手が起こる。


「終わった」


「お疲れさま」


 妹が声をかける。


 杏々は特に疲れた様子もなく、凛も荷物を肩に掛けた。三人は旅館へ戻り、預けていた荷物を受け取る。


 玄関前で、凛がバッグを持ち直した。


「じゃあ、私はこっちだから」


「うん」


 帰り道の途中から、三人は別方向へ分かれることになる。凛は杏々を見た。


「杏々」


「?」


 凛は人差し指を立てる。


「次は勝つから」


「うん」


「絶対」


「うん」


 杏々は少し考えた。


「私も」


「?」


「負けないようにする」


 凛は一瞬、目を丸くした。


「へえ。言ったわね」


「うん」


 凛の口元が上がる。


「じゃあ次は、もっと強くなってくる」


「楽しみ」


「私も」


 少しだけ間が空く。


「またね、杏々」


「うん」


 杏々が小さく手を振る。


「またね、凛」


 凛は一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。


「うん。またね!」


 手を振り返し、凛は歩いていく。杏々と妹は、その背中を見送った。


「仲良くなったね」


「うん」


 妹は少し考えてから、ぽつりと言った。


「まあ、凛さんならいいかな」


「何が?」


「なんでもない」


「?」


 ◇


「じゃあ、私たちも帰ろっか」


「うん」


 二人は温泉街を歩き始めた。昨日通った道を進んでいると、杏々がふと足を止める。


「お姉ちゃん?」


 妹が視線の先を見る。


「あ」


 そこには、昨日杏々が最初に立ち止まった店があった。


『名物 温泉まんじゅう』


「お土産?」


「うん」


「自分で食べる分でしょ」


「家のお土産」


「何箱?」


 杏々は店頭に積まれた箱を見ながら考える。


「いっぱい」


「具体的に」


「お父さんも食べる」


「うん」


「妹ちゃんも」


「うん」


「私も」


「それが一番多いでしょ」


「…………」


「何箱?」


 杏々は少し考えた。


「五箱」


「多い!」


「足りない?」


「逆!」


「…………」


「三箱くらいでいいよ」


「四」


「交渉始まった」


「四箱」


「間取ったね」


「うん」


 妹は少し考えたあと、ため息をついた。


「まあ、日持ちするならいいか」


「やった」


 二人は店へ入った。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ!」


 杏々は店員へ指を向ける。


「温泉まんじゅう」


「はい」


「四箱」


「四箱ですか!?」


「うん」


 妹が横から説明する。


「この子、こういう子なんです」


「いっぱい食べる」


「なるほど……」


 店員はなぜか納得した。


 四箱の温泉まんじゅうを受け取った杏々は、それを大事そうに抱える。


「…………♡」


 満足そうだった。


 ◇


 帰りのバスで、杏々と妹は隣同士に座っていた。窓の外では、温泉街が少しずつ遠ざかっていく。杏々の膝の上には、買ったばかりの温泉まんじゅうが乗っていた。


「楽しかった?」


 妹が尋ねる。


「うん」


「一番何がよかった?」


 杏々は少し考えた。


「朝ごはん」


「会席料理じゃなくなった」


「会席も」


「うん」


「温泉も」


「うん」


「凛とファイトも」


「うん」


「タッグも」


「うん」


「温泉まんじゅうも」


「それもね」


 杏々はもう一度考えた。


「あと」


「?」


「妹ちゃんと旅行」


 妹は少し黙った。


「……そっか」


「うん」


「楽しかった?」


「うん」


 妹は窓の方を向いた。しばらくして、その頬が少し緩む。


「私も」


「?」


「楽しかった」


「うん」


「また行こうね」


「うん♪」


 杏々は嬉しそうに頷いた。


 協会の仕事で来たはずの、一泊二日の温泉旅行。ファイトをして、温泉に入って、美味しいものをいっぱい食べて、新しい思い出も増えた。


 そして杏々は、膝の上の温泉まんじゅうへ視線を落とす。


「妹ちゃん」


「ん?」


「一個食べていい?」


「帰るまで待てないの?」


「…………」


「一個だけね」


「やった」


 杏々は箱を開け、温泉まんじゅうを一つ取り出した。


「いただきます」


 ぱく。


「…………♡」


 帰り道まで、やっぱり美味しい。


 ――そして。


 杏々のおさんぽは、少しだけ遠くまで広がっていくのだった。

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