第3話 不完全な休憩
効率とは人間から「遊び(ゆとり)」を奪うための別名である。
火曜日の朝。
三谷恒一は中堅運送会社「グローバル・キャリー」の配車センターを訪れていた。
今回の標的は、運行管理マネージャーの佐伯。
彼は「物流のジャストインタイム」を信仰し、ドライバーの休憩時間さえも「秒単位のロス」として忌み嫌う男だった。
「遅い!三号車、あと五分早く着けなかったのか。ルート再計算しろ!」
大型モニターが並ぶセンター内で、佐伯の怒声が響く。
彼はドライバーに対し、法定速度ギリギリの運行スケジュールを強い、少しでも遅れれば「自己管理不足」として執拗に責め立てる。
その一方で、自身の評価に直結する「法令遵守」の数字だけは、帳簿上で完璧に整えていた。
三谷は、監査用のタブレットを操作しながら、佐伯の横顔を観察した。
この男の弱点は、その「完璧主義」にある。
「佐伯マネージャー。今回の運行管理システムのアップデートですが、一つ重要な『是正』を行いました」
三谷が、淡々とした声で話しかけた。
「……是正?」
「はい。『荷待ち時間』の自動判定ロジックについてです。これまではGPSが物流拠点内を示していても、ドライバーの手動操作で『休憩』と記録することが可能でした。……現場の運用に合わせて、システム側に『遊び』を持たせていたわけですね」
三谷はタブレットに、厚生労働省のガイドラインを表示させた。
「ですが、労働基準法において、休憩とは『労働から完全に解放された時間』を指します。いつ呼ばれるか分からない待機時間は、法的に『手待時間』と呼ばれる労働時間にあたります」
佐伯の眉がぴくりと動いた。
「……何が言いたい」
「ですので、システムの判定仕様を、厚労省のガイドラインに完全準拠させました。今後、配送エリア内での停車は、すべて強制的に『作業中』としてカウントされます。手動でのステータス変更は、システム側でロックするように仕様変更しました」
佐伯は顔色を変えた。
「な、何を勝手なことを!そんなことをすれば、現場が回らなくなる!」
「おや、困るのですか?マネージャーは常々、コンプライアンスとルールの徹底をおっしゃっていましたよね」
三谷は、無機質な笑顔を浮かべた。
「私はただ、貴方の愛する『法令遵守マニュアル』の記述通りに、システムの仕様を正しく実装し直しただけですが」
三谷が仕込んだのは、バグでも改竄でもない。
曖昧だった運用を許さない、「厳格すぎる正常化」だ。
物流現場において、配送先での荷待ち(順番待ち)は日常茶飯事だ。
ドライバーはそこで一時間以上待機することもある。
これまでは、その待機時間を「休憩」として処理することで、法で定められた「運転四時間ごとの三十分休憩」を消化したことにしていた。
そうやって帳尻を合わせなければ、カツカツの運行スケジュールなど維持できないからだ。
だが三谷の「厳格な適用」により、その逃げ道は塞がれた。
荷待ち時間はすべて「労働」とみなされ、休憩時間は一秒も積み上がらない。
――前提条件:ドライバーは、配送先以外の場所で、完全にフリーな状態で三十分間停止しなければならない。――結果:物理的に、定められた時刻に荷物を届けることは不可能になる。
三日後。
佐伯の管理する運行ダイヤは、見るも無惨に崩壊した。
「なぜ届かない!あと数キロだろうが!」
「無理ですよマネージャー!さっきの物流センターで二時間待たされたせいで、アプリ上では一分も休憩してないことになってるんです!」
「だったら路肩で休め!」
「そうしたいですが、納期に間に合いませんよ!?」
怒号と悲鳴が無線を飛び交う。
主要取引先からのクレーム電話が鳴り止まない。
佐伯は、完璧だった自らのキャリアが崩れていく音を聞いた。
「……クソが。どいつもこいつも無能ばっかりだ」
極限まで追い詰められた佐伯は、自らハンドルを握ることを決めた。
遅延が許されない、大手クライアントへの超特急便。
自ら代走することで、自尊心を保とうとしたのだ。
だが三谷の罠は、ここからが本番だった。
佐伯は配送先での荷待ちで時間を浪費し、アプリの警告灯が赤く点滅し始める。
三谷が設定したのは、車両の物理的な制御ではない。
佐伯が最も恐れる「評価の失墜」だ。
【警告:休憩時間が不足しています。あと三分以内に停車し、休憩を取ってください】
【経過後は、コンプライアンス規定に基づき、『違反報告書』を本社および荷主へ自動送信します】
佐伯の顔色が蒼白になった。
自動送信?荷主に?そんなものが送られれば、佐伯が築き上げてきた「完璧な管理体制」というブランドは一瞬で崩壊する。
取引停止もあり得る致命的な失態だ。
(ふざけるな……。止めろ、送信を止めろ!)
高速道路上では、止まりたくても止まれない。
だが止まらなければ社会的地位が死ぬ。
カウントダウンが無機質な音声で読み上げられる。
『報告書送信まで、あと三十秒』
「くそっ、キャンセルだ!解除ボタンはどこだ!」
佐伯はアクセルを踏み込んだまま、ダッシュボードに固定されたタブレットに手を伸ばした。
本来、走行中は操作を受け付けないはずだが緊急停止ボタンだけは表示されているかもしれない。
焦りと脂汗で指が滑る。視線が道路から外れ、小さな画面上の「送信キャンセル」のアイコンを探して彷徨う。
『十秒』
「あった!これか!」
佐伯が画面上のボタンを指で強く押し込んだ。
ピピッ、と軽い電子音が鳴る。
【送信をキャンセルしました】
カウントダウンが止まった。
「よ、よかった……間に合っ……」
佐伯は大きく息を吐き、安堵の汗をぬぐいながら視線を前方に戻した。
その瞬間、彼の全身が凍りついた。
視界のすべてが、赤いブレーキランプの壁で埋め尽くされていたのだ。
渋滞の最後尾は、鼻先数メートルにまで迫っていた。
「あ――」
ブレーキを踏む暇などない。
佐伯は反射的にハンドルを右に切り裂いた。
トラックの巨体が悲鳴を上げ、制御を失ってスライドする。
前方の車両への直撃は免れたものの、そのまま勢いで中央分離帯のコンクリート壁へと激突した。
轟音。回転。破滅。
ガラスが砕け散り、世界が逆さまになる。
積み荷である精密機器が破壊される音が、遠のく意識の中で響いた。
奇跡的に、他の車両を巻き込むことはなかった。
ただ、佐伯のキャリアと、彼自身の肉体だけが修復不能なほどに壊れていた。
薄れゆく視界の中、割れたモニターが明滅しているのが見えた。
GPSが「車両の完全停止」を検知する。
【安全な停止を確認しました。これより三十分の休憩を開始します】
【エンジン再始動不可】
血の泡を吹きながら、佐伯は絶望した。
死にゆく彼に与えられたのは、彼が部下から奪い続けた「絶対的な休息」だった。
***
数時間後。
三谷は、事故現場から少し離れた歩道に立っていた。
赤色灯が回る中、彼はタブレットのデータを静かに消去した。
「……完璧な休憩だ、佐伯さん」
三谷は呟いた。
佐伯は、部下に「遊び」を許さなかった。
だから、自分自身の人生からも、回避するための「遊び」が消えた。
三谷がやったのは、ただ「ルールを厳格に適用した」だけだ。
だが三谷の胸にあるのは、悪を滅ぼしたという達成感ではない。
あるのは、作ったプログラムがエラーなく動作した時のような、無機質な充足感だけだった。
(佐伯は、死に値するほどの悪党だっただろうか?)
ふと、そんな問いが頭をよぎる。
世間で噂される「マニュアルキラー」は、法で裁けぬ巨悪を葬る義賊だと言われている。
それに比べれば、佐伯などただの「嫌な上司」に過ぎない。
本来なら、殺されるほどの罪人ではなかったかもしれない。
(……だがそんなことはどうでもいい)
三谷は冷ややかに結論づけた。
重要なのは、佐伯が「実験台」として適切だったということだけだ。
彼の性格、職種、そして抱える欠陥。
すべてがこの「厳格化の罠」をテストするのに手頃だった。
三谷にとって、これは正義の執行ではない。ただの「性能試験」だ。
「……再現性は確認できた」
彼は鞄を肩にかけ、誰の咎めも受けずに闇へと歩き出した。
その足取りは、以前よりも確信に満ちている。
だがその背中は、かつての織部が持っていた「悲壮な決意」とは無縁の、ただ純粋な「機能美」を追い求める怪物へと変貌しつつあった。
(第4話「共鳴する言語」へ続く)
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【シリーズ前作はこちら】
『マニュアルキラー:第1部』
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