第4話 共鳴する言語
正義とは、常に主観的な叙述である。
だが論理には、感情の入り込む余地のない絶対的な美しさがある。
水曜日の午前。
三谷恒一は、都立図書館の閉架書庫で、埃を被った資料の山と格闘していた。
彼が求めていたのは、ターゲットの情報ではない。
彼が今まさに行おうとしている「マニュアルキル」という手法を、高次の視点から肯定してくれる「言語」だった。
三谷は直感していた。
多くの人間はマニュアルを「人を守るための盾」だと信じているが、その本質はもっと冷酷な「効率と犠牲のバランスシート」に過ぎないのではないか、と。
指先が、一冊の古い薄い冊子に止まった。
それは、三十年以上前に書かれたある規格策定委員会の議事録だった。
そこには、三谷が求めていた「答え」が、驚くほど冷徹な筆致で記されていた。
『――安全性とは、絶対的な無事故を指すのではない。許容されるコストの範囲内において、統計的に処理可能なリスクの最小化を指す。効率の追求こそが、社会全体の利益を最大化する唯一の仕様である』
三谷は、その一文を指でなぞり、震えた。
胸の鼓動が早くなる。
これは、彼がこれまでの人生で感じてきた現場の甘えや非効率な情状を、理論的に切り捨てるための聖典だった。
「……これだ。これこそが、前提条件を疑った先にある真理だ」
三谷は確信した。
自分は孤独な犯罪者ではない。
この巨大な社会というシステムを最適化しようとする、選ばれた「言語」を話す同志なのだ。
***
午後の陽が傾き始めた頃。
三谷は、湾岸エリアにある閉鎖された物流倉庫の前に立っていた。
そこは数ヶ月前、不可解な自動フォークリフトの暴走事故で死者が出た現場だった。
警察は「センサーの誤作動」と「作業員の不注意」として処理したが、三谷には分かっていた。
ここもまた、「あの男」が手掛けた現場の一つだ。
立ち入り禁止のテープをくぐり、薄暗い倉庫内へ足を踏み入れる。
三谷は現場の中央に立ち、目を閉じた。
脳内で、当時の状況を再構築する。
――マニュアルでは、作業員はこの黄色いラインの内側を通行することになっている。
――だが荷積み効率を優先する場合、最短距離はこの柱の影だ。
――センサーの死角は、床面から高さ30センチ、角度15度の範囲。
三谷は目を開け、何もない空間に向かって手をかざした。
「……なるほど。あなたは機械をハッキングしたわけじゃない。人間の『惰性』というバグを利用して、自ら死角に飛び込ませたのか」
三谷の口元に、冷ややかな笑みが浮かぶ。
「美しいが……古い。あまりにアナログだ。私なら、センサーの検知閾値そのものを書き換える(オーバーライド)。そうすれば、彼らはルールを守ったまま死ぬことができる」
三谷が、虚空に向かって自らの解を呟いた、その時だった。
「……見事な解答だ、三谷君」
背後から響いた声に、三谷は振り返った。
逆光の中に男が立っていた。
仕立ての良いスーツに身を包み、顔の上半分を無機質な仮面で覆った男。
廃倉庫の埃っぽい空気とは無縁の、異様な清潔感と威圧感を放っていた。
「……誰だ」
「君が私の遺した古い『言語』をどう翻訳するか、興味があってね」
男は、三谷が手にしていた議事録の写しを指差した。
「三十年前、私がその一文を記したとき、真に理解できる者は一人もいなかった。だが君は、それを読み解き、さらに進化させようとしている」
男はゆっくりと歩み寄り、一枚のICカードを差し出した。
それは、国内重要インフラの7割を管理下に置く業界最大手・中央総合設備の「広域緊急対応チーム」の認証カードだった。
政府機関から民間物流拠点まで、あらゆる保守点検を名目にネットワークと物理空間の両方へ「法的な通行権」を持つ、実質的なマスターキーだ。
「今の生活を捨て、私と共に来ないか。既存の隙間を探すだけの模倣ではなく、管理プラットフォームの内側からシステムを再構築する側に回るのだ。私は自らを『ルール』と称している。この世界の歪んだ仕様を正す、唯一の基準だ」
「ルール……」三谷はその名を噛み締めた。
目の前にいるのは、あの冷徹な理論の体現者だ。
三谷は問いを投げかけた。
「……私が追っている、この事故を起こした『先駆者』も、あなたの仲間なのですか」
「彼は、仕様の維持に固執する古い『校正者』だ。赤ペンでミスを直すことしかできない」
ルールは仮面の奥で目を細めたような気配を見せた。
「だが君は違う。君は仕様そのものを書き換え、新時代を拓く『改竄者』だ。君なら、いつか彼を追い越し、上書きできるはずだ」
三谷の胸の奥で、歪んだ自尊心が疼いた。
自分はあのアナログな影を越える、次世代の存在なのだ。
その肯定が、三谷を決定的な闇へと誘った。
数日後、三谷は退職届を出し、拠点をルールが用意した「貸し倉庫」へと移した。
すぐに、組織に編入された三谷の端末に、暗号化された最初の「仕事」が届く。
【案件:関東メガ・ロジスティクス専務執行役員加瀬。仕様上の不備による排除を要請する。着手金振込済】
三谷の指がキーボードの上で踊る。現場へ行く必要はない。
与えられたマスター権限で行使できるメンテナンス・バックドアから、物流システムのパラメータを一行書き換えるだけでいい。
「――ようこそ、仕様の裏側へ」
ルールの言葉を反芻し、三谷はエンターキーを叩いた。
それは、次の惨劇へと続く死の第一行目だった。
(第5話「重複する標的」へ続く)
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【原点の物語はこちら】
『マニュアルキラー:第1部』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/




