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凛子と青い車  作者: ふとん
17/17

凛子と、

 今までの人生で一番の赤っ恥をかいた凛子だったが、ひとしきり笑った山原は一緒にホテルへと謝りに行ってくれた。

 真川の母などは湯が沸きそうなほどカンカンで、こんな娘はふさわしくないとこんこんと怒鳴り続けた。騒ぎを聞きつけて慌てて仕事を終わらせて駆け付けた真川も呆れた顔になったものの、最後には何故か笑って山原と凛子を見比べた。


「走って出ていった理由はよく分かったよ」


 詳しい旨までは言わず、なんと今度は凛子と一緒になって自分の母親に全てを話して謝ってくれた。


「なんてこと! どう始末をつけるつもりなの!」


 結局、真川の母は怒鳴り過ぎて眩暈がすると言って帰ってしまった。 

 彼女を見送ったあと、真川はどこかすっきりとした顔で口を開いた。


「悪いことはできないものだな」


 そう言って、真川は目を細めて笑う。


「――今度はちゃんと、時間がかかっても説得してみせるさ」


 真川を見上げて凛子は我知らず息をついた。


(大丈夫)


 その瞳には狂気でも憂いでもなく、ちゃんと強い光が灯ったから。


「君にも迷惑をかけたね。今まで付き合ってくれた分、きちんと給料として支払わせてもらうけれど」


 言葉を切って、真川は凛子の隣に居る山原をなぜか見遣ってにやりと笑う。

 その確信した顔は居心地が悪い。彼には山原との関係を何も言っていないというのに。

 不安顔の凛子を後目に真川はこちらに視線を戻して、


「君はクビだ。佐々木くん」


 とても爽やかに凛子をクビにした。

 


 その後も、凛子は自社の社長に呼び出され、マルベーリックの社長との騒動が噂になっていることを怒られた。

 元の部署でも噂の的になっていて、凛子は一躍、時の人。


 結局、こちらの会社も自主退職という形で凛子は会社を辞めた。      

    


 あっという間の一か月である。

 


 



「凛子―」


 インターホンに呼ばれて玄関に出ていた母に呼ばれているようだ。

 

 やれやれ、と洗濯物干しに精を出していた凛子はちょうど空になったカゴを縁側に置いた。

 無職となって一か月あまり。

 仕事も無いのに一人暮らしもないだろう、と両親に散々言われて凛子は実家に帰った。

 二十代も後半になって嫁にも行かずに職を失くした娘を、両親は呆れながらも笑って出迎えてくれた。それなりに元気ならいいさ、とこの不景気にこちらが呆れてしまうほど楽観さで、ぶらぶらしている凛子に家事を手伝わせている。

 定年退職を控えた父と日々趣味に忙しい母には、ちょうどいいお手伝いさん代わりとなっているようだ。

 

 仕事については、真川は改めてマルベーリックに入らないかと誘ってくれた。自分のせいで会社をクビになったも同然なのだから、と。

 偽婚約の話はあっという間に広まったものの、彼は麗子と自分の両親を説得し、どうにか婚約するまでに至ったようだ。

 初めからそうしていればいいのに、と思わずにはいられないが、それに関しては止められなかった凛子も同罪だ。

 

 相変わらずお金持ちには誘われるし、山の主もちょっかいをかけてくるが、仕事がなかなか見つからないことを除けば凛子の日常はそれなりに戻っていた。

 今まで真面目に働いてきたこともあって貯金はそれなりにあるし、両親に恩返しをしながら次のことを考えよう、と凛子の方も両親に劣らぬのんびり屋だ。

 

 他に気になることといえば、一つだけだった。


「凛子、お客さんよ」


 もたもたと玄関先に顔を出した凛子を少し睨んだものの、母が何やらにやにやとしている。


「今日はお父さんと外に食べに行こうかしらぁ」


 ぽん、と肩を叩いて今度は上機嫌でリビングに戻っていくから不思議だ。訝りながらも凛子は玄関にいるらしい客に視線を戻したが、


「え?」


 ぽかんと口を開けた彼女を、彼は笑った。


「久しぶり。凛子さん」


 

 あのホテルでの騒動以来、連絡もとっていなかった山原がスーツ姿で笑っていた。



「今日は予定ある?」と言われて首を横に振ると、山原は「じゃあ、出かけるから準備してきてくれるかな」と有無を言わせず凛子に肯かせた。

 更に「時間がない」と言われると、言われた方は自然と慌ててしまう。

 結局、凛子はシャツにジーパンといった軽装のまま、身形を整える程度の化粧をしていつも使っている鞄を掴んだだけで、山原に浚われるように実家を後にした。


 築三十年の一軒家の実家の前にはいつも青い車があって、当たり前のように助手席に誘いこまれた凛子を乗せると山原はあっという間に車を走らせていく。 


「――あの、どこに行くんですか?」


 ようやく質問できた凛子を横目に、山原は呆れたように笑った。


「まさか、仕事を辞めてるなんて思わなかったよ」


「それは…」


 凛子は思わず言葉に詰まった。山原に、相談することではないと思っていたからだ。

 彼は凛子の失職にもそもそも偽装婚約にも関係ない。

 ホテルでの騒動は凛子が巻き込んだのだ。

 

(それに)


 場当たり的に口走ってしまったものの、山原は凛子のプロポーズに返事をしていない。


 好きか、嫌いかさえ聞かないまま、一か月前に慌ただしく別れてしまった。

 残っているものといえばあの騒動でなし崩しに買い取りとなった白いウェディングドレスだけがあの日のことを物語るように手元にあるだけ。

 今では山原との思い出が幻だったように思える。

 あの日、山原はウェディングドレスと共に一人暮らしをしていた凛子の部屋まで送ってくれ、それきりだ。


 黙りこんだ凛子を他所に、山原が口にしたのは他のことだった。


「あれから、人ではないものに遭ってる?」


「はい。……でもほとんどあの白髪頭の人に追い払われています」


 凛子の応えは予想していたのか、山原は「なるほど」と頷いたが少しだけ嫌そうな顔をした。どうやら彼は山の主が苦手のようだ。


「じゃあ、やっぱり結界が必要だ」


「結界?」


 オウム返しに尋ねた凛子に「そう」と肯いて、山原はハンドルを切りながら答えた。


「君が普通に暮らすには、強い結界が必要なんだ。……さすがというべきか、君のご両親はそういう君の力に左右されない人みたいだけど」


 そう言われれば、凛子の両親はお金持ちになりたがったりするわけでもなく、ごくごく普通のサラリーマンと専業主婦だ。

 凛子が小さな頃から色々な厄介事を始末してきただけあって、普通の子育てというには苦労も多かっただろうが、父も母は今も昔もどこかのんびり屋だ。


「――きっと、ご両親の幸せが今の形なんだろうな」


 どういうことかと不思議そうな顔をした凛子に山原は目を細めた。


「君の性質は、人を不幸にするものじゃないんだよ。ただ、自分の欲望を叶えるには凛子さんはとても魅力的に映るんだ。それが、お金持ちに好かれるっていうことになってるのかもしれない。そういう人たちは、良くも悪くも精力的な人が多いからいくらあっても物足りないのかもね」


 だから、と信号待ちに車を止めた山原が凛子に微笑む。   


「凛子さんのご両親は、君がいる今の家族が最高に幸せってことなんだよ」


 どんな厄介事があっても、両親は凛子を不気味がったり、変に可愛がったりしなかった。

 悪いことをすれば普通に怒って、失敗をすれば仕方ないな、と笑って迎えてくれた。


――それがどれほど幸せなことか。


(お父さん、お母さん…)


 自分が普通ではないと思い知った今、両親の優しさが胸を温かくしてくれる。

 

 自然と溢れた涙を流すまいと唇を噛んでいると、大きな手の平がぽんと凛子の頭に乗って、そのまま撫でてくれる。


「……ハンカチ、いる?」


「が、我慢してるのに…!」


 堪え切れなくて涙目になった凛子を、山原は信号が青に変わるまで撫で続けてくれた。



 凛子の涙が止まった頃、山原の車はどんどんと山間に入っていったかと思えば、大きな門の前に止まった。車二台は余裕で通れそうな大きな門扉の前で、山原が何がしかのカードをかざすと門は勝手に開いて車を進める。


「や、山原さん…?」


 門から続く道からは、あるのであろう家の姿が見えない。車は鬱蒼と茂る山の中で整備された砂利を踏むばかり。さすがの涙も引っ込むというものだ。           

「小さい頃、グランドピアノを買ってもらって大騒ぎしたって言ってたよね」


 思い出話をしたいわけでもなかったが、凛子は渋々、山原に肯いた。

 思えば、あれが凛子の特殊な半生の始まりだ。


「……おかしいと思ってたんだ。普通、陰陽師の結界なんてものは、流派が違えばどういう仕組みかそうそう分からない」


 専門的なことは分からないがそういうものなのだろう、と凛子が再び肯くと山原は苦く笑う。


「凛子さんのあんなに強い結界の仕組みを、普通は俺みたいなペーペー陰陽師が見破れるはずもないんだよ。結界は強ければ強いほど、仕組みが複雑で見破れないようになっているから」


と、山原は息を吐く。


「――俺が、凛子さんのことに気が付けるはずもないんだ」


 今度は凛子の方が目を丸くする。


「え…それじゃあ…?」


 どういうことなのか。

 首を傾げる凛子に山原は車を止める。

 促されるまま車を降りると、そこにはやはりというか何百年という月日を過ごしてきて森に同化しそうな屋敷がある。

 立派な門構えの玄関の引き戸をガラガラと開けたのは、人の良さそうな和装の女性だった。白髪を綺麗に結い上げた彼女は山原と凛子を見遣って「お待ちしておりました」と頭を下げる。

 さぁどうぞ、と太い柱に支えられた玄関をくぐると、どこまで続いて居るのか分からない廊下が見えた。どこまで奥があるのかと眩暈を起こしそうになりながらも、凛子は山原に続いて屋敷に招かれた。

 今更ながらジーパンとシャツが浮いてしょうがない。

 

「――こちらでお待ちください」


 女性に通されたのはここで合宿でもするのかというほど広い客間である。開け放たれた窓から見えるのは広い庭。獅子脅しの手前には大きな池があって、時折ぱしゃりと水面が跳ねる。きっと鯉がうなるほど居るに違いない。


 今までたくさんのお金持ちに出会ってきた凛子だが、これほどの旧家に招かれたのは初めてだ。

 萎縮して小さく正座していると、客間に戻ってきた和装の女性が品よく茶を出してくれた。


「お菓子もどうぞ。お口にあえばよろしいのですけれど」


 凛子だけに置かれた和菓子はなんだかきらきらと綺麗で、ふわりと香る茶はきっと玉露だ。

 もそもそと「ありがとうございます」と言うと、女性は愛想よく微笑んで再び客間を後にした。

 彼女の気配が遠くなってから、凛子は青ざめたまま山原を見遣る。


「や、山原さん…!」


 まさか、まさかと戦慄く凛子を隣で眺めた山原はのんびりとお茶を飲むではないか。


「あなたは、まさか…」


 もしかして山原はとんでもないお金持ちなのではないか。

 そう青ざめた凛子だったが、


「おお、来たか!」


 とん、と杖をついて客間にやってきたのは、渋い柿色の着物姿の老人だった。

 皺の寄った顔は普通であれば厳しく見えるのだろうが、今のように破顔すると嘘のように人懐こい。

 その笑顔に何だか見覚えがあって凛子がぼやっとしていると、老人の方が嬉しそうに笑った。


「覚えているかな。凛子ちゃん! ジュースのジジイだぞ」


 そう。

 そうだ。

 

 この笑顔でお礼を言ってくれたのだ。この人は。


「あのときの…!」


 後に、凛子の最大のトラウマとなるグランドピアノを贈ってくれた、その人であった。


「大きくなったなぁ。いやいや、綺麗になったな。また会えて嬉しいよ」


 気難しそうな容姿に似合わずそう気さくに言って、彼は客間にどっしりと構えた座卓の前に座る。そうしていると、この老人がこの家の主だと見せつけられたようで、凛子はますます居心地が悪くなった。


「あの…」


 そもそも山原はどうしてここに凛子を連れてきたのか。

 山原と老人を見比べていると、


「なんだ、頼斗。何も話していないのか」


 気安く名前を呼んで水を向けられて、ようやく山原は口を開いた。


「――凛子さん、この人は俺の祖父です」


 凛子は大声を上げかけた口を慌てて塞いだ。

 悲鳴を上げなかっただけマシだというものだが、それでも山原はどこか申し訳なさそうに凛子に向き直った。


「……この、江藤の家は代々、陰陽師をなりわいとしていて、俺はその傍系にあたるんだ。古い家系だから、まぁ、その本家の屋敷は大きいよ」


 眩暈がしそうな凛子を伺うように見遣って山原は覚悟を決めたように息を吐いて続ける。


「それで、どうしてこの大きな屋敷に住んでるジイさんが凛子さんの家のそばに居たかっていうと」


「占いに出たからだな」


 話を引き継いだのは、山原の祖父の江藤だ。


「まぁ、この家は派手な功績があるわけでもないんだがね。昔っから占いは得意でな、いつものように占ってたらお嬢さんの気配が出た」


 凛子の異常な気配を追って探しているところに江藤は幼い凛子と出会い、話しているうちに気に入ったから、


「ほんのお礼のつもりでグランドピアノを贈っただけなんだよ」


 あとで怒られたがね、と頬をかく江藤は悪びれない。凛子は何だか毒気を抜かれて「はぁ」としか肯けなかった。この気ままな老人を本気で怒れる人はなかなかいないだろう。

  

「凛子ちゃんのご両親にも悪いことをしたな。わざわざ来てもらったお詫びに一席に設けたんだが、やっぱり楽しんでもらえなくてね」


 あれほど青ざめた両親の顔はあとにも先にもあの日だけだ。

 よっぽど恐ろしいものを見たのだろうと思っていたが、こんな場所で接待されればサラリーマンと専業主婦は萎縮もするだろう。


「……凛子さんの話を聞いて、まさか、と思ったんだよ」


 山原は大きく溜息をついて、凛子に向かって頭を下げる。


「な、何を…」


「祖父が迷惑をかけて申し訳ない」


「か、顔を上げてください!」


 大の男の人に土下座まがいのことをされてはこちらの方がパニックだ。凛子は泣きそうになりながら留めると、山原の方はゆったりと身を起こして、


「じゃあ、許してくれる?」


 悪びれない顔でのたまった。

 

――これほど祖父にそっくりな孫もいないだろう。


 何だか怒るに怒れないでいる凛子を笑ったのは他でもない江藤老人だ。


「ははは、何だかよく分からんが孫と凛子ちゃんがくっつくならいいさ」


「――それについては、ちゃんとお願いしたはずですよ」


 ぎろり、と山原が常にない不機嫌な顔で祖父を睨むがご老体の方はどこ吹く風だ。


「ああ、あれか。結界ならお前がかけてやればいいだろう」


 え、と凛子が二人を見遣ると、江藤は何でもないことのように言う。


「わしがかけたのは二十年も前の話だし、老い先短いジジィがかけてやるよりお前の方がうまくやるだろ」


「俺にそんな才能はないと、いくら言ったら聞いてくださるんですか」


 ふてぶてしい孫を江藤老人は軽く笑い飛ばす。


「お前が当主を継げばもっと秘法を教えてやれるぞ」


「お断りします!」


 話が見えない。

 困惑した凛子に向かって江藤はにやりと笑う。


「聞いてくれ、凛子ちゃん。この不肖の孫ときたら、一族の中で一番霊力が強いくせに、わしの言うことをちっとも聞きやしない」


「当主なら壱夜兄さんがいるでしょう」


 口を挟んだ山原だったが、


「壱夜もお前が継げばいいと言ってる。あいつは会社の経営の方が好きだからなぁ」


 のらりくらりとかわす江藤老人に唸るだけだ。

 山原は苦々しい顔で祖父を睨んだ。

 

「……俺は何もいらないです」


 ぼそりと呟く孫に、さしもの江藤もゆっくりと肯いた。


「――分かってるさ。お前はわしから車しか受け取らなかったからな」


 さて、と老人はゆったりと腰を上げる。


「たまにはゆっくりしていくといい。凛子ちゃんも」


 凛子を見下ろすと江藤はしわを含んだ目を細めた。


「晩御飯ぐらいはご馳走させてくれよ。菊子さんが張り切って準備していたしな」


 菊子さんというのは先ほどの女性のことだろうか。

 あの優しそうな顔を思い出すと断るに断れない。

 

 じゃあな、と江藤老人が客間を辞したあと、凛子と山原はしばらく黙りこんでいたが、

山原がはーっと深く息を吐いた。


「……びっくりした?」


「はい…」


 小さい頃会ったとは思えないほどパワフルなおじい様だ。


「俺も、いつも言い負かされてるよ」


「後継ぎだから?」


「……それはやめて」


 山原は座卓に顔を埋めるようにして俯いたが、ふと凛子を見上げてくる。

 丸い瞳に見つめられて、今度は凛子の方が目を背けられなくなる。

 しかし何も言わない山原に焦れて、凛子は口を開いた。黙っているとよくないことを考えてしまう。


「――あの」


 けれど、何を話せばいいのか分からなくなってまた口を噤んだ。


 突然、凛子を自分の祖父に会わせようと思ったのは、結界のことがあるからなのだろう。そんなものが自分にかけてあったとは知らないで過ごしてきた。

 山原の言葉によれば、大層な結界であるようだし、あとでやはり江藤にお礼を言わなければならないだろう。

 理由はどうあれ、江藤老人はまったくの厚意で凛子にそんな難しい結界をかけてくれたのだ。 

 

 そう心に決めていると、山原がふ、と笑った。


「凛子さんって結構百面相だよね。考えてることがよく分かる」


 表情が乏しいとはよく言われるが、山原は不思議と凛子の顔色を読み取ってくれるようだ。


(そういえば)


――凛子さん。


 自然と呼ばれていて気付かなかった。

 いつのまにか山原は柔らかい声で凛子の名前を呼んでくれている。

 

(……少しは、許してくれたのかしら)


 彼を裏切ったことには変わりない。

 けれど、少しでも笑ってくれるなら。


「どうしたの、凛子さん」


 柔らかな声に、凛子は思わず笑みをこぼしていた。




 その後、江藤老人は宣言通り、凛子と山原に晩御飯をご馳走してくれた。まさにご馳走というべき会席は刺身のお造りに始まり、旬の膳が座卓いっぱいに並べれられた。

 酒の進んだ江藤老人は山原の子供の頃のことを話して、孫に目いっぱい怒られていたが、菊子と孫に睨まれてどこか嬉しそうだった。

 帰り際には折詰までもらって、両親にいい土産が出来たと凛子が素直に喜ぶと江藤老人も喜んでくれた。


 そうして、車だからと酒を断った山原と凛子は、月の出始めた頃ようやく江藤家を出た。

 車のライトだけを頼りに鬱蒼とした山を進んでいたが、その闇さえどこか優しく感じて凛子はゆったりとした気分で車のシートにもたれかかった。


「……山原さん」


「ん?」


 呼びかけに応える声はどこか満足していて、凛子まで嬉しくなる。

 

「どうして、この車をもらったの?」


 きっとあのご老体のことだ。可愛がっている山原にあれやこれやとプレゼントをしたに違いないと思った。

 山原は「ああ…」と曖昧に肯いて、


「……この車は、俺が欲しいって言っていたんだよ。免許をとったら絶対に欲しいって昔から言ってて」


 ハンドルを握って、真っ直ぐ前を向いたまま山原だったが、その様子は車を走らせて思い出をなぞっているようだ。


「この車は、元々じいさんが若い頃に乗っていて…ばあさんを助手席に乗せて自分で運転していたらしいんだ。……でも、ばあさんが他界してからずっと倉庫で眠ってたんだ」


 俺は、と山原の目が優しくなる。


「ばあさんが生きていた頃、一度だけこの車に乗せてもらったことがあるんだ。その一度が忘れられなくて、いつか自分で乗ってみたいと思ってた」


「そう…」


 そんな車に乗せてもらっているのは、とても幸せだ。

 凛子がそう微笑むと、山原は照れたように笑った。


「今度は、じいさんを乗せてやりたいんだ。ばあさんがいなくなってから一度も乗ってないから」


「とっても喜ばれると思います」


 その時には凛子もこの車に乗せてほしいが、そこまで欲張れない。


「――凛子さん」


 もうすぐ山が終わる。

 林道を抜ければほとんどすぐに高速だ。

 静かな車内で山原を振り返ると、彼は前を向いたまま。



「あなたが好きです。俺ともう一度、結婚を前提にお付き合いしてくださいませんか」



 驚いて、車が止まるのではないかと思った。


 しかし驚きのあとには、じわじわと不安が押し寄せてくる。


「……本当に、私でいいんですか?」


 凛子は山原を疑ったり、裏切ったり。

 一番信用ならないのは、自分だ。


「あなたがいい」


 はっきりと口にした山原は、迷いが無い。

 その迷いのなさが羨ましい。


 凛子は迷ってばかりだ。

 

 けれど、ウェディングドレスで走ったのは、嘘ではない。


「――よろしくお願いします」


 山原が好きだということは、本当なのだから。


 凛子の応えを聞いた山原は体中の息を吐くのではないかというほど、深い息を吐いた。


「……ああ、良かった」


 安堵するのは凛子の方だ。

 だが、山原は苦笑する。


「あのままだと、俺、ストーカーになっていたかもしれない」


「え?」


 尋ね返すと山原は苦笑を深めた。


「あの日、ホテルに行ったの、偶然じゃないんだ」


「まさか…」


 そう、と山原は肯く。


「占ったんだよ。……そうだよ。ずっと、凛子さんのことばっかり占ってた。時々、様子を見に行って、一人だと怪しまれるから妹に頼んで」


「妹…?」


 言葉にしたらもう戻らない。しまった、という顔をした山原だったが観念したように口にする。


「……占いで出た凛子さんの周りを見に行ってたんだ。君に寄ってくるのは人だけじゃないから」 


「じゃあ、あの日の女の人…?」


 今度は山原の方が「えっ」と顔を強張らせた。


「まさか、見かけてた…?」


 引きつった顔に凛子が肯くと、山原は今度こそ顔をしかめる。


「……ごめん。それ、妹だから」


 今度紹介するよ、と付け加えて山原は溜息をついたが、次に苦笑する。


「――お互い、知らないことばっかりだな」


 本当だ。

 凛子の知らない顔を山原はいくつ持っているのだろう。


「……凛子さん、俺の名前、知ってる?」


 びくり、と揺れた凛子の肩を見たのか、山原は「いいよ」と首を振る。


「し、知ってます!」


 ちゃんと知っている。

 言葉にしないで後悔したくない。


 勢いで肯くと面食らった様子だった山原がにやりと笑う。


「じゃあ、呼んでみて」


「知っているんだよね?」と問う様子はあの江藤老人を祖父にしてこの孫あり、だ。

 

 時々、とんでもなく意地が悪くなるのを許してしまうのは、惚れた弱みというやつだろうか。


 凛子は思い切り息を吸って、


「よ、よ…よりと、さん…」


 そのくせ蚊の鳴くような小さな声になった。


 勇気は振り絞ったが、ちょうど高速に入ったばかりでちらちらとミラーを見ていた山原は溜息をついた。

 その様子に聞こえなかったのかと項垂れた凛子だったが、山原は「凛子さん」と恨めしげに言う。


「今、高速で良かったね」


「え?」


「キスしたい」


「えええ?」


「無防備なんだよ、凛子さんは。今までどれだけ我慢してたと思っているんですか」


 真顔で言う山原に凛子は大賛成した。

 彼がハンドルを握っていて良かった。

 そうでなければ、凛子の方が走っている車から飛び降りてしまいそうだ。


「顔が赤いよ」


「前を見て運転してください!」


 遠慮のなくなった山原をこれからどうしよう。

 凛子は火照った顔を手の平に埋めて幸せな悩みを噛みしめた。







――それから、凛子はほどなく山原にプロポーズされた。

 結婚の話はとんとん拍子で進み、凛子はいつかの買い取ったウェディングドレスを今度こそ本当の花嫁として着ることとなった。


 相変わらずお金持ちに声をかけられるし、人ではないものも寄ってくる。

 

 それでも彼は凛子を迎えに来てくれる。


 青い車に乗って。


 



                                                           おしまい。



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