薬屋の母親 3 (三人称)
数日後、マリーは台所に立っていた。お気に入りの赤いエプロンをつけて、袖を捲って手をしっかりと水で洗う。さ、始めましょうか、と意気込んだ。
ビスケットとは、小麦粉に砂糖や牛乳、卵、香料などを加えて作る菓子だ。それらを混ぜ合わせた生地をつくり、型を使って成型する。そうして形が整ったものを焼き上げ、ジャムなどを挟んだりして加工するのだ。
まずバターを混ぜて、砂糖を加えて混ぜる。白っぽくなって砂糖が完全に混ぜきれたら、次はときほぐした卵を数回に分けながら投入していく。最後に小麦粉を加えて混ぜて、生地を作る。
生地が作り終わったら、すぐに使おうとせずに数十分程度寝かせ、それが終わると木の棒で生地を薄く伸ばしていく。そして型をとった後は焼き上げる。
妬き上がるのを待つ間、マリーは棚から手製のジャムを取り出した。
「森で沢山取れたから」と客にお裾分けしてもらった木苺を使って、コトコトとしっかり煮詰めた、木苺の甘酸っぱさを生かしたジャムだ。あえて果肉を潰さずに、ごろごろ、つぶつぶとした触感を楽しめるものになっている。
焼き上がって冷ましたビスケットの一枚に、そのジャムを贅沢にのせて、もう一枚で挟む。その作業を繰り返して、二十個ほどのサンドビスケットができた。
一個味見をすると、ビスケットの甘さと木苺のジャムの酸っぱさがよいバランスで、とても美味しくできていた。その出来映えにマリーは満足する。
紅茶を淹れて、朝から仕事をしているルーカスの息抜きに持っていってあげようと思い立ち、ビスケットをのせた皿を持って立ち上がった時だった。
「え…?」
視界が歪み、一歩前へと踏み出した足が動かなくなったのだ。慌ててテーブルを掴み、バランスを取ったために倒れることはなかったが、頭がクラクラとする。
「立ちくらみかしら…?」
額に手を当てて暫く動かずにいると、目眩は次第に収まってきた。ほっ…と胸を撫で下ろす。知らずの内に疲れが溜まっていたのかもしれない。
ルーカスにも味見をしてもらい、これで準備は整った。あとは"妖精さん"を待つだけだ。ビスケットは比較的長持ちする菓子なので、不定期に訪れる彼にも渡すことができるだろう。
用事が立て込んでいたのか、暫く待ち人は現れなかったが、辛抱強くマリーは店番を続けた。そして、漸く"妖精さん"は現れたのだ。
「いらっしゃいませ!」
元気よく挨拶をすると、彼も挨拶を返してくれた。マリーのところまでやって来て、「今回はここに書いているものをいただきたいのですが」とメモを見せてくる。
「拝見させていただきます」
メモに書き出されているのは、かなりマイナーな植物の名前だった。薬としては使われることは少なく、どちらかと言えば、研究者が実験に使うことが多い。毒性は弱いけれど、一応は毒草に分類されるもの。
「こちらの植物、毒性があるのはご存知で?」
「はい。前回で買った書物にそう書かれてありましたので。あぁ人の体内に入れるものではないので、ご安心ください」
「差し支えがなければ、何に使われるのか教えていただいてもよろしいですか?」
もし万が一口に入れてしまっても、死ぬほどの毒性はない。しかし薬屋として間違った使用法をしようとしているのなら、止める義務があるだろう。心配になってマリーがそう聞くと、「絵の具を作るんです」と"妖精さん"は簡単に用途を明かした。
「絵の具?」
「手作りしようかと」
手作りの絵の具。取り敢えず危険ではなさそうな単語に一安心する。
「でも、絵の具にこの植物は必要ありませんよ?」
「そのようですね。ですが、僕が作りたい絵の具には必要だと思いました。幾つか実験したいので、数はできるだけ多めにいただけると助かります」
絵の具の材料として使われたという話は聞いたことはないが、それは入れても入れなくても変わりはないという理由からで、混ぜたとしても問題はないはずだ。
そういうことならとマリーは店の置くから在庫を探してきた。そして商品を売るついでに、さりげなく、袋に入れていたビスケットも渡す。
「よかったら、これもどうぞ」
「…これは?」
「ビスケット。我ながらなかなか上手くできたんですよ」
「売り物ですか?」
「違いますよ。差し上げます」
彼は不思議そうにビスケットを眺め、そして言った。
「何か目的があるのですか?」
「え?目的?」
「材料費もタダではない。手間だってかかる。赤の他人である貴方が僕に菓子を渡す理由が分かりません」
棘のある言葉に聞こえるが、"妖精さん"は本当に意味が分からないから尋ねているようだった。マリーは予想外の反応に戸惑う。しかし、すぐに彼が困るのも当然だと思い直した。
自分と彼はまだ親しい間柄ではない。顔見知り程度の、よく知らない大人が急に自分に食べ物を渡してきたのだ。怖いと思うに決まっている。
「あ、あの。違うんです!」
怖がらせてしまったのかと思い、とにかく誤解を解こうと口を開いた。
「決して、下心があったわけではっ…あった、わけでは…少しくらいはありましたけど!」
「あったんですね」
「邪な気持ちではなく!ただ貴方と話してみたかっただけで!」
「話してみたかった?それはまた、どうして?」
「だって妖精と話す機会なんて滅多にないからっ!」
「妖精?誰が?」
「貴方が!」
「僕が?」
言い合いの後、二人して首を傾げる。互いに思っていた反応とは違って驚いたのだ。
「え?妖精なのよね?」
「いいえ?残念ながら」
即座に否定されて、マリーは雷に打たれたようなショックを受けた。"妖精さん"の方は「妖精…?僕を、本当に妖精だと思って…?」と呟きながら、マリーの顔を真剣に見つめてくる。
真正面から見つめられれば、居心地の悪さを感じるものだ。居たたまれなくなって「な、何か…?」と聞くと、"妖精さん"は笑い出した。
「嘘はついていない。ふふ、『悪魔』や『化け物』だとは幾度となく言われてきましたが、『妖精』と呼ばれたのは初めてです」
悪魔?化け物?何が面白かったのかマリーには分からなかったけれど、不快な思いはさせていないようだ。
ひとしきり笑った後、"妖精さん"は「ご期待に添えず、申し訳ありません。僕は妖精ではないので、ビスケットが好物というわけではありませんね」と笑いを堪えた声で言う。
「あら、そうなの?」
「はい。甘いものがどうにも苦手で…」
「じゃあこのビスケットは食べられないかしら?」
本物の妖精ではなくとも、彼のために作ったのだ。受け取ってくれないと、少しばかり気持ちが沈む。
「妹は甘いものが嫌いではないでしょうから、彼女にあげることにします」
敵意はないと分かったのか、今度は素直に受け取ってくれた。何でも「どうやら、貴方は父様たちと同じタイプの人間のようだ。そういう人間の行動の意図を理解しようと思っても、頭が痛くなるだけだと最近学び始めたので」とのこと。諦めたように苦笑する"妖精さん"。
「妹がいるのね」
「ええ。双子の」
「双子!可愛いんでしょうね」
「可愛い…かどうかは分かりません。が、彼女の存在に助かっているところはあるのは否定できません」
「まぁ、兄妹で助け合うなんて素敵」
「彼女の勘のよさは素晴らしいですからね。僕にも真似できないものです」
暫くの間談笑を楽しみ、"妖精さん"は思い出したように聞いてきた。
「この近くに顔料を取り扱っている店はありますか?」
「がんりょう?」
「顔料です。絵の具の材料」
絵の具を作りたいと言っていた彼の言葉を思い出し、マリーは快く店の場所を教えて、そして説明だけでは分かりにくいだろうと、簡単な地図も描いてあげた。
「ありがとうございます。菓子と、道案内。お礼をしなければいけませんね」
「お礼だなんて…気にしなくてもいいのよ」
「いいえ。そういうわけにもいきません。対価ですから」
対価。ますます妖精みたいだわ、とマリーは内心思いながらも、今度はどんなことを言い当てられるのだろうとワクワクした。
「お礼として、二つの贈り物を。一つ目は助言です。もう何年も、身体によい習慣を続けられているのではありませんか?特に…血液の循環をよくする効果があるもの」
「何年も続けてるのなら、夫がいつも淹れてくれるハーブティーのこと?冷え症にも効果があると言っていたけれど…」
「あぁ、それですね。きっと。一日に何回飲まれますか?」
「三回よ。食後にいつも」
「では、五回。一日に飲む機会を五回に増やした方がいいと思います。貴方が今の体調を維持できているのは、それのお陰でしょう。かといって、増やしすぎると逆に毒になりますから、五回が丁度いい」
真剣な声でそう言われて、マリーもつられて神妙な面持ちで頷く。何だか医者に診察されている気がしてきた。「二つ目に」と、"妖精さん"は手を差し出す。
「手を出してもらえますか?」
「こう?」
小さな手に自分の手を重ねると、"妖精さん"は目を伏せる。ふっ、と肩が軽くなった気がした。いつもよりも深く息が吸えて、身体がポカポカとしてくる。
「二つ目の贈り物はこれです。魔力操作。少しは身体が楽になったかと。…まぁ焼け石に水でしょうが」
「…?」
「所詮、貴方と僕は赤の他人だ。これ以上の手助けをする義理はありません」
"妖精さん"はそこで一度言葉を切って、マリーの腹ーーーつまり、中の子供へと視線を下ろした。何かを思い出している眼差しだった。
「体調にお気をつけて。貴方は、"あの人"のようにならないといいですね」
悲しげな声色だ、とマリーには感じた。感情的な声でも何でもなく、淡々と言われただけなのに、確かにそう感じた。"妖精さん"はまた静かに帰っていった。




