薬屋の母親 1 (三人称)
最初は『画家』の事件よりも、少し前の時期から始まっています。レオが『商人の息子』で火力石を売り始めた後くらいの頃ですね。
チチチッ…。小鳥の軽やかなさえずりに、マリーは目を覚まし、ぐっと伸びをした。横に寝ていた、夫であるルーカスは既に起きているようだ。台所からは食欲をそそる香りが漂ってくる。
水瓶から両手で水を掬って、顔を洗い、軽く身支度を整える。そうはいっても、軽く髪を纏める程度だ。
仕事の邪魔にならないように、後ろに髪を纏めて紐で結び、その上からいつも愛用している髪留めをつける。花の模様が彫られた上品な髪留めで、まだ恋人同士だった時にルーカスがプレゼントしてくれたものだ。
当時まだ見習いで薄給だった彼にとっては、かなり高価なものだったと聞かされたのは、髪留めを受け取ってから随分経ってのこと。
「君に似合うと思って。どうしても贈りたかったから、必死に貯めたんだ」と顔を赤らめながら告げられた時は、髪留めそのものよりも、自分のためにそこまでしてくれた彼の気持ちがとても嬉しかった。
それからというもの、髪留めに対する愛着は更に湧き、毎日のように身に付けているせいか、今ではつけていない方が違和感を覚えるくらいだ。
右往左往ありながらもマリーとルーカスはお付き合いを続け、三年前に籍を入れた。結婚したら自分たちの関係も変わってしまうのでは、という不安は杞憂に終わり、今でもルーカスはマリーのことを大切にしてくれている。
一年前に、ルーカスは十代の頃から学んでいた師匠の元から独立し、今はマリーと共に小さな薬屋を営んでいる。裕福な生活とは言えないが、幸せな日々。
そして、もうすぐ、もう一人が加わって、もっと楽しい日々になるだろう。腹から胎動が響く。自分の身体の中にもう一つの命が宿っている証拠。
「いい朝ね。私、朝が好きなのよ。何だか気持ちがいいじゃない。朝日を浴びると一日頑張ろう!っていう気になるの。貴方も朝が好きかしら?…貴方に会えるのが待ち遠しいわ」
マリーはそっ…と自身の腹を愛おしげに撫でた。
ゆっくりと歩きながらルーカスがいる元へ向かうと、彼はスープを温めているところだった。「おはよう、ダーリン」とマリーが茶化して挨拶をすると、ルーカスも「おはよう、ハニー」とにっこり笑って返してくれる。
「今日の朝御飯は?」
「具沢山のミネストローネ。玉ねぎ、人参、キャベツ、トマトがゴロゴロ入ってるよ。栄養満点。そこにチーズをのせたパンがあるから、テーブルに持っていってくれる?」
「お安いご用よ」
こんがりと焼けたチーズをのせたパンを運び、マリーはテーブルの上に光る小石が置かれてあるのを見つけた。指で摘まんで日光にあてると、キラキラと輝く。
「綺麗だろう?」
料理を終え、隣に立っていたルーカスが声をかけてくる。
「ええ。これは何?」
「魔法石だよ」
「魔法石?」
「魔法道具を作る際によく使われる石のこと。そして、それもただの魔法石の欠片に見えるけど、立派な魔法道具なんだ」
「でも、魔法道具って高価なんでしょう?どうしてそんなものが家に?」
それがだね、とルーカスは勿体振るように言った。新しい薬草が手に入った時に、彼はこういう言い方をする。自分の説明を聞いて欲しいのだ。ここでは辛抱強く、どうして?と尋ねるのが大事。
長くなるようなら聞かなくていいわ、と言うと拗ねてしまうのだ。彼の性格を熟知しているマリーは、よい生徒の手本のように耳を傾け、行儀よく彼の次の言葉を待った。
「火力石と言って、これを使うと簡単に火がつけられるんだ。どうやら石に直接魔法式を刻んでいるらしくてね。見ててごらん」
ルーカスは火力石と薬包紙を持ち、紙を石に近付けて「火をつけよ」と唱えた。火が灯り、紙が燃えて黒くなっていく。
「ね?すごいだろう?それに、回数制限はあるらしいんだけど、決して高いというほどの値段じゃない。薬を作るために、火をつけなきゃいけない機会は沢山あるし、説明を聞いて是非とも欲しいなと思ったんだ。ほら、普段は火打ち石を使って、湿気が多くて火種が作りにくい日はこれで、って感じに使い分けもできるし」
夫の説明を聞いて、なるほど、これは便利だわ、とマリーは納得する。ただの平民であるマリーには魔法道具なんて縁遠いものだと思っていたが、これは使いやすいと素直に思わざるを得ない。
火打ち石は不便だ。湿度が高い日、特に冬なんかは火が作りにくい上に、手がかじかむから余計に扱いにくい。その点、火力石は大した労力もなしに使えるのだ。
「すごいわ。どこで買ったの?」
「イーガンさんのところだよ。大通りの」
「あぁ、あの大きなお店ね」
四階建ての大きな建物で、魔法道具も取り扱っている評判のよい店だ。マリーは入ったことがないけれど、薬を買いに来た客が褒めているのをよく耳にする。
「一階の平民用のところに売ってたんだ。特にレストランを経営している人は感心して沢山買っていたね。今はまだ広く知られていないけれど、あと数年したら飛ぶように売れるんじゃないかな」
「回数制限があるなら、使い終わった後はどうするの?」
「店に持っていって、また別料金を払ったら魔力を入れてくれるらしいよ。魔力だけなら、火力石を買うよりもずっと安くなる」
「まぁ…よく考えられているのね」
そんな話をしつつ、ミネストローネとパンをテーブルに並べていき、並べ終わると椅子に座って、美味しい食事に感謝しながら食べ始める。
「そう言えば、あの"妖精さん"はどう?」
「時たま来てるよ。前は薬草の本を買っていた。いやぁ、あの子に初めて会った時はびっくりしたな。『この薬草の名前、分かりますか』って持ってきたのが、洞窟の奥にしか生えないとされる、貴重な海月草なんだもの」
"妖精さん"というのは、少し前に来店してきた不思議な客のことだ。マントに付いたフードで顔を隠していて、子供の風貌をしているのに博識。
聞いた特徴から、妖精みたいだとマリーが勝手につけたあだ名で、名前も知らない子供のことを、夫婦はそう呼んでいる。
初めて来店した際に、冒険者でも滅多に手に入れられない薬草を持ち込んできた。暗闇で発光するとされる海月草。
まだ詳しい効能は分かっていないが、魔法道具を探求している世界の研究者たちが目をつけているとされる、未知な可能性を秘めた薬草のことだ。
しかし、あまりにもその数は少ないため、まだまだ解明までは時間がかかると言われている。その薬草をまだ小さな子供が持ってきたのだから、手渡されたルーカスの仰天ぶりは凄まじかったらしい。
どうにか売ってもらえるように頼み込み、最後には泣き落とししたのだとか。「使い終わって、ほとんど成分が抜けているものでよろしければ」と売ってもらったそうだ。
ちなみに「使い終わったって…どうやって使ったんだい?!まだどの研究者も使い道を見つけていないのに!!」というルーカスの問いには、答えてもらえなかったらしい。
意味深な笑みだけ返されたんだ…と、神妙な顔で感想を報告してきた夫を見た時は、マリーは思わず笑ってしまった。
「いいなぁ。私も"妖精さん"に会ってみたいわ」
「じゃあ、今日はマリーが店番をするかい?運がよければ会えるかもしれない。僕は、数日中に調合しておきたかった薬があるんだ」
「そうするわ。安静にとは言われてるけど、編み物にも飽きちゃったし。たまには働かないと」
「絶対に無茶はしないでね。しんどくなったら、いつでも交代するから」
「心配しすぎよ!まだ六ヶ月だもの。お腹もそこまで重くないし、最近は体調も安定しているの」
マリーは子供のいる腹を撫でて、笑いながら言う。ルーカスは優しくて文句の付け所がない夫だけれど、少々心配性なところがある。
その心配性は、昔の身体が弱くベットから起き上がれなかった頃のマリーを彼が知っているためだ。マリーとルーカスの以前の関係は幼馴染みといってよいだろう。
そして時が経つごとに、幼馴染みから恋人、夫婦へと関係性は変わっていった。
ルーカスはマリーの言葉に安心したように微笑んだ後、沸騰させていたお湯をハーブが入ったティーポットに注ぎ、いつもの食後のハーブティーを淹れてくれた。
これもマリーの体調を気遣って、昔から彼がやってくれていたことだ。マリーはカップを受け取り、「いつもありがとう」と感謝する。
「大したことはしてないよ。僕こそ。君と、君の子供と過ごせるという幸せな日々を僕にくれたこと、本当にありがとう」
"感謝しあいっこ"に心が満たされるのを感じながら、マリーはあたたかい味のするハーブティーを味わった。




