画商の過去 4
空の絵を描く画家の作品は次第に、他国で評価されるようになっていった。画家が住んでいた国では受け入れられなかったけれど、離れた雪国では高い評価を受けた。サインを残さないために、シエル、と呼ばれるようになり、名前が自然に広まっていく。
俺が買った値段の数倍以上の値段で取引される。その分得られた利益は多くなったわけだが、私は絵が認められれば認められるほど妙な焦燥感を覚えるようになっていった。
落ち着きがなくなり、集中力が欠けた。また、日々の些細な出来事で苛立つことが増えた。かといって、これほど儲けがあるのだから、私情で中途半端に買い取りを止める訳にもいかない。
ストレスが蓄積されるある日、私は悪夢を見た。
私は子供の姿に戻り、実家にある庭に立っていた。夢だとすぐに理解したが、その場所は細かな部分まで私の記憶通りの庭で、妙にリアルだった。手には一枚の絵が握られている。嫌な予感がして、必死に目を背けようと努めたが、私の意思に反して私の手は勝手に持ち上がり、私の目の前に絵を持ってきた。
指の集合体、不格好な翼の成り損ない。私が一番最初に書いた絵だった。私にとって恐怖の対象そのもの。
夢だ。これは夢のはずだ。夢に違いないと分かっているのに。何故目が覚めない。嫌だ。もう思い出させないでくれ。
脳が動くなと命令しているはずなのに、二本の足が勝手に動いて、庭から出て両親のアトリエへと向かう。知っている。私はこの先の未来を知っている。貶されるのだ。否定されるのだ。幼い私には絶対の強者であり、逆らえない存在であった父と母に。
嫌だ、嫌だ、と心が悲鳴を上げる。やっと平穏を手に入れた。やっとしがらみから解放された。もう捕らわれたくはない。それなのに、身体は、私から主導権が離れたように、操り人形のように勝手に動く。
ドアノブを開け、そして…地獄絵図を見た。
両手の指を切り落とした父が、その指の切断面をキャンバスに当て、あの魔方陣をぐるぐると書いていた。目は右目は右方向を、左目は左方向を見るように、眼球が逆方向を向いている。
母は爪で自分の頬や頭をかきむしりながら、鼠を口に放り込み咀嚼している。
室内だというのに、何十羽の鳥がいて、空の絵画に部屋の壁は埋もれていた。
私が恐ろしいと思うものが詰め込まれた部屋だった。恐怖を具現化したものに思えた。
「あっ…」
思わず小さな声が漏れると、ぐるんっと胴体をそのままに、両親の顔だけが私の方を向いた。その動きは人形めいたもので、ゾクリと背筋を冷えた。彼らと目を合わせたくなくて、私が目をそらすと、部屋中にいる鳥たちも私の方をじいっと見つめていることが分かった。見られている。何十、何百もの目から。
「「「何、この落書き」」」
「「「「私たちの子なのに」」」
父の口が、母の口が、鳥の口が同時に開き、呪いの言葉を紡いで、その言葉が私の心に染み込んで蝕んでいく。落書き。両親から、天才から生まれた子。
私は天才でなくてはならなかった。天才の親から生まれたのだから、両親の才能を引き継ぎ、誰もが唸るような上の作品を作る才能を持って生まれなければならなかった。期待されていたのだから、凡人であっていいはずがなかった。恵まれた環境に生まれたのだから、期待に答えねばならなかった。
本当は喉から手が出るほどに、天才たちの才能を羨んだ。才能さえあったのなら、親は私のことを見てくれた。私のことを愛してくれた。最初は、そう、本当は、私は。
ただ父に、母に褒められたかった。ただ愛して欲しいだけだった。ただそれだけだったのに。
父の手が伸びてきて、ぎゅうっと私の首を絞める。だが彼の指がないために、完全に気道を塞ぐことはできず、死ぬこともできず、ただ息苦しいだけだ。父が問う。
「何故、殺した?」
「静かに…して欲しかったから」
「何故、殺した?」
「私の道を否定されたくなかったから」
「何故、殺した?」
「自分が正しいと思いたかったから」
「何故、殺した?」
「愛されないのなら…望むものをくれないのなら、いらなかったから」
「何故、殺した?」
「自由に…なりたかった…」
愛も、才能も。どれだけ憧れ求めても与えられなかったから、欲しい、欲しいと乞うのは疲れたから、だから、そんなもの欲しがってなんかないと自分に言い聞かせて、そして壊してやろうと思った。そうしたら、きっともう、欲しいとも思わなくなると、信じていたから。
人間の言葉を一言も話さなかった母が、私の元にやってきて、鼠の血で真っ赤に染まった歯を見せながら告げた。
「お前の自由なんてどこにもない」
そこで、私は夢から覚めた。
はっと目を覚ますと、そこは実家ではなく簡素な宿で、何もないことを確認すると身体から一気に力が抜けた。いつの間にか、びっしょりと汗をかいていて、喉はカラカラに渇いていた。
私は悪夢を頻繁に見るようになり、原因も分からず、耐えるしかなかった私は次第に神経が衰弱していった。
そうして心に余裕がなくなっていたせいだろう、「そんなに嫌なら買わなきゃいいじゃないか」と画家に言われた時、私は動揺してしまった。
高く売りさばいていたことが露見したところで、大した問題ではないはずなのに。この件に関しては、私は犯罪を犯した訳ではないし、咎められるとしても罰はせいぜい罰金程度。知られたところで、動揺する必要もなかったはずだ。
それなのに、知られては駄目だ、と思ってしまった。私の悪事の一つが知られれば、両親を殺害したことも知られるのではないかと考えてしまい、作品を安く買っていく私を怪しむその男を生かしておいてはいけないと衝動的に思ったのだ。
酒を渡した。薬は両親に飲ませた分の余りがあったから、それを入れて。今度は明確な殺意を持った犯行だった。
画家は死んだらしい。らしい、というのは私が他国にいた時に自殺したらしく、私は近隣に住む人間からそう聞いたからだ。虫に襲われる、助けてくれとよく叫んでいたと聞いた。父は悪魔を見て、母は猫のようになり、そしてあの男は虫の幻覚を見たのか。
「ほら、ちょっと変わった人だったから…気でも狂ったんだろうねぇ…」
眉を潜めながら小声で言う、彼の隣の家に住む女性に、そうですね、と私は当たり障りのない返事を返した。画家は天涯孤独の身の上だったようで、死体の解剖をして詳しい死因を調べることを望む肉親はいなかったために、そのまま自殺と処理された。
またしても私が疑われることはなかった。
不思議なことに、彼が死んでからパタリと悪夢を見ることもなくなった。
狙い通り画家が死んで、負担がなくなったと思いきや、次に出てくるのは商売の問題だった。シエルと呼ばれた画家の作品は好評だった。他の画家の作品も売っているから、食っていけなくなるというほどではないが、収入が減るのは確か。
シエルの新作はないのか、と尋ねられる回数も多くなっていった。まさか殺したのだとは言えない。体調不良らしい、最近筆が進まぬらしい、とはぐらかしてきたが、そろそろ限界だ。
他の期待できる画家を探すか…と考えていた頃に、また悪夢が再現されるかのように、私は出会ったのだ。父と、あの画家と、よく似た空の描き方をする三人目の画家に。
アーラ・リペラ。そう名乗った画家は、私が今まで会ってきた芸術家たちとは色んな意味で違っていた。簡単に言えば、腰が低い。少し声を荒らげるだけでビクリと身体を震わせ、謝り倒す男だった。
彼が描くのはもっぱら鳥類。それ以外の絵も描けるようだが、鳥と空の絵が上の上だとするならば、他のものをモデルとした絵は中の上。
彼の話によると、学生時代に鳥に魅了されて以来、鳥ばかりを練習してきたらしい。元々は不器用らしいので、好きこそものの上手なれ、という言葉を体現したかのような画家だった。
はっきり言うと、初対面で私は彼という人間がよく分からなかった。上の上が描ける。ならば、才能があるということだ。しかし、鳥と空以外の作品は凡人に近いし、両親と同じ天才という括りのにいれるのにどうにも抵抗がある。
そして、彼の気弱な性格のせいか、憎々しい鳥の絵を描くというのに苛立ちはしなかった。
作品を貶しても、首を横に傾げて、はぁ、とどうでもよさそうな返事を返す。少ない金について何か言いたそうではあっても、基本的に食っていければそれで構わないと思っているようで、顔を会わせる度に文句を言ってくるということもない。
前の画家が住んでいた家に彼も住むと聞いた時は、何の因果かと思ったけれど、特に何か起こることもなかった。
これならば大丈夫なのではないかと思って、私は彼をシエルとして、彼の作品を売るようになった。つまり、空を描いていた画家と彼の二人を同一人物として扱ったのだ。
元々作品の雰囲気は似ていたし、何らかのインスピレーションを得て画家の作風が変わることなど珍しいことでもない。
結果として、私の読みは当たった。彼の鳥の絵は、更にシエルという名前を広めることになった。




