画商の過去 2
流血表現などがあります。気分が悪くなる方もいらっしゃるかと思うので、お気をつけください。
明かりを持ってひんやりとした空気が漂う廊下へと出て、父の自室へと歩く。いつもは気にならないはずの、廊下の壁に飾られた人物画の目が私を見ている気がした。自分がした悪事が露見することを恐れる心が産み出したまやかしだ、と思いながら、慎重に恐る恐る進む。
声は部屋に近付くにつれて、より大きく、酷いものになっていった。ドアの前に立つと、入室を知らせるために軽く叩き、「父さん?」と尋ねる。心臓がドクドクッと脈打つ。脈が上がるのは、期待からか緊張からかどちらだろう。
「あっ…あ、ぁ…ああうぁぁ」
「父さん」
「く、くっるなぁぁ!!」
「父さん、入りますよ」
どうせちゃんとした返事なんてできないだろうと思い、勝手にドアノブに手をかけた。広いベッドの上でシーツを被り、丸まって震える塊が見えた。父だった。
「父さん、大丈夫ですか?」我ながら白々しいと思いながら、気にかけているような態度を見せる。あ…あ…あ…と小刻みに意味のない言葉を発しながら、空想上の化け物を恐れる子供のように、情けなく怯える父の姿を見て、私はうっそりと暗い優越感に似た感情を抱いた。
いつも尊大な父は、今、この瞬間は、現実に存在するはずもないものに怯える哀れな老いぼれだった。次に安堵が心に広がった。すとんと肩が軽くなった。自分が今まで怯えていた二人の内の一人は、ただの弱い人間だったと理解したからだ。恐るるに足らない弱い存在だったのだ。
「あくまっ…あくまがっあぐ…ゃめろぉ、やめでぐれっ…ぁああぁっ…」
父には私の声が聞こえないようで、ぶつぶつと独り言を繰り返す。両耳を塞ぎ、実際には聞こえないのだから効果はないはずだが、幻聴を少しでも小さくしようとしていた。悪魔の囁き声でも彼には聞こえているのだろうか。いい気味だ。私はそっ…と部屋を出て、母の様子を見に行くことにした。
母は父とは違い、ベッドで眠っていた。父の叫び声を聞いても起きていないところを見ると、余程深い眠りについているらしい。気付かれなくてよかったとほっとすると同時に、待てよと不安になった。
母がまだ正気であることは自体は問題ではない。薬の効き目にも、やはり体格や性別の違いから個人差が出てくるのだろう。それに父は母よりも酒をよく飲んでいたし、摂取量も違うから、幻覚が見え始める期間にズレが生じても何らおかしくはない。
しかし、今はいいが、朝起きれば母も父の様子がおかしいことに気付くはずだ。どう誤魔化すべきかと、母の容態を見終わって私は自室に戻ると、一晩悩み続けることになった。
結論を言うと、私の心配は杞憂に終わった。日光が差し込み、春らしいあたたかな風が吹く、誰もが寝床から早くに起きて日向で日光浴をしたくなるような清々しい朝。夜が明けて、そんな朝になっても二人は起きてこなかった。
母はどうしたのだろう。疑問を覚えて私は昨晩と同じように、ひっそりと彼女の部屋を訪れた。ノックをしても反応が返ってこないことを確認し、勝手に部屋に入り、そして…息を呑んだ。
四方を取り囲む壁に、爪で引っ掻いたような傷が一面にあったのだ。猫の悪戯なんて可愛いものではない。五本指の、人間がやったのだと分かる爪痕。そして、ところどころ血が付着していた。
「母さん?」
異様な部屋はもぬけの殻だった。荒れたベッドの上に母の姿はない。まさか窓から出たのかと思って、カーテンを開けるが、鍵は閉まったままだ。ギィと音がした。人が入れるくらいの大きさのクローゼットからだった。
私はクローゼットをゆっくりと開けた。カーテンを開けたことで、部屋に日光が差し込み、クローゼットの中まで照らす。血走った一対の眼球と目があった。
「ひっ…」
思わず短い悲鳴を上げる。手の甲に痛みが走って、何が起こったのか理解できないまま、得たいの知れないものに傷付けられた自分の手を見る。三本の赤い線が引かれていて、線は私の血と、そしてクローゼットの中にいるものの血が混じっていた。
「ぎぃぁ…っ」
獣に似たものの正体は、私の母だった。壁を爪で何度も引っ掻いたせいだろう、母が身体の中で何よりも大切にしていたはずの十本の指は、爪が割れ、血だらけで、ボロボロになっていた。母は私を見ると、天敵に出会った獣のように歯を見せ、フーッと威嚇した。また引っ掻こうと手が動いたので、私は慌ててクローゼットを閉めた。
二人はこの日を境に、静かに壊れていった。まず食事をとらなくなった。私がパンを持っていっても、父はベッドで丸まりシーツから顔を出さなかった。母は、息子の私を忘れているようで、野生の動物が人間からの餌付けを拒むように、睨むばかりで、一口も食べなかった。毎日嫌いな二人の世話をするほど私もお人好しではなかったので、薬が切れたら元に戻って、勝手に食うだろうと食事を用意することもなくなった。
一週間ほど経つと、二人の行動に変化が訪れた。父はベッドから起きて、床に円を描くようになった。画家であった彼が描いたものとは思えぬ、少し歪んだ円。絵の具は自分の血。その円の内にまた円を描いて、その隙間に文字を描く。酷いものだった。下の下どころではない。バランスが考えられていない歪んだ円を見た時は頭痛を覚えた。何だこれは、と不審に思って家にあった書物で調べてみると、悪魔召還の魔方陣なんてオカルトめいたものであることを知った。気味が悪い。
母は、いつの間にか部屋から出て、家の中を駆け回るようになった。二足歩行ではなく、両腕と両足を使った四足歩行で。いよいよ人間を止めたか、と私は呆れたが、母が家を動き回る目的を知ってからは、そんな悠長に構えていられなくなった。母は人間の食事の代わりに、鼠を食すようになったのだ。家にいる鼠を探して食べるため。まだピクピクと痙攣する、生の鼠に歯をつきたて、内臓を貪り食う彼女を見つけた時はぞっとした。感染症の原因にもなる害獣を食べるなんて。
流石の私も、このままではいけないと二人を医者に診せた。自分で薬を盛っておいて、医者を呼ぶなんて変な話だけども、二人を放置すればいつか自分にまで危害が及ぶのではないかと思ったのだ。医者は奇妙な行動をする両親を診察し、首を横に振った。これは手遅れだと。完全に気が狂ってる。精神病院で隔離するか部屋で大人しくさせるしかないと。
薬を飲ませたことが知られるだろうと考えていた私は、毒か何か盛られたと指摘することもなく、あっさりと諦めた医者に驚愕した。
私が酒を飲ませてから一週間と二日。父が死んだ。赤い血で描かれた円まみれの部屋で、冷たくなっていた。食事もほとんど取らなかったので、肥満気味だった身体は痩せこけていた。また、父の死体は両手の指をナイフで切り落とされていた。悪魔の供物のつもりらしく、祭壇に似たところに指は揃えて並べられていた。餓死か、失血死か、どちらが原因か分からなかった。三週間後。母が死んだ。突然柱に頭をぶつけ出した。一応止めたが、奇行は止まらず、そのまま打ち所が悪くて死んだ。彼女の指は皮膚が剥がれて、赤い肉が見え、ものも摘まめない酷い有り様になっていた。
二人の死が公のものとなっても、私の罪が明らかになることはなかった。どうやらここ数年、両親のどちらも仕事が上手くいっていなかったらしく、気が狂ったのはそれが原因だろうと言われた。また父は元々夢遊病を患っていたこともあったから、突然夜に叫び出したのだ、という私の言葉も受け入れられた。
処罰されることもなく、両親を殺すことになってしまった私は、また今まで通りの生活を送れるようになった。




