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画家 16(三人称)


「これだ。やはりここだったんだな」


「…そうですか。用事が済んだのなら、帰ってもらえますか」



アトリエの方で、画商が明るい声を上げた。探し物が見つかったらしい。演技じみている、と思うのは先入観のせいだろうか。


アーラが固い声で、画商の帰りを促した。



「どうしたんだね?今日は随分と…そう、素っ気ないな」


「いえ、別に大した理由はありません。ちょっと風邪気味なだけです」


「ふぅん。酷いのかね?」


「…」


「風邪が」


「あ、いいえ、風邪は酷くないです。一晩寝たら治ります。きっと。だから、早く帰ってもらえるとありがたいんですけど」


「そうか」



画商は言葉を切った。アーラも黙った。嫌な沈黙が流れる。



「君は、知ったのか?」



何を、という目的語は言われなかった。だけど、幽霊のことだ、とアーラたちには分かった。


聞き耳を立てていたアリスは、えっ、と小さく声を上げた。急いで自分の手で口を塞ぐ。幸いにも二人には聞こえていなかった。


どうして急に。アーラの態度は確かに普段とは違うけれども、アーラは幽霊の手記を見たとか、そんなことを一切口を滑らせていない。


一瞬すべて相手に知られたのかと動揺するが、「いや、かまをかけてるよ」幽霊はアリスの考えを否定した。



「どういうこと?」


「アイツ、アーラの様子がおかしいことに気付いてたんだ。この家の前の借り主は俺。持ち物もかなり残っている。君たちが手記を見つけたように、探そうと思えば、殺人が起こったと察せられるものは沢山ある。ひょんなことから、アーラが殺人の証拠を見つけた考えてもおかしくない訳だし、彼が何か知ったんじゃないかって疑ってるんだろうね」



なるほど。とアリスは納得した。


つまり怪しんでいる訳か。自分が幽霊を殺したことを、アーラが知ったのかどうか。


窮地に立たされているが、逆に考えれば、もしアーラは何も知らないと思われれば、危ない酒は渡されないのだろう。


頑張って、アーラ、誤魔化して、とアリスは念を送る。


しかし、その努力も虚しく。



「え、ええええっと、しし知ったって…な、にゃにを、何をです?」



ダラダラと汗を流し、目をキョロキョロと左右に動かし、声は裏返り、舌を噛み。明らかに動揺してます、何かを知っちゃいました、という風にアーラは返した。


アーラはよくも悪くも正直な男であった。基本的に嘘がつけないのである。


こんな状況だけどアリスは思った。ごめん。レオ。レオが正しかった。心を鬼にして、幻覚で血でも何でも見せて、顔に出さないように特訓させればよかった。


スパルタだけども兄の判断が正しかったのだと今更ながら悟る。



「そうか。知らないか。いや、知らないならば構わないんだ。変なことを聞いたな」


「は、はい」


「そうだ。君は酒が好きかね?」


「へ?!しゃけですか?!」


「酒だ。しゃけではなく」



渡す気だ。アリスと幽霊の間に緊張が走る。


そしてアリスは、レオが渡していた試験管を見ていないことに気付いた。


あれを持っておけば不測の事態にもどうにか対処できるはずだとレオは言っていたが、アーラはちゃんと持っているのだろうか。



「アーラ試験管、持ってた?」


「幸運にも服のポケットの中に。本当に試験管の液体を入れれば問題ないの?」


「多分。浄化が、効果、だから、解毒作用も、あるはずだ、ってレオが」


「"はず"か。確かめてないんだ」


「レオは、至聖水飲めないから、こればかりは、確かめられないって」



本音を言えばアリスは不安があった。レオが作ったものなら大丈夫だと安心できるけれど、至聖水は自分が作ったものだ。


手を抜いたつもりも、いい加減なものを作ったつもりもない。レオも聖水を褒めてくれたが、心配が一切ない訳ではない。


もし失敗していたら。レオが言ってくれたような効果がなかったら。アーラは幽霊と同じように狂って死んでしまう。



「ぼ、僕っ、お酒飲めないんです!飲んだことなくて!」


「おや、では初めての酒か。成人して間もないんだったか。酒の美味さを知るよい機会だ」


「いえいえいえっ、飲めないんで!多分下戸なんで!こんなヒョロヒョロな身体なんでアルコールにも負けますから!」


「飲んでもないのに決めつけるのはよくないと思うがね。ここにちょうどよい酒がある。一杯飲もう」


「遠慮します。初めての酒はひっそりと自分一人で飲むんで。そう決めてるんで。今そう決めたんで」


「つれないな。…何かそこまで嫌がる理由でも?」


「ヒョエ…な、なななないっですけどっ」


「では飲めるな。グラスを持ってきてくれ。いくら金がない君でも食器ぐらいは持っているだろう?」



押しに弱すぎでしょ、と幽霊が呆れた声を出した。心配になりつつも、アリスも幽霊に同意する。絶対に嫌だと突っぱねればいいだろうにどうして律儀にグラスを取りに行くのか。



「邪魔、した方がいいかな」


「いや、ここで酒を飲むのを止めても、また機会を伺って画商は来ると思うよ。だって殺人を犯したなんて知られたら一大事なんてものじゃないし。それなら今、アイツの目の前で飲んでやった方がいいと思う」


「…」


「今なら、治癒の魔法だっけ?が使える君がいるんだし。あとで一人の時に狙われるよりはいいよ」


「…うん」



アーラがグラスを取ってきたのか、またアトリエで二人の会話が聞こえてきた。



「さぁ、飲んでみたまえ」


「あ、えーと、どうぞ、お先に。僕は後からでいいです」


「いやいや、君のために待ってきたんだ。私が先に飲む訳にはいかない」


「いえ、あのですね」



飲めないんだ、とアリスは分かった。画商が警戒心を持ってアーラの一挙一動を見ているから、至聖水を入れる隙がない。画商の注意をそらさないと。アリスは辺りを見回して、石鹸を手に取った。


開いている窓から、庭の方へと石鹸を投げる。石鹸は雑草に当たって、ガサガサと音がなった。



「…今の音は?」


「えっと、猫じゃないですか。ここら辺野良猫が多いんですよ」



狙い通り、一瞬だけ画商の意識がアーラから外れて、音へと移った。素早くフォローしたところを見ると、アーラもアリスの意図が分かったらしい。この隙に至聖水を入れられているといいけど。



「…飲まないのかね?」


「あ、はい、飲みます。ごめんなさい」



ごくり、とアリスは固唾を飲んで見守っていた。一秒が異様に長く感じた。早く、早く、この時間が終われと思った。



「…美味しいで、す、ね…ぇ?」



アーラの不自然に切れた言葉と共に、ドサッ…と重いものが床に落ちる音がした。次に、グラスが割れる音。アリスは凍りついたように固まった。叫びだしたい口を必死に押さえ、震える身体を縮こませる。


倒れた。倒れた音だ。アーラが倒れた。お酒を飲んで。至聖水を入れたはずなのに。じゃあ、まさか…失敗した?至聖水に解毒の効果なんてなかった?自分が効果がない失敗作を作っていた?


…アーラを死なせてしまった?


手がカタカタと震えた。恐怖だった。自分の過失で誰かを危険にさらしてしまった恐怖。殺してしまったかもしれない恐怖。そんな恐怖がアリスの心に渦巻いた。



「…呆気ないな」



画商が呟く声がした。先ほどまでの二人の分の物音が消えて、一人の動く音しかしなくなった家は、静かで、呟きはアリスの耳に届いた。その後、足音がして、玄関から画商が出ていく音がした。



「アーラ!!」



画商が去ったことを確認すると、すぐにアリスは風呂場から飛び出して、アトリエへと駆け込んだ。


顔色は悪く、ピクリとも動かずに床に倒れているアーラを発見する。飲みかけの酒が入ったグラスは、彼の横で地面に衝突して割れていた。



「ごめんっなさ、い。ごめんなさいっ。聖水、失敗した…?すぐ、すぐに治す、から。お願い。死なないでっ…!」



いい人だった。優しい人だった。怖がりだけど、臆病ながらもアリスたちを守ろうとしてくれていた。理不尽に殺されていい人ではなかったはずだ。


罪悪感に押し潰されそうになりながら、うつ伏せに倒れるアーラに治癒魔法をかけようと手を当てる。しかしそこで、あれ、と手が止まった。


「待って。おかしい。俺が飲んだ薬物と同じなら、こんなにすぐに倒れる訳がないよ。俺だって一日くらいは異変に気付かなかったんだ」と幽霊が言った。


何故か、勘で彼は大丈夫だと思った。大丈夫?倒れたのに?どうして?


アリスは倒れているアーラの身体をひっくり返して、顔をまじまじと見た。「うそ…」と呟く。



「寝てる、だけ…」



一晩徹夜をした疲労と睡魔が限界に達し、そして至聖水で薬物の効果は浄化したものの、飲めば眠くなるはずのアルコールを摂取したアーラは、普通に寝落ちしていた。




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