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画家 12


牛肉と野菜をリーブオイルで軽く炒め、鍋の中にお湯を入れて、調味料とハーブを加える。あとは一時間程度煮込めばポトフが完成する。


ポトフだけでは足りないので、アーラの家に唯一あった食料である固いパンとは違う、バゲットを買ってきていた。彼が普段食べているパンは、はっきり言って不味い。それに顎が痛くなるほど固い。だから、わざわざ他のパンを用意した。


何等分かに切って、上に薄く切ったチーズをのせ、火で炙る。チーズがとろっ…と溶け始めて、香ばしい香りが台所に漂い始めた。


ぎゅるる、とアリスの腹が鳴る。彼女は無表情で、涎を垂らしながらバゲットを見つめている。



「あと少しだから待てよ」


「分かってる。待て、できる」



人数分を焼いたところで、ちょうどポトフもよいくらいになった。埃を被っていた器を水で念入りに洗ってよそう。


二つの器一杯にポトフを入れても、鍋にはまだ余っていた。数枚分のバゲットの切れ端も残っている。アリスは少し微笑んだ。



「レオって、結構、優しい?」


「勘違いするな。貸しを作りたくないだけだ」


「そっか」



分かったと言いながら、アリスは俺との食事中ずっと笑みを浮かべていた。台所でポトフとバゲットを食べて、腹を満たした俺たちは食器を洗って、アーラのアトリエに戻った。家の中でこの部屋が一番、隙間風がマシなのだ。


アーラはまだ集中が切れていないようで、必死にペンを走らせている。今声をかけるのは邪魔だろうと、俺たちは部屋のソファで大人しくしていた。


ぼんやりとアーラの背中を眺めたり、幽霊と筆談をしていたが、やがてアリスは舟をこぎ始めた。一瞬眠って起き、眠って起きを繰り返し、首が忙しなく上下に揺れている。


防寒具として買ってきていた毛布を渡してやると、くるまってソファに丸まる。睡魔がもう限界らしい。



「寝ていいぞ。お前が起きていてもすることはない」


「でも…」


「隣で動かれる方が鬱陶しい。眠いなら寝ろ」



そう言ってやれば、素直に目を閉じて寝息を立て始めた。視線をアーラに戻す。なかなか集中力が高いな。夕方から少しも休まずに描いているというのに。


…だが、そろそろ疲れが見え始める頃だ。苛立つように頭をかくことが多くなってきた。


俺は立ち上がり台所に戻った。


火をつけ直して、鍋とバゲットを温め直す。それらを入れた皿を待ってアーラがいる部屋へと戻った。まだ彼は絵の前だ。彼の背後に立つ。気付いていない。


溜め息をついて、座っている彼の頭にポトフが入った器を軽くのせた。



「フゥワァォァ!!何何何何なにっ?!…あ、君」


「かなり前に帰ってきていた。お前のことだから気付かなかったのだろう?」


「はい…仰る通りです。それで、どうしたんですか?絵はまだですよ?」



突然、頭部に感じた熱にアーラは飛び上がる。予想していた俺は彼の頭から器を持ち上げる。完全にのせたりしたら、落とされるからな。彼の前にポトフとバゲットと差し出した。



「見れば分かる。ほら」


「…?ポトフですか?」



君たちの晩御飯ですよね?アーラは不思議そうな顔をする。



「アーラの分だ」



へ?と彼は間抜け面をした。



「僕にくれるんですか?お金払ってないですけど…」


「血と絵を提供してくれたことへの礼だ。それと、宿もか。ささやかだが。正式な礼は、今回の件が片付いたら金で払う」


「…」


「貸しは作らない主義だ。遠慮しなくていい」


「…ありがとうございます」



受け取るか迷う素振りを見せる彼に無理矢理渡す。子供の小さな胃ではアリスと俺はもう腹一杯だし、アーラが食べなくては余るだけだ。遠慮されたら逆に困る。


アーラとも取引をしたが、今回はあくまでも幽霊との取引。つまりアーラは協力する筋合いなどないのだ。血液の提供と絵を描く労力への対価、そして家に俺たち二人を泊まらせてくれたことへの対価。俺は進んで人助けをしてやろうとは考えないが、受けたものは返す。


相手が害意を向けるのなら、こちらも暴力を返す。貸しを作ったのなら、その対価を返す。至極簡単だ。



「…あったかい」


「気に入ったか」


「はい」


「よく噛むといい。お前の顔色の悪さはおそらく偏った食生活が原因だ。野菜不足だな。それと運動不足もある。腕を見てみろ。枝のようだぞ。生活が苦しくて贅沢ができないのは理解できるが、運動は多少はしておいた方がいい」



こくこく、と夢中でポトフを食べながらアーラが頷く。「むぐっ?!」急いで食べたせいで喉に詰まったらしく、苦しげに胸を押さえる彼に水を渡してやる。本当に落ち着きがないな。


詰まったものをどうにか飲み込んだ後は、アーラはじっと俺を見つめてきた。「何だ?」と尋ねる。



「君の名前って、何て言うんでしたっけ?」


「レオ・アクイラ」


「へぇ、綺麗な名前ですね」


「名前がどうかしたか?」


「いえ、僕は名前を覚えるの苦手なんです。基本的に他人に興味がないと言うか…。あ、悪気はないんですよ。本当に。覚えよう、覚えようと思っても、次の瞬間には鳥とか絵のことで頭が一杯で。人の名前とかすぐに忘れちゃうんです。流石にサルト君たちは別ですよ。身内の方の名前は覚えてます。頭に叩き入れました」


「俺の名を無理して覚えずとも構わないぞ」



言われてみれば、アーラは俺のことを君と呼んでいた。サルトが叫んでいたから名前を一度は聞いたことがあるにも関わらず。



「怒らないんですか?」


「怒る?何故?」


「だって、嫌じゃないですか。忘れられるのって。『顔は覚えてるですけどぉ名前忘れちゃってぇ』なんて言われたら、イラッとしません?」


「さぁ?俺には覚えはない」


「そうですか。君は怖いこと言いますけど、気は長い方なんですねぇ。苛立ちはする。でも滅多に怒らない。だけど、君の場合、一度怒ったら手を出しそうです。不思議な人ですね」



ずずっ、とアーラはスープをすする。



「お前がそう思うならば、そうなのではないか?俺自身は気は短いと思うがな」


「僕は違うと思いますねぇ。でね、話を戻すんですけど、僕は君のこと話しやすくて好きですよ。いい意味で人の話を聞いてくれませんから、こちらも気楽です。だから名前を覚えたいなぁと思いまして。レオ君ね。レオ君。頑張って覚えます」


「俺を好ましいとは。物好きだな」



己が万人に好かれやすい性格ではないことは自覚している。そんな俺を好きだとは。趣味が悪い。


アーラはクスクスと笑った。



「そうでしょうか?サルト君も色々言ってましたけど、あの子も君のこと嫌いじゃないと思います。性格が悪いとか、本当に色々と言ってましたけど」


「サルトも恐れ知らずだな。まぁ口だけの暴言なら目をつぶろう」


「ふふ。人からの批判の言葉に、傷付かず、怒りもせず、悲しみもしない。鳥みたいに自由で、不思議な人です」


「お前にとっての『鳥みたい』は最上級の褒め言葉では?」


「褒めてるんですよ。いいなぁって思います。君みたいになりたかったな」



俺みたいに?聞き返せば、アーラはスプーンを動かすのを止めて、遠い目をした。ぽそり、と呟かれる。



「僕ね、苛められてたんです。子供の時から」



そして、ゆっくりと暗い声で話し始めた。



「昔から変わった子で。ぼんやり空を眺めるのが好きでした。同年代の子供たちは外で走り回っているのに、僕は窓からぼんやりと雲が流れるのをね、ずうっと、何時間も、見ていられたんです」



想像がつくな。そう思いながら、黙って聞いてやる。



「小さい頃はよかったんですよ。変わった子だなぁ、で周りも流してくれました。でも大きくなるにつれて、協調性のなさを指摘されることが多くなりました。他人に興味が薄いって言っても、人の批判の言葉には傷付くんです。硝子細工よりも脆いんですよ。僕のメンタル。いえ、硝子とか、そんな綺麗なもんでもないんですけど。痛いなぁ、嫌だなぁ、って思ってました。両親も僕と同じです。他人に興味がない。だから、子供の僕にも大して興味がない。僕は独りぼっちでした」



彼は意味もないのに、スプーンで器の中をかき混ぜる。



「ある日ね。町のガキ大将みたいな子がね、僕に突っかかってきたんです。僕は昔から絵を描くことが大好きでした。その頃から好きで、スケッチブックを持ってました。大将の子が僕に話しかけたんですけど、その時の僕は絵を描いていた途中だったんです。普段なら悲鳴上げて、ビクビクするんですけど、筆を持っていたのなら別。なんで邪魔して来るのかな、邪魔だな、どっか行ってくれないかな、と内心思って、無視したんです。繰り返しますけど、普段の僕ならそんな度胸はないですよ。描く時だけが別なだけで」



あぁ、確かに。集中しているところを邪魔されれば、いい気はしない。



「大将の子は無視されて怒りました。僕の手からスケッチブックを奪い取って、目の前で破いたんです。真っ二つなら、まだよかったんですよ。半分に裂いた後、それをまた裂いて、ぐちゃぐちゃにして、終いには足で踏み潰したんです。頭が真っ白になりました。そこからは覚えていません。様子を見ていた他の子たちが言うには、怒り狂って、その子に掴みかかって、噛みついたらしいです。暴言も吐いたとか。驚きましたよ。気付いたら、怪我だらけで、目の前でぐったりしたその子がいて、口に血の味がしたんですから。そこから僕が孤立するのは早かったです。友だちなんてできなくて。癇癪持ちって事で遠巻きにされました。キレたら何するか分からない、みたいな」



当然ですよねぇ…と自嘲するようにアーラは笑った。



「嫌になって、遠くの学校に進学して、知らない場所で一から始めようとしました。でも、ほら、僕っておどおどしてるじゃないですか。苛められっ子に見えるらしいです。実際に昔もからかわれたり、苛めの軽いやつみたいなことされてましたし。学生になってからは酷かったですね。でも、もう遠巻きにはされたくないから、我慢しましたよ。下手だって貶されるのは事実ですから怒りは最初から湧かなかったんですけど、作品を破かれたりするのはこたえました。だけど、我慢しましたよ。噛みつかないように。怒らないように。頑張りました」



そう言って、「けど」と付け加える。一拍置いて。更に声は小さくなった。



「嫌で、嫌で、自分が大嫌いで。親は敵にはなりませんでしたけど、味方にもなってくれなくて。消えようと思ったこともあるんです。崖があるとこに行ったんです。誰にも告げず」



自殺しようとしたのだろう。飛び降りでも考えたか。



「でもねぇ、僕には実行する勇気もなかった。足が立ちすくんで、ふと空を見ました。鳥が飛んでいました。とっても綺麗な鳥。悠々自適に、軽やかに、自由に。その翼を見て、美しいなぁ、って僕は思いました。僕が鳥に魅了されたきっかけです」



少しだけ声が大きくなった。



「僕は絵を描くことが好きです。僕にとって自由の象徴である鳥たちを、キャンバスの中に創造できるこの行為が好きです。美しくて、綺麗で、自由で。飛ぶという行為一つで、一人の人間の人生を変えるほどの魅力を持つこの生き物が好きです」



だから、と彼は言う。



「だから僕は画家になりました。頭がポンコツで、騙されやすいってよく言われます。だって仕方がないじゃないですか。信じてしまうんですから。時々自分が嫌になりますよ。何やってるんだろうなぁ、僕って。でも、鳥の絵を描いているとそんな気持ちもなくなります。僕は鈍間で、不器用で、何も価値あることは成し遂げられないけれど。彼らを見ていると、今日も生きたいなって思えるんですよ」



語り終えてアーラは、へらっと笑った。失敗したことを笑って誤魔化す時のような笑い方だ。



「すみません。何、自分語りしてんだって話ですよね。僕の過去なんて誰も気にしてないですし。どうでもいいことですし。支離滅裂だし。全然、纏まってないですし。意味が分かりませんよね。すみません。けど、何だか君には言いたくなりました。忘れてください」



あぁ、この男は己の過去を恥じているのか。


俺はアーラの気持ち悪い笑みを見て思った。へらへらと。俺が魔王だった頃、こういう笑い方を向けてくる者が多かったな。俺はその笑い方を心底気持ちが悪いとよく思っていたものだ。


その気持ち悪い笑みを止めさせたくて。「…あくまでも、俺の意見だが」と俺は口を開いた。



「お前の絵は決して無価値ではないと思う。言っていなかったな。俺はアーラの絵をそれなりに気に入っている。父様も好きだと言っていた。俺たちは芸術に造詣ぞうけいが深くないから、いい悪いは自信を持って言えない。ただ、魅力が全くないと言いきるのはあまりにも作品が不憫ではないか」



アーラは目を丸くする。



「少なくとも、一人。ここに。お前の作品を『気に入った』という子供がいる。絵はただの落書きではなく、画家の苦悩や人生観が反映されるのだろう。ならば、アーラの苦しみも決して無駄にはならないだろう。知っている者たちから批判され、差別され、傷つけられた経験は、絵に表現される。その絵を買う人間がいる。もしかしたら、この世界に一人だけでも。アーラが描いた絵に、心を動かされ勇気づけられる者がいてもおかしくはない。お前が自殺を考えた時、鳥を見て希望が湧いたように。絵で希望をもらう者がいるかもしれない」



「気紛れに、助言をやろう」と、彼の額に人差し指を当てる。



「どのような苦しい経験も、いつかは己の力になる。苦渋くじゅうを味わえば、復讐心が燃え、それは生きる活力になる。羞恥を味わえば、次は同様の失敗をしないよう策を練られる。どうしようもない後悔は、自分への戒めになる。生き物は失敗して、何かを学ぶ」



そう。人生というのは、そういうものだ。多くのものを望んでも、世界は全てを叶えてはくれない。与えてくれない。だから学ぶしかない。



「お前は頭が足りない。あぁ、はっきりと言ってやろう。俺が会った者たちの中でも、特別に頭が悪い」


「…酷くないですか?」


「しかし、失敗を多くするということは学ぶ機会が多いということだ」



コツン、とアーラの額を軽く小突く。



「忘れたくとも。忌々しくとも。後悔で心臓が握り潰されるように痛んだとしても。記憶を嫌っても。不必要なものだと言うな。軽々しく扱うな。知識は本を買い学べる。けれど、知恵は買えない。幼少期に長い苦しみを味わったのなら、お前は多くことを学んだはずだ。己の過去を軽く扱う代わりに、今後は過去を丁重に扱え」



これがお前への助言だ。だからさっさとその気持ち悪い笑顔を止めろ。苛ついて、蹴りたくなってくる。額から手を離す。


指で押しただけなので、痛くはないはずだが、アーラはぽかんとした顔で、指が置かれていた部分を手で押さえていた。




「…レオ君って、人生何周目ですか?え?最近の五歳ってこんなに威厳あるんですか?」


「ふふ。どうだろうな?」



冗談のつもりだろうが、かなりいい線をいっている。だが、正直に答えてやる義理もないので、代わりに笑ってやった。



「なんか言葉の一つ一つが重いって言うか…レオ君も辛い経験をしたことがあります?」


「山のように」


「うへぇ…山のよう、ですか」


「未だに思い出すだけで、己への嫌悪感が湧き出る記憶もある。忘れたらどれだけ楽になれるかと考えこともある。実際に、記憶を消す術も持っていたが、それでも俺は忘れるという選択肢を選ばなかった。忘れてはならないと、許されないと思ったからだ。どれだけ嘆いても過去は変えられないのならば、残された選択肢を選び続けることしかできないと思ってな」



俺でさえ。憎い過去がある。嫌な記憶がある。けれど、俺がアーラと違っている点は、過去を軽く扱わないということ。



「手が血に染まっても。足が歩き疲れても。選び続けなくてはならないのなら。せめて次は選択を誤ることがないように。失敗を受け入れ、歯をくいしばって、次こそは後悔のない結果になるようにと知恵と知識を振り絞りながら、生きてきた」


「…やっぱり鳥みたいですよ、レオ君って」



アーラは、にっと笑った。俺が嫌ってはいない方の笑みだ。そして言った。



「鳥みたいで、強くて、とても綺麗な生き方だと僕は思います」




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