結論──人文学の役割
さて、文学がいかに社会現象を読み解くのに有効か説明できたのではないだろうか。ここで最初の疑問に戻ろうと思う。つまり、文学がなぜ無益なものだと思われるようになったかということである。
政治権力と知識は結びつき、言葉、経済、そして生物を制御しようとする。自然科学も例外ではない。三角比は建築技術に、力学は投石機に、熱力学は大砲に、化学は毒ガス兵器に、量子力学は原子爆弾に、それぞれ組み込まれていったという歴史的事実がある。
人文科学は政治にどう組み込まれたのか? フーコーはこの問いに対し、明瞭に回答を出している。人間をいかに効率よく支配するか研究する学問だ、と。その代表的な施設が学校と刑務所である。
しかし、人間が失敗を繰り返してきた歴史であり、人間の制御が難しいことを歴史学は示していく。権力者のみならず、人類全体が忘れたいと願っている過去を。文学は無益だと思っている理由は、無益であって欲しいという願望にほかならない。しかし、文学は時として直接、過去の誤ちを教えるのである。抑圧してきた人類の記憶を。
例えばチャーチルは第一次世界大戦を振り返って、回顧録へ次のように綴っている。「大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような破壊のためのシステムを生み出すことになる。人類は初めて自分たちを絶滅させる道具を手に入れたのだ。これこそが、人類の栄光と苦労のすべてが最後に到達した運命である」と。
そればかりではない。理解できない人間を排除してきた歴史が、厳然たる事実として目の前に立ち現れるのである。強制収容所に送られたユダヤ人精神科医、フランクルは『夜と霧』で克明にその体験を記録している。
他にも政治哲学者、アガンベンは「人間とは何か」という問いは自明なものではなく、恣意的なものとして捉えている。ユダヤ人のホロコースト、そしてアブグレイブ収容所における虐待事件はまさに「人間とは何か」を問う、その典型例だろう。
心理学者ジンバルドの『ルシファー・エフェクト』もアブグレイブ虐待事件を考えるのに役立つ。看守、囚人という役割──あくまでも役割である──を与えて、行動がどう変化するか。この実験をスタンフォード大学で行なったのだが、看守役は最終的に囚人役へ暴力を振るったことで中止を余儀なくされた。またミルグラムの『服従の心理』も、人間が権力に唯々諾々と従ってしまうことを物語っている。
『ルシファー・エフェクト』、『服従の心理』の結果は、肩書きに支配されやすいかを示すものだろう。そう、人文科学の役割は本来、人間の本性を暴き立て、現前させることにあるのだ。自然科学が自然界の現象を実験で暴き立てるのと同様に。
人間、いや、他人は本当に理解できない。時として自分自身の行動すら理解できないのに、他人を理解できるわけがないのだ。心は目に見えないのだから。
しかしだからと言って理解を放棄するわけにはいかない。放棄したら歴史を繰り返すこととなる。ただし、「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」。茶番劇を演じないように対話をしなければいけない。反省し、分析し、解釈し、そして理解<しようとする>人間的営み──これこそが文学なのである。
そして異質なものと対話していく中で次の段階に止揚する、と十八世紀の哲学者、ヘーゲルは考えた。両者を包括するような新しい知識が生まれるだろう、と。