第四話 漂流
インカムにザッというかすかなノイズが響く。
「次、続けていいか? モニターにハイドロプレッシャーのコントロールタブが出ているはず。右舷三番と五十二番をオンに……」
かすれ気味の声に、画面の向こうで分厚いオペレーションマニュアルを読みふけっていた香帆はあわてて顔を起こし、目の前のタッチディスプレイに指を這わせる。
『っと、これでいい?』
「OK、あー駄目だ、やっぱりこいつもリークしてる。一度戻して」
『了解』
そこで一旦通信が途絶える。香帆は俺がEVAに出てからすでに八時間を経過していることに気づいて形のいい眉を曇らせた。
『ねえ、一度休憩したら?』
「そうだな、油圧系を処理したらとりあえず戻る。ただ今金属パテの硬化待ちだ」
さすがに声に疲労の色がにじむのが抑えられない。
無理もない。かさばる上に関節部分が硬い耐放射線与圧服は着用するだけでもうんざりなのに、その上分厚い与圧グローブをはめたまま、イライラするほど細かい配管や配線の破断面を何十カ所も末端処理しなくてはならないのだ。
本来、この手の修理はレスキューを呼んで直近のドックに曳いてもらい、与圧された環境で時間をかけてじっくり行うべきものだ。だが、現状がそれを許さない。
「デブコン硬化確認。香帆、もう一回三番と五十二番に圧力をかけてくれるか?」
『はい、行きます』
かけ声と共に香帆は再びディスプレイをタッチする。
「よし、どうにか漏れは止まったみたいだ。そっちに戻るから外側エアロック開けて」
『はーい』
構造材を伝わってトコトコと低く響く真空ポンプの振動がおさまり、遠くでムチが唸るようなヒュッという音と共に外部ドアの開閉音が響く。わずかな気圧変動を感知した減圧アラートが一瞬だけ鳴動したかと思うとすぐにおさまり、同時にコクピットの与圧扉が開く。
「おつかれさま。外の様子はどうだった?」
顔中汗まみれの俺に冷たく冷やしたスポンジタオルを手渡しながら、香帆は努めて明るく声をかける。
だが、真っ黒い金属パテのこびりついたぼろぼろの与圧グローブをコンソールに叩き付けながら、俺は無言で首を横に振った。
「思ってたよりかなりひどい。いや、最悪と言っていい。持っていかれたのは右舷エンジンだけじゃなかったよ。レーザージャイロ、長距離通信用アンテナ、近距離レーザー通信用のイレクターに測位ビーコン受波機。ああっ、スペアのない高価な機器ばっかりまとめてごっそり持って行きやがって! 大損害だ、こんちくしょう!」
悲壮な顔のままどさりとシートに倒れ込むと、俺はカーゴパンツの右ももの大型ポケットからデータパッドをとりだして香帆に放った。受け取った画面に表示された点検項目の半分以上が赤文字なのに気づいてさすがに香帆も表情を曇らせる。
「燃料配管と電力メインバスだけは自動的に閉鎖されてたんだけど、あとは垂れ流し同然だった。油圧系はリザーブタンクの予備も含めてほとんど揮発してたし、船殻冷却液に至っては一滴も残ってなかった。とりあえず目につく限りの亀裂と穴はメタルパテで塞いだし、スペアのある分に関しては補充してきたけど、もう少し修理に手間取ってたら完全にアウトだったかもな」
「情報伝達系はどんな感じなの?」
香帆がマニュアルの冒頭に掲げられた船内ネットワークシステムの項目を指でなぞりながら尋ねる。
「うーん、けっこうやばいかも知れないなあ。メインバスは光ケーブルだから大丈夫だと思うけど、センサー系でシールドが破れてるのがかなりあった。光コンバーターの手前で回路をカットできる分だけは落してきたけど、手が回らない部分はまだ宙ぶらりんだ」
香帆の表情がさらに曇る
「それじゃセンサー類の読みもあんまりあてにならないわね。それにシールドのすき間から変なノイズが入り込んだらメインフレームまでおしまいだわ」
「ああ、でもとりあえずこれ以上はどうしようもない」
俺は香帆からパッドを取り戻し、コンソールのスロットに刺して点検データをメインフレームにアップデートする。それを元に、ディスプレイには機能不全に陥ったシステムがずらりと表示された。薄々予想できたこととはいえ、無慈悲なレポートに俺はすっかりめげた。
「うわぁ、本船の現在位置推定不可能、進行方向不明、速度も不明、燃料残量不明、電力残量不明…おいおいおい、どうするよ、まったく!」
「全方位メーデー発振不能、船体姿勢制御不能、……うーん、これじゃレスキューすら呼べないし」
香帆も落胆気味に続ける
「それにオートパイロットも使えない……。ねえ、大航海時代の船乗りみたいに星を読みながら昼夜ぶっ続けで舵輪を握るしかないって言ったら…」
「うわ~、天測かよ、かんべんしてくれ。大学の天測実習はDプラスだったんだよ」
頭を抱える俺。
「かと言って考えなしにエンジン吹かすとまた大スピンだし」
両手を広げてお手上げポーズをしてみせる。
「でも、こうやってここでぼーっとしているよりは……」
「それはまあ、そうだけど、なあ」
俺は肩をすくめてシートに座り直す。確かに、少しでも目的地に急ぎたかった。
「それにしても」
俺は脳裏に今回の収支決算を思い浮かべて泣きたくなった。貨物の遅延違約金に船の修理代。おいしい儲け仕事のはずが一転して大赤字だ。
「今回は最初っからついてないよなぁ」
そして、すべての元凶ともいえる香帆の横顔をちらりと見やると、ひときわ大きなため息と共に残ったエンジンの再起動シーケンスに取りかかった。
アローラムの設計上の特徴は、三基のメインエンジンがそれぞれ船体から緩やかな曲線を描いて長く伸びたフィンの内部にすっぽりと組み込まれている点にある。しかもエンジンもそれぞれ異なるモデルが装備されている。
アローラムはもともと単発エンジン出力試験用の小型船であり、払い下げを受けて俺が貨物区画を追加する改造を行った時に一基は元の場所から移設し、残りの2基はあとから無理やり追加した。
本来、船体の重心線を極端に外れた位置に大推力のエンジンを置くことは宇宙船の設計セオリーからすれば邪道である。しかし、アローラムはあえてセオリーを無視し、三基の推力をコンピューター制御で強引にバランスさせる逆転の発想で、他の船が決してまねることのできないクイックな機動レスポンスと、船の格からしてとてもありえないほど広大な貨物区画を実現している。
だが、今となってはアンバランスなエンジンとコンピューターに頼りきった制御方式がかえってアダとなってしまっていた。
手動操作で強力なエンジンをひと吹かしした瞬間、姿勢制御用のジャイロを失い、おまけに重心の狂ったアローラムはその場で制御不可能なスピンをはじめてしまうのだ。
「残った2基のエンジン出力をどうにか同調させて、船をこんな感じに斜めに傾けて横滑りさせ、発生した推力が船の質量中心を貫くように吹けば、まっすぐ進めないこともない。あくまで理屈の上では、ってことだけど、ね」
俺はディスプレイ上に表示させたアローラムの3Dモデルの上に、スタイラスマーカーで斜めに大きく矢印を書き込みながら香帆に示す。
「ただ、問題はエンジンノズルのジンバル角だ。本船の場合、ノズルの方向はわずか数度しか動かせない。ロックする限界まで首を振っても出力ベクトルがいい方向を向かないんだ」
「どうして?」
「ああ、無理してデカいエンジンを積んだからな。今搭載しているやつは本来大型船舶の主エンジン用なんだ。だから…」
香帆はまだピンときていないらしい。ディスプレイ上のアローラムをくるくると回しながらキョトンとした顔を見せる。
「大型エンジンのジンバルはノズルの可動域なんかより巨大な出力に耐える頑丈さが優先する。デカい船は重いから慣性重量がある。小回りなんて最初からだれも期待していないからエンジンにもそんな仕組みは最初から装備されていない」
「なんでそんな面倒くさいものをこの船に積んじゃうのよ?」
「まあ、もともと本船はテストベッドなんで、エンジンマウントの強度にあきれるほど余裕があった。三基も積めば出力次第でいくらでも小回りが効くし、それで問題ないと思ってたんだよ……昨日までは。ね」
「どういうこと?」
俺は自嘲気味にため息をつきながらディスプレイにブルドーザーの3Dモデルを表示させる。
「たとえば、こういう重機の場合、最初からハンドルなんてついてない。でも、左右の無限軌道の速度は別々に制御できるよな」
「うん?」
「だから、たとえば右のクローラーは前、左のクローラーは後ろに動かすと、その場で三百六十度ターンだってできる。むしろ普通の車より小回りが効くんだよ。アローラムもおおむね同じ考え方だ。パワーで強引に船体を振り回す」
言いながらモデルをくるりと超信地旋回させてみる。
「あー、なるほどー」
ようやく納得したらしい。
「でも、今は片っぽだけのシオマネキ状態だよ」
「そう、でも、幸いなことに」
言葉を切りフッと薄く笑って皮肉な表情を浮かべながら、
「右舷側の重量物がもぎ取られてまとめて無くなったから、今本船の重心はおおむねこのあたり」
と、表示された3Dモデルの左舷エンジンフレーム根元あたりに赤色でぐりぐりと丸をつる。
「だいぶ左舷に寄ってきてる。だからこの際、左舷エンジンだけで進むつもりで、トップのエンジンはバランスとり程度に使う。あとは右舷船首にある姿勢制御スラスターを休まず動作させて船体のスピンを抑える」
説明しながらわびしく思う。今やアローラムは姿勢制御スラスターの推力にあわせたほんのわずかな噴射でメインエンジンを動かすしか方法がない。思惑がうまく運んだとしても巡航速度は通常時の数分の一にしかならないだろう。当然、全力噴射など望むべくもない。
「でも……それじゃあほとんど漂流だね」
香帆がふとこぼした感想が、あまりに的確すぎて俺は思わず泣きたくなった。
---To be continued---