1.目覚めると①
――ここはどこだろう?
目を開けた時、最初に見えたのは見知らぬ白い天井だった。
天井は高く、その中央には見たことのない形の照明が吊り下がっている。大きな窓からは、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
ぼんやりする頭を起こして、ぐるりと部屋を見渡す。
ベッドの横には小さなテーブルとイス。壁際に置かれた棚の横には、大きな鏡が立てかけてある。どれも見覚えがないものばかりだった。
わたしはゆっくりと身体を起こした。
頭が、まだ少しぼんやりする。痛みはない。
けれど、何かがおかしい。ここがどこなのか。どうしてここにいるのか。
それ以前に――。
「……昨日、何してたんだっけ」
思い出そうとしてみる。
昨日。その前。もっと前。
けれど、頭の中には霧がかかったような感覚だけが残っていて、何も掴むことができなかった。
ただ、うっすらと――。
誰かが遠くで叫んでいるような声を聞いた気がした。
――ベル。
それだけは覚えている。それ以外の記憶は欠け落ちているようだった。
わたしはベッドから足を下ろした。
裸足の足裏に、冷たい床の感触が伝わってくる。ベッドの下に置いてあった靴を履き、鏡の前に立つ。
鏡の中には、小さな女の子がいた。緑色の目。はねた髪。緑色の服。
見慣れた自分の姿のはずなのに、どこか不思議な気持ちがある。
「……」
そのまま数歩歩き、窓の外を覗いてみた。そこには、広い庭があった。さらにその向こうには森が広がっている。
知らない風景だ。けれど、何故かどこか見覚えがあるような気もする。何かを思い出せないか考えてみるけれど――。
「……わからないや」
小さく呟いた、そのときだった。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「……?」
返事をするより先に、部屋の扉がゆっくり開いた。
「起きた?」
立っていたのは、一人の男の人だった。
短めの黒の髪を真ん中で分け、どこか気だるそうな雰囲気をしている。けれど、その目は穏やかだった。
その人はわたしの姿を見ると、少しだけ安心したように笑った。
「気分はどう?」
「……平気」
「そっか。頭は痛くない?」
「うん」
「気持ち悪いとか、身体が重いとかは?」
「大丈夫、だよ」
「そう。よかった」
男の人はそのまま扉を閉めて、部屋の中へ入ってきた。けれど、訝しげに見るわたしの様子に気づいてか、少し距離を空けたところで止まった。
「驚かせたかな」
「……あなた、誰?」
「……それはこっちの台詞かな」
「え?」
「きみがぼくの屋敷の前で倒れていたから、ぼくがここまで運んできたんだ」
わたしは眉を寄せた。倒れていた、と言われてもまったく覚えていない。
「昨日のこと、覚えてる?」
「……」
「……そっか」
わたしがしばらく考えて首を横に振ると、男の人も期待していた答えが得られなかったからだろう。残念そうに言った。
「昨日の夜、屋敷の入り口できみが倒れてるのを見つけてね。目立った怪我とかはなかったけど、ただ、呼びかけても返事がなかったから」
男の人は、そこで少し困ったように笑った。
「放っておくわけにもいかなかった」
「それで、ここに?」
「そういうこと」
わたしは自分の腕や身体を改めて見てみた。
確かに、どこにも怪我はない。服も破れていない。何かあって倒れていたようには思えなかった。
「……わたし、なんで倒れてたんだろう?」
「さあ? それは、ぼくにもわからない」
男の人は肩をすくめた。
「だから、起きたら聞こうと思っていたんだけどね」
「そっか……」
わたしはもう一度、自分の記憶を探してみた。けれど、やっぱり何も思い出せない。
「帰るところは? 家とか、家族とか」
「……」
その問いに、わたしは何も答えられなかった。
家と聞いても、何も浮かばなかった。誰かの顔も、家の景色も、帰り道も。
「……わからない」
小さな声しか出なかった。男の人はわたしの表情を見て察したのか、それ以上は聞かなかった。
「そっか」
それだけだった。責めることも、かわいそうだと言うこともない。ただ、静かに受け止めてくれた。
「じゃあ、記憶が戻るまで、ここにいればいいよ」
男の人は少し考えてから、あっさりと言った。驚いてわたしは顔を上げる。
「……いいの?」
「もちろん」
「でも、知らない人なのに」
「それはお互い様だね。ぼくも、きみのことを何も知らない」
「それはそうだけど……」
「これでも、困っている子を追い出すほど冷たくはないつもりだよ」
微笑む男の人につられて、わたしも少しだけ笑った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
少し、安心した。これからどうすればいいのか全然わからなかったけど、とりあえず、住むところだけはなんとかなりそうだ。
いずれ出ていかなくてはいけないだろうけど、記憶が戻るまでは、甘えさせてもらうことにしよう。
そんなことを考えていると、男の人がぽんと手を打った。
「さて。それじゃあとりあえず、何か食べようか」
「ごはん?」
「うん。お腹空いてるんじゃない?」
そう言われると、急に思い出したかのようにお腹が鳴った。
ぐう。
「……」
思ったより音が響いた。
わたしは恥ずかしくなってお腹を押さえる。その様子を見て男の人が吹き出した。
「お腹は正直だね」
「……うう」
「ごめん、ごめん」
あんまり笑わないでほしい。抗議の目を向けると、男の人は楽しそうに謝罪した。
「じゃあ、朝食にしようか」
男の人が扉を開けようとした、そのときだった。
コンコン、と再び扉を叩く音がした。
「失礼いたします」
扉が開く。入ってきたのは、シンプルなメイド服に身を包んだ、一人のきれいな女の人だった。
淡い紫の短い髪に、白いヘッドドレスが似合っている。
手には銀色のトレイ。その上にはティーポットと小さなカップ、そしてサンドイッチが並べられていた。
「お目覚めになられたのですね」
「ヘレナ、ちょうどよかった。今呼ぼうと⋯⋯、タイミング良すぎない?」
「優秀なメイドですから」
男の人の疑問の声に、メイドさんは淡々と返す。そしてわたしのほうを見て、少し微笑んだ。
「はじめまして」
「……はじめまして」
「私はヘレナと申します」
「わたしは……」
そこまで言って、わたしは少しだけ迷った。
わたしの、名前。
……覚えている名前らしきものは、ひとつしかなかった。
「……ベル、だよ」
多分。
「ベル様ですね」
ヘレナさんは丁寧に頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
「よろしく……」
ヘレナさんはテーブルの上にトレイを置き、カップとお皿を置いていく。
ふわりと紅茶の香りが広がる。その隣には、サンドイッチが置かれたお皿。視線が自然とそちらへ向いてしまう。
「……おいしそう」
興味を示すわたしの様子に、ヘレナさんが微笑んだ。
「お腹は空いていらっしゃいますか?」
「うん」
「それなら、どうぞお召し上がりください」
促されて、わたしは椅子へ向かう。男の人も向かい側の椅子を引いた。
そしてわたしが椅子に手をかけようとした、そのときだった。
「あっ」
まだ頭がぼんやりとしていたせいだろう。足がもつれた。身体が前へ傾いていく。
「ベル!」
男の人がとっさに身体を起こし、手を伸ばした。わたしの身体を支えようとする。
その瞬間。ヘレナさんの持っていた空のトレイが、男の人の腕にぶつかった。
カァンッ! と小気味いい音を立てて、トレイがものすごい勢いで宙を舞う。そしてくるくると回転しながら、天井へ向かって飛んでいった。
「あら」
ヘレナさんが呑気な声でそれを見上げる。
トレイは大きな音を立てて吊り下げてあった天井の照明にぶつかり、照明が大きく揺れた。
「ベル! 大丈夫!?」
「う、うん……」
わたしはというと、男の人が支えてくれたおかげで倒れずに済んだ。けれど……。
「あ、あの、今、明かりに……」
「うん?」
ギギ……、と、こすれるような嫌な音がした。わたしも男の人も、天井を見上げる。
すると、ぶちっ、と音を立てて照明を吊っていた金具が外れた。
「え?」
次の瞬間。照明が、男の人目がけて落ちてきた。
「わあああ!?」
わたしが思わず叫ぶと、男の人は反射的にわたしが巻き込まれないように身体を動かし、その直後――。
ガシャン!!
ガラスの割れる盛大な音が部屋に響いた。
照明が、男の人の頭を直撃したのだ。




