静かな幸せへの道 幸せと理法の対応 #幸せを共に感じる仏法
「お金に力を持たせ過ぎないこと」
今日は、このことを想った……
「お金に力を持たせ過ぎないこと」
今日は、このことを想った。
お金というのは、便利に使うだけなら構わないものだけれど、それが無いとダメという思考になれば苦しくなる。
例えば、「遊園地で遊ぶ」。
遊園地で遊ぶとなればお金が要る。そこは、お金を使って遊ぶ場所だからだ。
一方、同じ遊ぶでも、「自然の中で遊ぶ」。
こうなると、自然はお金を取らない場所だから、お金が無くても自在に遊ぶことが出来る。
これと同じようにして、自分が楽しみたいこと、喜びたいことを「お金が必要な場所・物」に限定してしまうなら、その生活は、お金に支配されることになるだろう。そして、その支配は、優劣を生み、強弱を生み、苦しみをもたらすだろう。
世の中を観ると人々をお金の支配に従わせようとして、必死になって人々を取り込もうとする流れを観る。そのために争いをさせたり、戦争をしたりもする。そんな風に見えて来る。
世の中の全体の流れとして、お金を中心とした階級社会に人々がすがるようにしたとしても、少し退いて観れば、そこに依存しなくても済むことが分かる。
お金の世界は、勉強せずに安全に暮らすことは出来ないように作ってある。教えてくれる人を探すようでは、脅かされる。勉強するということは、まずは、勉強する一歩を踏み出すということになる。
ところで、このブログの筆者は、2019年4月3日から自己の悟りを自覚として、仏を自称している訳だけれども、このことは、どういうことなのだろう?
このことは、人々のお金への物の見方に似ていると想った。
人々は、お金は力を持っていると考えている。
人々は、お金は助けてくれると思っている。
人々は、お金を欲しい物だと思っている。
人々のお金への思い、考え方はいくらでも出て来るだろう。
ところで、人々が考える仏とは何だろう?
助けてくれる存在?
ご利益の存在?
願いを叶えてくれる存在?
筆者はこれを、「幸せを知った存在」だと自らの責任において定義する。
お金は、お金自身で幸せを知ることは出来ない。
それを使っても、幸せを知ることは無いだろう。
それでも多数の人は、お金を信じる。お金を信じて依存して、そこに力を持たせることをする。
宗教上の仏たちも同じように、人間の信仰がその仏の存在や仏画、仏像、経文に力を持たせるようなことをして来てはいないだろうか?
自分は、仏が力を持つという発想には甚だ疑問でいる。
確かに釈尊は、超能力のような力を持っていたかもしれないとしても、自分は、それが仏だとは至らない。大切なのは、そこでは無いと想っている。
釈尊の語られた言葉には、その幸せを伝えることが出来る。その幸せこそを自分は、信じたのだ。真合ことなきその幸せを。
自分は、悟りを自称する前は、幸せを自覚しなかった。
その幸せは、対人において発揮する。
つまりは、人と人との場面において、有った筈のものが無くなっていると自覚する。
それは、自覚をする前には、分からなかったことだ。
具体的には、まず、人見知りをしない。
人のことが、「他人」として気にならない。自分の事として、自分ごとになっている。だから、同情したりしない。
常に前向きになる。物事の後ろ向きな部分は、バッサリと切り落とされる。有ったとしても存在しなくなる。通用しないという事。
例えば、今、自分は、卓球をしていることが幸せだと想っている。
このようなことは、語るほど特別なことでも無いし、ごく当たり前で普通のことでしか無いだろう?健康で、肉体的にも精神的にも元気な人たちにとっては。出来て当然、当たり前のことの筈だ。
世の中には、出来て当然、当たり前のことが山ほどあるだろう。
息を吸うこと、動いていること、話していること、聞いていること、触れていること、食べていること、考えていること……。
ところが、どんなに些細な当たり前のことでも、人である限りは迷いが生じた。それが苦しみとなって苦しめられていた。
この苦しみは、自覚を保てないことから生じていた。その確かなものを自覚したことが、自らを仏として自称した。
つまりは、迷いを生じていた者は何なのか?
それは、何も自覚しないで居た人間だった。
人間は、迷いすら迷いとして自覚しない。それは、感情や気持ち、思いや思考のようなものとして感じていた。
それらが、バッサリと消えた時、自分が何者で有ったかを知る時だ。
それは、夢うつつの存在で有ったよ、と。
この世の中に夢を見て生きて来た。その存在を現実だと。
けれど、その存在は、何の根拠も持たなかった。
仏の自称は、その根拠を持つものだ。
それは、幸せの根拠。
ブッダが説かれた幸せを見つけ出すその根拠と成る者は、まずは、自分だ。
自分自身から学びが始まる。
いつかその学びに自らゴールを見つける時まで。
そして、この幸せは、力を持たなくても大きな力を発揮する。
それは、周りを幸せにすることだ。
その存在が共に人々を福々にするということ。
この力を人々は、ご利益だと言ったのかもしれない。
けれども、これは、神力や神通力と言った類のものでは無い。
ごくごく、理に適った、理法に沿ったことなのだ。
そこで、仏たちは、仏法を世の中に勧めたのだろう。
最高の理法だと。
自らを幸せにし、周りを幸せにし、観る人も聴く人も幸せにする。
これに敵うものは無いと。
筆者が自称した仏は、人々が望むような仏では無いかもしれないし、否定されるようなものかもしれない。
筆者が自覚する幸せは、人々が仏法に望む幸せでは無いかもしれない。
筆者が見つけた仏法は、それらとは違っていても、確実に、自らを共に人々を幸せにする。
そこをこの世に目の当たりに見ているからこそ、こうして人々に晒している。
この幸せは、気づかれることが無くても良いこと。
ただ、静かに。
静かに沁み渡って行く。
人々の思考は、どうしても、悪い者が司法に裁かれることばかりに流れてしまう。
そう成るように、人の世が、人々の思考を嗾ける。
だが、人が司法に裁かれることよりも、もっと大切なことがある。
それは、今、自らが幸せとするそれは、理法に適ったことだろうか?
自らの幸せが理法、法(真理)に適うこと。
このことに世人の目が向くことが大切になっている。
ありがとうございました




