第1話:天才の舌に積もる砂と、北極星のオムライス
すべてを失い、味が分からなくなった天才シェフ・蓮。彼が札幌のボロ定食屋で出会った少女・アマネの「ヘンテコな食レポ」が、彼の止まっていた時間を動かします。
二人の最悪で最高の出会いを、ぜひお楽しみください!
東京・恵比寿。超高級フレンチ『ナイン・キャッスルズ』の厨房は、一分の隙もない銀世界だった。
最新の空調システムが管理する、均一な温度と湿度。手術室のような清潔感の中、調理音さえも計算されたリズムを刻んでいる。
純白の皿の上に、芸術品のように配置された『仔羊のロティ』。
低温調理で極限まで柔らかく仕上げた肉に、トリュフと赤ワインを煮詰めた漆黒のソースが輝いている。都内最高峰と名高いフレンチレストランの、数ヶ月待ちのスペシャリテだ。
――砂を、噛んでいるようだった。
久我 蓮は、自身の最高傑作であるはずのそれを一口咀嚼し、吐き気を堪えるように喉の奥へ流し込んだ。
肉の旨味も、トリュフの芳醇な香りも、今の蓮には一切感知できない。
過度のプレッシャーから来る心因性の味覚障害。若くして『帝王』と持て囃された天才シェフは、すでに一ヶ月前から、料理人としての命である「舌」を失っていた。口の中に広がるのは、じゃりじゃりとした無機質な『砂』の感触だけだった。
「……蓮。ソースの塩分濃度が二パーセント、計算と乖離している」
背後から響く、剃刀のように鋭い声。
この帝国の支配者、**九条 彰彦**だ。彼は表情ひとつ変えず、手元のタブレットに並ぶ数値を蓮に突きつけた。
「私のシステムに『閃き』という不確定要素は不要だ。……蓮。お前は最近、数字を疑い始めているな」
「俺は……」
「数値が全てだ。客の脳が最も快楽を感じるアルゴリズムは、すでに完成している。お前はただ、その通りに動く完璧な『部品』であればいい」
九条の隣で、漆黒のエプロンを纏った**佐伯 真司**が、蓮を嘲笑うように鼻を鳴らす。
「蓮、無理をなさらず。あなたの代わりなら、もう準備できていますから」
佐伯は、厨房の奥で一点の曇りもなくソースを仕上げている青年――**西園寺 リョウ(さいおんじ りょう)**を指差した。
「蓮! 九条さんの理論通りに仕上げたら、こんなに綺麗な輝きになったよ!」
リョウが、眩しい笑顔で小皿を差し出す。
「君の技術は本当に尊敬している。だから、蓮が休んでいる間は僕がこの場所を守っておくから。……安心して、ゆっくり休んでよ」
悪意など微塵もない、100パーセントの善意。
それが今の蓮には、世界で一番残酷な死刑宣告に聞こえた。
自分が作ったゴミに、客が何万円も払って喜んでいる。その滑稽な光景を見るたびに、蓮の心には冷たい砂が降り積もっていった。
――俺の居場所は、もうここにはない。
九条の目の前で汚れ一つない白いエプロンを剥ぎ取り、調理台に叩きつけた。 そのまま、愛用の包丁セットだけを掴んで、振り返らずに厨房を去る。
九条の冷徹な視線と、佐伯の歪んだ笑み、そしてリョウの眩しすぎる光から逃げるように、蓮は銀世界の監獄を後にした。
それから数週間後。
蓮は、まだ雪解けのぬかるみが残る、札幌の寂れた商店街に立っていた。
恵比寿の店を逃げるように辞め、スマホの電源を切り、あてもなく北へ向かう列車に乗った。彼の手には、九条に引き抜かれて師匠のもとを飛び出した日に渡された、一枚のボロボロのメモが握られている。
『本当に美味いものが分からなくなった時は、札幌の北極星に行け。そこに俺の魂の半分がある』
「……北極星、ね」
蓮は、目の前にある惨状を見上げて、深い溜息をついた。
『キッチン・ポラリス』。
色褪せたオレンジ色のテント屋根に、油と埃で曇ったガラス窓。入り口のドアには「準備中」の木札が傾いてぶら下がっている。どう贔屓目に見ても、味覚を失った天才を救う「隠れ家的な名店」…には見えない。ただの、今にも潰れそうな場末の定食屋だ。
(……俺は、何を期待していたんだ)
馬鹿馬鹿しくなり、踵を返そうとしたその時。
「ああっ、ちょっと待って! 今開けるから!」
バンッ! と勢いよくドアが開き、中からエプロン姿の若い女が飛び出してきた。
慌てて結んだらしいポニーテールが揺れ、頬にはケチャップが少し飛んでいる。
「いらっしゃいませ! ……あっ、ごめんなさい、まだランチの準備できてなくて。でも、すぐオムライスなら出せます! お腹、空いてますよね?」
女は――花咲 アマネは、不愛想に立ち尽くす蓮の手首を掴み、強引に店の中へと引きずり込んだ。
店内は、外観以上に年季が入っていた。
壁紙は油で黄ばみ、パイプ椅子はところどころ破れている。しかし、テーブルの上だけは不自然なほどピカピカに磨き上げられていた。
「ええと、お水です! オムライスでいいですか? 今、私しかいなくて……」
「……俺は客じゃない」
蓮は出された水を一口飲み、顔をしかめた。水道水のカルキ臭さすら感じない。やはり、舌は死んだままだ。
「えっ? 客じゃない? じゃあ、もしかして……借金の取り立て!?」
アマネが両腕をクロスさせて身構える。
「違う。……ただの、味の分からない通りすがりだ。……ここには昔、凄腕のシェフがいたはずだが」
「あー……おばあちゃんのことかな。トメさんって呼ばれてる。……先月から、腰を悪くして入院しちゃってて」
アマネは、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「私が孫のアマネ。今は私が一人で、見よう見まねで店を開けてるの。……でも、常連さんには『味が落ちた』って言われて、最近は誰も来てくれなくて……」
アマネは、キッチンカウンターの上に置かれていた、食べかけのオムライスを見つめた。
玉子は焼きすぎてところどころ茶色く焦げ、ケチャップのかけ方も雑だ。恵比寿の厨房にこれを出せば、蓮なら一秒でゴミ箱に叩き込んでいるだろう。
「……味の分からない通りすがりさん。もしよかったら、これ、食べてみてくれない?」
アマネが、スプーンを添えてオムライスを蓮の前に押し出した。
「私、おばあちゃんの味を再現しようとしてるんだけど……どうしても、何かが足りないの」
蓮は、無言でその不格好な黄色い塊を見つめた。
(俺に、味見をしろだと?)
味が分からない人間に、料理の味見を頼む。そんな皮肉な喜劇に、蓮は思わず自嘲の笑みを漏らしそうになった。
「……断る。俺には、その玉子の焦げがどれだけ最悪な苦味を出しているか、判断できない」
「いいから! 一口だけでいいから!」
アマネの真剣な瞳に気圧され、蓮は渋々スプーンを手に取った。
どうせ、砂の味しかしない。
そう思いながら、焦げた玉子とケチャップライスを掬い、口へと運んだ。
――刹那。
蓮の舌が捉えたのは、やはり無機質な『砂』の感触だった。
焦げの苦味も、ケチャップの酸味も、何ひとつ脳に届かない。分かっていたことだ。奇跡など起きるはずもない。
「……どう? ちょっと焦げちゃったけど、おばあちゃんのレシピ通りなんだけどな」
カウンターから身を乗り出し、期待に満ちた目でアマネが見つめてくる。
蓮は無表情のままスプーンを置き、冷酷な事実を告げた。
「ゴミだ」
「ご、ゴミ!?」
「玉子は火が通り過ぎてパサパサ。ケチャップの酸味も飛ばしきれていない。こんなものを客に出そうとしているなら、今すぐ店の看板を下ろした方がいい」
蓮の氷のような言葉に、アマネのポニーテールが怒りでピョンと跳ねる。
「なっ……ちょっとあなた、いくらなんでも言い過ぎじゃない!? せっかく作ってあげたのに! もういい、私が食べるから!」
アマネは蓮の手からスプーンをひったくると、自作のオムライスをヤケクソ気味に大きく掬い、パクリと口に放り込んだ。
「んぐっ……」
アマネは数回咀嚼し、ふう、と息を吐いた。そして、天井を見上げながら、まるで美しい景色でも見ているかのようにポツリと呟いた。
「……あーあ。この味、**『燃え尽きる直前の、ちょっと寂しい夕焼け』**みたい」
その瞬間だった。
ドンッ! と、蓮の脳髄を、雷に撃たれたような衝撃が突き抜けた。
(――なんだ、今の?)
アマネの言葉が鼓膜を震わせた直後。
蓮の意識は、暗く冷たい厨房から、燃えるような茜色の空の下へと強制的に引きずり込まれた。
網膜の裏に広がる、鮮烈な夕焼けのビジョン。
沈みゆく太陽の『赤』が、火を通しすぎたケチャップのツンとした酸味を。
空を覆う少し寂しい『影』が、玉子の焦げがもたらすほろ苦さを。
それらが混ざり合い、圧倒的な『色彩』となって、死んでいたはずの蓮の味覚中枢を強引にこじ開けたのだ。
「……はぁ、はぁっ……!」
蓮は喉を掻きむしりながら、その場に膝をついた。
砂ではない。今、確かに自分の脳は「味」を認識した。目の前の女が放った、たった一言の「詩的な表現」をトリガーにして。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫!? 救急車呼ぶ!?」
慌てて駆け寄ってきたアマネの肩を、蓮は狂ったような力で掴み、その顔を覗き込んだ。
「お前……今、なんて言った……!?」
「えっ!? だから、救急車……」
「違う! その前だ! オムライスの味を、なんて言った!!」
蓮の鬼気迫る表情に、アマネは怯えつつも、持ち前の負けん気で言い返した。
「『燃え尽きる直前の夕焼け』って言ったの! 私、美味しいものとか食べると、頭の中に勝手に景色とか色が浮かんできちゃうのよ! 変な癖なのは分かってるけど、そんな殺し屋みたいな顔で怒らなくたっていいじゃない!」
「……景色が、浮かぶ……?」
「そうよ! 近すぎるわよ、ちょっと離れて! いくら顔がイケメンだからって、初対面でこれは警察案件だからね!?」
アマネが顔を真っ赤にして蓮を突き飛ばす。
蓮は床に尻餅をついたまま、自分の手のひらを見つめた。震えが止まらなかった。
(……何が何だかわからんが……この女の言葉を通せば、俺の脳は『味』を理解できる……はず!)
世界から色が消え、孤独な砂漠を歩き続けてきた蓮にとって、それは唯一の、そして絶対的な「光」だった。
蓮はゆっくりと立ち上がると、先ほどの冷たさが嘘のように、ひざまずいてアマネを見上げた。
「……花咲アマネと言ったな」
「は、はい。そうですけど……」
「俺は久我蓮。……料理人だ。少し前まで、都内の三ツ星レストランで料理長をしていた」
「……み、三ツ星!?」
アマネが目を丸くする。蓮は、彼女の目を真っ直ぐに射抜いて言った。
「この店の厨房を、俺に任せろ。俺の技術なら、お前の祖母の味を……いや、それ以上のものを提供できる。必ずこの店を救ってやる」
「え……? ほんとに? でも、なんであなたみたいな凄い人が、うちみたいなボロい店を……」
「代わりにお前は、俺の料理を食え」
蓮は、アマネの逃げ道を塞ぐように告げた。
「そして、お前の頭に浮かんだ『景色』を、俺に教えるんだ。……俺の舌に、もう一度『色』を塗ってくれ」
油と埃にまみれた、小さな定食屋のキッチン。
味を失った孤高の天才と、色を見る神の舌を持つ少女の、いびつで奇妙な契約が交わされた瞬間だった。




