黒い衣をまとった悪魔
ミネリスの前にレナルドが現れた。
金髪碧眼の美青年。
二十七歳であるが、その顔にはどこか幼さが残る。
共にいるのは見たことのない三つ編みに茶髪のメイドだ。彼女は粛々と紅茶の準備をする。
「ミネリス、よく帰ってきたね。会いたかったよ」
「お久しぶりです、お兄様。ところで国家反逆罪とは何の冗談でしょうか? 私はただ、トレシアの街に観光に行っただけですが」
「さぁ? 国家反逆罪と言ったのは陛下だからね。私の与り知るところじゃないよ」
白々しいと思った。しかし、それは自分も同じかと思い直す。
ミネリスは腰の剣に視線を落としそうになるが、ぐっと堪える。
レナルドを刺す。
そうしたら、自分は間違いなく無事ではいられない。
護衛たちも、そしてラークも。
でも、この地を吸血鬼の好きにさせてはいけない。
レナルドがいなくなれば吸血鬼もこれまで通り好き勝手できない。
確かに魅了の力は脅威であるが、その力で操られた人間は普通とは違う瞳になる。
吸血鬼がこの国で好き勝手するには権力者であるレナルドの協力が必要不可欠。
少なくとも、レナルドを殺せば、ダンルガルド王国に対する武力による属国からの解放という悪夢の脚本からは脱却される。
属国からの解放は平和的に行わなければならない。
両国の関係が平和な状態であるうちは。
メイドが紅茶を淹れた。
ミネリスはその紅茶のカップを手に取る。
レナルドもミネリスの前に座った。
十分距離が詰められた。
レナルドの腰にも剣はあるが、カップを持ったとき、その剣に手を伸ばすのが遅れるはず。
ミネリスはカップから手を離した。
カップが落ちると同時にその手を腰の剣の柄に伸ばす
が、空振りに終わった。
剣がそこになかったのだ。
カップが割れる音が遅れて聞こえてくる。
「どうした? ミネリス」
「…………いえ、疲れているようです」
ミネリスは気付く。
テーブルの上に落ちて割れたカップを片付けるメイド。
その彼女の長いスカートの中に、一瞬剣の鞘が見えた。
彼女に奪われていたのだ。
そして、恐らくレナルドはそれに気付いていない。
普通にミネリスが紅茶のカップを落としたことに驚いているようだ。
「ミネリス。暫くは部屋で大人しくしておきなさい。父には私が説得するから。くれぐれも変な気は起こさないように。ミネリスにはミネリスの役割があるからね。私の口添えがあれば、君の大事な人達に恩赦を与えることもできるから」
レナルドはそう言うと、部屋を出て行った。
そして、片付けを終わったメイドもまた会釈をして部屋を出る。
(彼女に守られた? いったい何者なの?)
普通のメイドでないのは確かだ。
※ ※ ※
昔、ラークは他人には言えないような仕事をしていた。
そして、いつかは全ての悪事が露見し、捕まって牢屋に入れられるだろうと思っていたが、十年以上経ってこの年になって牢屋に入れられるとは思わなかったが。
若い頃はどこでも寝る事ができたが、いまは少し難しい。
それでも身体を休めておこうと、ラークは目を閉じた。
牢屋に入るのは初めてだが、この場所は結構好きだと思う。
暗くて涼しく、湿度も高い。
彼が育った森の中を思い出させる。
これでまともなベッドと食事があれば、週に一度は泊まりにきてもいいと思えるほどには気に入った。
まともな食事は期待していないが、そろそろ黒パンと水でも出してもらいたいところだ。
夜まで休むつもりだったが、そうはいかないらしい。
足音が近づいてくる。
そして、鍵が開いた。
「食事……じゃないですよね。取り調べでしょうか?」
入ってきた強靭な肉体の男は食事も何も持っていない。
そして、その瞳は赤く輝いている。
「ああ、取り調べだ。だが、貴様は何もしなくてもいい。俺の目を見て従えば楽に死なせてやる」
そう言って男はその瞳に魔力を宿らせる。
《魅了》の力を使った。
しかし――
「ちっ、効果が出ねぇ。やっぱり同性だと効果が出にくいのか。少し痛めつけて精神を衰弱させるか」
と男は鉄の棒を振り上げる。
「何をするんですか!?」
「黙ってろ!」
男はそう言って鉄の棒を振り下ろすが、ラークはそれを隠し持っていた短剣で受け流す。
男は驚くもさらに何度も鉄の棒を振り上げては振り下ろすを繰り返す。
吸血鬼となった彼のその速度は常人の頃に比べ遥かに増した。
だが、ラークはそのすべてを受け流した。
「なんなんだ! なんんだお前は!」
「ミネリス様に雇われた御者だって聞いてませんか?」
「ただの御者に受け流すことができるか! がっ!?」
そう叫んで振り下ろした鉄の棒が受け流され、自分の足に強打する。
常人なら骨折しているかもしれない。
「あぁ、やめませんか? あなたには私に勝てませんよ? 僕に従えば楽に死なせてあげますから」
「ふざけるなっ!」
と男が叫んだ次の瞬間、その首から血が噴水のように溢れた。
男の首が斬られたのだ。
彼が気付かぬうちに。
だが、その血は直ぐに逆流し、男の首の中に戻る。
それでも、男は気付く。
自分とラークとの力量の差に。
そして思い出した。
「“翼”」
「………………」
「耄碌騎士から聞いた。ラーザルド、ミルファリス、そしてバックロウ。三か国を跨ぎ活動していた義賊“翼”。そこにいる黒い衣をまとった悪魔。その悪魔に斬られた人間は自分が斬られたこと二すら気付かない。最強の剣士だと。まさか――まさか貴様が」
「驚いた。“翼”の記録はだいぶ消したと思うんだけど……口伝はさすがに消されていないか」
ラークはそう言って笑った。
吸血鬼の男は突然逃げに徹した。
背中を向けて走る。逃げる。
だが、男は倒れていた。
その脚が斬られていた。
「さて、情報をもらうとしようかな?」
そのラークの笑顔が、吸血鬼には恐怖でしかなかった。
しかし彼にとっての本当の恐怖はこれから始まる。




