五十話 レンジャー迷宮
姉弟は迷彩柄のヘルメットにゴーグル、そして迷彩柄のウイングスーツを装備している。
ウイングスーツは手と体、足と足の間に布を張った空を飛ぶ装備で、それは動物に例えてムササビスーツと言われる事もある。
二人の装備するウイングスーツには小型ジェットエンジンが付いている。静音性に優れた使い捨てのエンジンだ。敵地潜入した時には回収する暇などない為に、埋めたり燃やしたりして破棄する事になっている。
そして姉の装備はもうひとつ。
迷彩服を着たカーチャが、親猿にしがみつく子猿のように姉に括り付けられ震えていた。
ここは上空三千メートル、自衛隊輸送機の中。
防衛省より姉弟に陸上自衛隊レンジャー教育最終過程への参加依頼がきた。
これまで自衛隊というと閉鎖的に訓練が行われて来ていたが、迷宮探索により一般人と自衛隊隊員との能力差がほぼなくなってきている事から、上級探索者との合同訓練が度々行われて来ていた。
姉弟も以前からその合同訓練参加に名は上がっていたが、今や現人神同然に崇められている事もあって情勢的に見送りの判断が下されていた。
しかしネット中継でバチカンへの神降臨を目の当たりにし、特殊作戦群の姉救出作戦を知った陸海空すべての隊員達が署名運動などで上層部に嘆願し、無視出来ないほどの数と勢いに根負けした形だ。
つまり、
『先輩達だけずるいッスよ! 俺らも守りたいッス、崇めたいッス、ストライキッス!』
と自衛隊初のストライキが起こる寸前まで発展した。
防衛大臣もどちらかというと崇めたい派だったので、そこまで言うんならしょうがないなー、ああ仕方ない仕方ない、と表向き渋々承諾の判を押したのだった。
そうなると次はどの部隊が一緒に訓練するのかという協議になるのだが、どこも一歩も引かず、挙げ句の果てには陸・海・空それぞれの幕僚長が罵り合いから取っ組み合いの喧嘩になってしまった。
そこで第一回姉弟獲得模擬戦により勝利した部隊が権利を得るということにした。
模擬戦には、陸上自衛隊から特殊作戦群が、海上自衛隊から特別警備隊が、航空自衛隊から基地警備教導隊と、それぞれの特殊部隊同士での争いとなった。
これは各部隊の威厳と尊厳を賭けた戦いでもあり、一般公開すれば大金をはたいてでも見たがる者は多い。総理と防衛大臣も興味を示し、その模擬戦の審査員に自分の名を載せさせ観戦するのだった。
三戦行われ、決戦の場は公平に陸海空と三箇所を使い、僅差で陸上自衛隊の特殊作戦群が勝利した。
その事に陸上自衛隊ではお祭り騒ぎではあったが、はたと気付いた者が「で、うちのどの隊が共に訓練するのか」という言葉に次は陸上自衛隊内での争いになるかと思われたが、特殊作戦群浅見隊長の声により、レンジャー教育過程に参加していただくという事に決定したのであった。
そしてレンジャー教育最終過程第十想定『空路潜入による敵拠点襲撃、山地と密林を含む六十キロメートルを行動、七十二時間』が始まる。
「ま、魔王……わたしどうしてここにいるの?」
「大丈夫です」
「違うっ、どうしてここにいるの!?」
「就寝中に連れ出しました。大統領と総理とエレーナさんの許可もあります」
「そ、そうじゃなくてっ!」
「あー、カーチャ。どうも姉ちゃんは、うちの親父と同じ事をしてあげようとしてるみたいだぜ。ま、親父はパラグライダーだったけど」
「ここ……飛行機の中?」
「うん、そう。で、姉ちゃんと一緒に飛び降りる」
「いやああああああああ!」
「大丈夫です」
防衛省から内容の詳細が届いた時に、エレーナにカーチャも参加出来るようお願いした。すぐに大喜びで姉のロシア駐日大使を通して、大統領にロシア国民を一人教育訓練に参加させて欲しいとの要請を出して貰い、さらに総理へも根回しをしておくのを欠かさなかった。
名目上では民間人を救出後、脱出ルート上に敵拠点がありやむなく強襲する想定訓練、という事になる。強引な作戦立案だ。
「ちょっと戦闘になるけど、俺と姉ちゃんで守るからな」
弟が安心させるようにニコッと微笑みかける。一瞬眼を見開いたカーチャが瞳を潤ませたまま弟を見た。
「……お兄ちゃん……やっぱりいやあああああ! 降ろして! 降ろして!」
「まだ降下時間ではないですよ、ふふふ、そんなに飛びたいのですね」
ちがーうちがーう! と首を振り泣き叫ぶカーチャ。そんな三人の様子をレンジャー教育課程真っ最中の二十名が見守る。うち七名は女性だ。
彼らは一ヶ月に及ぶ教育訓練を経てこの最終課程に臨む。ここを乗り切れば晴れてレンジャーとなれるのだ。レンジャーになったからと言って、昇格昇給には一切関係しない。己の誇りと使命感を満たす為に高みを目指すのだ。意識が高い者でないと受けようとも思わない。
訓練内容は相当きつい。人間の尊厳など無く、人の扱いをされない。全員探索者資格を持ち人並み外れた体力があるが、教官はさらに化け物であり、容赦なく体と心を打ち砕かれる。食事は満足に出来ず、睡眠も取れず、道なき道を行く、回収されたらそこで一発終了だ。
しかし、今回の最終過程では姉弟が参加すると聞き、士気が規格値を超え最大値を突破している。能力からすると守られる側ではあるが、皆が姉弟を……主に姉を守らねば! と意気揚々としており、その瞳はギラギラと燃え盛っていた。
「降下よーうい!」
「レンジャー!」
教官の言葉に学生達(レンジャー教育に挑む隊員は学生と呼ばれる)が応える。教官への返答は全て“レンジャー”と答えなければならない。全てだ。“いいえ”“出来ません”という言葉は教官の辞書にはない。
輸送機の左右ドアが開き風切り音で一瞬耳が聞こえなくなる。冷気が機内に進入し一気に温度が下がった。
ドアの向こうの景色にカーチャが青ざめ、体は激しく震え始めた。
「降下開始!」
「レンジャー!」
姉弟もその言葉で応え次々と降下していく学生達を見送る。二人は最後に降下する予定だ。
「カーチャ、楽しもうぜ! こういう機会滅多にないぞ」
「……降ろして」
「はい、もうすぐですよ。初めての事ですから楽しみですね」
「え? はじ……めて?」
「姫様、降下よろしいですか!?」
「はい! よろしくお願いします……あ、レンジャー!」
教官の声に応え弟に続いて輸送機から空中に身を預ける。お腹の辺りから、ひゃあああ! という声が聞こえる。両手両足を広げ風を掴むとすぐにジェットエンジンのスイッチを入れた。
キュウウウウ……バシューッ!
フルフェイス型のヘルメットを装着しているカーチャは、中が涙と鼻水と涎と何かでぐちゃぐちゃだ。その顔は美少女の面影がない。
一気に加速され間もなく弟に追い付いく。
このエンジンは例の如く博士開発のマナエンジン(試作)だ。使用者のマナ濃度によって出力が変わる。姉弟はマナ濃度が高く加速と速度が共にジェット戦闘機なみの能力を誇る。その為に最後に降下し、先に降りた学生に追い付くという手順となっているのだ。
弟の声がヘッドセットから聞こえる。
「カーチャ! 眼を開けて!」
「あわわわぶぎゃああああぐぐぐ……ヒ、ヒヒヒヒ」
「こ、壊れかけてる」
「……ロシア、聖なる我らの国よ。ロシア、愛しき我らの国よ。力強き意思、大いなる光栄……」
「なにこれ、ロシア国歌?」
いろんな液体にまみれながらキッと眼を見開きロシア国歌を歌い始めたカーチャ。あまりの恐怖に一周回って開き直り肝が据わったようだ。翻訳機を通しているので日本語で聞こえてくる。
先に降下した学生に追い付き、頷いて合図する。編隊を組んでしばらく空の旅だ。
低空飛行で山を越え、谷を抜け、森を飛び越えていく。スカイスポーツが好きな者には少しの間だけご褒美となるが、カーチャにとっては拷問だった。
そんな様子さえ弟は当然ながらヘルメットにマウントされたカメラにて録画中である。ただ今回録画した物は守秘義務により自衛隊内のみの参考資料として取り扱われる。外部公開禁止という厳命を総理から受けている。しかしイヴァン大統領には配布予定だ。最新型の偵察衛星で見ているだろうが……。
降下予定地点へ近づき次々と地面へ降りていく。
姉も先に降りていた学生達が整列して敬礼する中、初体験ながらその運動能力で美しく舞い降り、すばやくカーチャを解き放ちウイングスーツを脱いだ。敵地では破棄、焼却するウイングスーツであるが、これも血税で生産された物である為に装備回収班が回収していく。
ウイングスーツの下に着ているのは迷彩服だ。約四十キロの背嚢を背負っているが、探索者にとっては何の問題も無く動きを妨げる物では無い。しかし肩ベルト前方締め付けにより強調された胸部を学生達は直視出来ず、一部の者は前屈みでしか歩けそうになくその動きを妨げられている。
弟が、地面に四つ足をつきまだロシア国歌を呟いているカーチャを見て、背嚢からターフを取り出し囲むように周りから隠した。
姉はそれに気づきカーチャの迷彩ズボンとピンクの姉弟パンツを脱がせる。水筒を開けタオルを湿らせてから下半身を拭き、新しいパンツとズボンを着せた。
十一歳の普通の女の子が上空三千メートルから降下し、ジェット戦闘機なみの速度で移動したのだ。
お漏らししても無理はない。
正気を取り戻す前に着替えさせ事なきを得た、かと思えたが生えていた竹を切り、速く乾くようにとズボンとパンツを括り付けた姉が振り回していた。
「な、なんで……わたしのパンツを振り回しているの? ……儀式?」
その頃、偵察衛星で見ていたイヴァン大統領は爆笑中だった。
「整列! 点呼!」
レンジャー教育において学生長を務める赤谷二等陸曹が叫ぶ。姉弟とカーチャもすぐに列に加わり点呼を終えた。
学生達の周りには教官と助教二名、衛生兵三名、撮影隊二名がその様子を見守る。
「三十キロ平地行軍、アンブッシュ警戒を怠るな!」
赤谷二等陸曹の言葉を合図に行軍が始まる。姉弟は、はぐれた際の行動や合流地点等のレクチャーを受けて歩き始めた。
姉がまるで部隊旗のように竿竹パンツを持っているので、弟がカーチャを抱きかかえている。その胸元からはパンツ返して、パンツしまって……と声が聞こえていた。
行軍中は警戒しながら進む。時折、休憩を取り携帯食料で食事をして二十キロほど歩いたところで学生の一人が叫ぶ。
「アンブーシュッ!」
その言葉と同時に背嚢を落とし、伏せて小銃を構え周りを見渡す。ハンドサインを交わしながら展開していくが、姉は民間人保護の為にその場で守られる立場だ。
サインによると目視出来る敵は三名。
生徒達は三名ずつ左右に分かれ挟撃する形をとった。正面に布陣する残った生徒が制圧射撃をし、援護する。弾はペイント弾だ。
圧倒的人数の射撃に敵は動くことが出来ない。そこへ左右からの攻撃であっけなく撃たれ倒れた。
「今回のレンジャー候補は気合い入ってるな!」
「先行しすぎだ、バカ」
「姫様はどこ!?」
倒れた三名が立ち上がり教官に話し始める。
「貴様ら……基地警備教導隊じゃねぇか! なんでここにいるんだ」
教官の怒鳴り声に生徒達が、えっ!? と驚き三名を見る。
基地警備教導隊は航空自衛隊の特殊部隊だ。彼らがレンジャー教育に手を貸すことはないし、陸上自衛隊から要請がいくはずもない。
「はっはっ! ちと揉んでやろうと思ってな!」
「お、姫様発見!」
「陸自から保護!」
「保護じゃねぇ! 教育しに来たんじゃねぇな? ただお目にかかりたかっただけだな?」
「はっはっ! 何の事やら!」
「神々しい……」
「陸自を殲滅!」
「ちっ、おそらく貴様らだけじゃねぇな? やれやれ、今回の生徒達は苦労しそうだな」
姉弟にレンジャー教育課程への参加をしてもらったものの、殴り合いにまで発展した各幕僚長の気持ちに収まりが付くわけがなく、各部隊へレンジャー教育への自主参加という名目の元にメンツを取り戻し、姉弟を奪還せよとの極秘命令が出ていたのであった。
この動きを知った陸上自衛隊の各隊も、レンジャー教育だけに良い思いをさせる物かと特殊作戦群以外の部隊が自主的に参加していた。
敵は陸海空、全ての自衛隊。味方は二十名の生徒と姉弟、そしてカーチャのみ。
敵拠点まで残り四十キロメートル。果たして生徒達は無事にレンジャー資格を得る事が出来るのか。
全容を偵察衛星で見る事が出来るイヴァン大統領がウォッカを片手に笑う。
「ははは! 自衛隊おもしれぇな! ……ん? ラスボスはイサキかよ!」