第1章 第2話 中華武術・始皇帝暗殺~徐福の中国大陸脱出
近代中国武術のルーツである古代中華武術をテーマに2話は書きました。
始皇帝暗殺事件を例に王者の使う武術とは?を中華武術の骨組みを考え推理し実際は、このような展開であったかもを推察し書きました。
中華武術とは?ここでは中華武術の概念的なものを紹介したく存じます。
近代の武術は中国武術と分類し、古代中国大陸文明で起こった武術を中華武術と分類し、この話では、どのような社会情勢で武術が構成されたのかが主題となります。
まず武術とは日本でも戦国時代や戦前までは、中華思想と取れる武術概念が日本にもあり、権力の頂点に立つと多種多様な危険性を帯びるのが権力の頂点構図だ。
戦国大名や近代の権力者は、社会手地位が高く常に暗殺の危険性が生活の中にあり、権力の座にいる限り死ぬまで命を守る必要があり、身を守るための武術は多くの財貨を失いながらも権力と利益を維持するために必要だった。
武術における一子相伝、門外不出の発祥は生き残る技を敵に知られていけない、なぜなら武術の技の多くは一度見られると対応策を練られてしまう危険性を生むこととなる。
多くの秘伝に属する技は、知らなければよけることが非常に難しい攻撃であることが多い、キックボクシングでも信じられないタイミングで出す「バックブロー」や「 胴回し回転蹴り」は避けるのが非常に難しい。だが、一度相手に技を見せタイミングや兆しを知られてしまえば、難なく避けられることが多くなる。
古代中国戦国時代に中華武術は完成されていき、どのように武術が発達して社会構造に入っていったのか?
・まずは戦争で武器武術は、今でも多方面に引用される孫氏の兵法をはじめとする兵法書と一組になり権力者の中で発展した
・民間の物資の運送する隊商が道行く先々で襲われるので護衛(保鏢)が職業として成立しており多くの武術家が職業として武術を発展させた。
・また中国古来の宗教道教や少林寺に代表される仏教寺院で自衛手段として独自に発展させた武術
中華思想では自分の右腕の護衛の武術家の護衛、忠心の将軍であろうと一度政変が起きると最後の最後に裏切る可能性があり、自分の武術が身を守るので王族・貴族・権力者は財産を使い潰しても命を守る優秀な武術を求めた。
中華武術の多くは秘伝に属する、その武術の根幹を教えるときは締め切った部屋で秘密裏に鍛錬を積み、その鍛錬方法は決して一門以外に知られてはいけない。
近代の詠春拳の達人「イップマン(葉問)」は、製糸工場などを経営しており、裕福な家の次男として生を受け1904年の詠春拳入門時、師である陳華順に師事し、この頃の武術の弟子入りとは1日の起きてから寝るまでが修行であり、師匠も現在でいうパーソナルトレーニングを十年単位で行う事であり、現在でもメジャーリーグやオリンピックに選ばれるスポーツの一流選手を育てるのに莫大な資金がいるように、中華武術の達人を作るためには莫大な資金が必要となる。
莫大な富があるのが達人を生み出す一つの条件、生きて行くための生業の合い間に才能と努力を地道に練習を積み上げ達人も誕生するが、条件が良いほうが発達するのも世の常である。
ここで中国戦国時代末期の優れた刺客「荊軻」による有名な始皇帝暗殺の事件を紐解いていこう、紀元前227年に燕の皇太子「丹」から秦の将軍で、始皇帝・政が提案した軍の少数精鋭化に対し諫めたために政の怒りに触れ一族を処刑され、燕へ逃亡してきていた樊於期の首を持って始皇帝に面会し暗殺を試みた一例を中華武術の存在を定義しながら暗殺が実際どうなったか推理してみたいと思う。
秦の首都の咸陽に着き荊軻の目論見どおり、領地割譲の証である地図と樊於期の首に政は大いに喜び、九賓の礼をもって荊軻たちに接見した。と古代中国の歴史的資料の史記に記されており
政の前に出ると荊軻と一緒に暗殺に来た秦舞陽は恐怖から全身が震え始め、不審に思った群臣が尋ねると、荊軻は「北方の田舎者ゆえ、天子の前にて恐れおののいています」とごまかした。
〖史記に記載される始皇帝暗殺の経緯】
荊軻は地図を持って政に献上し、政は地図を開き始めた。地図が開き終わる所に匕首が巻き込んであった。荊軻は毒が塗ってある匕首(鍔の無い短刀)をつかみ、政の袖を取って政を刺そうとした。しかし、間一髪の所で政の袖がちぎれ、政は逃れることができた。
政は慌てて腰の剣を抜こうとしたが、剣が長すぎて鞘に引っかかり抜けなくなってしまった。群臣と衛兵たちも慌てたが、臣下が政の殿上に武器を持って上がることは法により禁じられており、破れば死刑であった。
荊軻は匕首を持って政を追い回し、政は必死で柱の周りを逃げ回り、剣を抜こうとするがあせればあせるほど剣は抜けなくなる。群臣たちは素手で荊軻を取り押さえようとし、侍医の夏無且は薬箱を荊軻に投げつけた。荊軻がひるんだ隙に左右から「王よ、剣を背負われよ!」と声が飛び、政は剣を背中の方へ回して、背負うような形でやっと剣を抜くことができた。
抜いてしまえば長剣と匕首では勝負にならず、荊軻は脚を斬られたことで傷で歩く事ももはや不可能になり、最後に匕首を政に投じたものの、外れて柱に刺さった。そして暗殺の失敗を悟ったのか、柱にもたれ床に座り込み「わが事が成らなかったのは、秦王を殺さずに脅し、土地の返還を約束させようとしていたからだ」と笑いながら罵った後、斬り殺され、激昂した政は荊軻の全身をズタズタに斬り刻み、荊軻が死んだ後も死体を斬り続けたと言われている。秦舞陽は最初から最後まで震えているだけであった。
〖中華武術の定義から推理する始皇帝暗殺の経緯】
荊軻は武器を所有していないかの厳重なチェックを受けて始皇帝に会いに行き匕首(鍔の無い小刀)を持っていたとされるが、中華文明で匕首は暗器も含まれており、小刀ではなく発見されにくい暗器を持っていると推察される。
史記の記述にも毒を刃に焼き付けて、掠り傷一つで簡単に殺傷できる記述が記されている匕首で一撃必殺の武器である。
荊軻は、一国の運命を左右されるのを預けられるほどの刀や武術の達人であり、不意打ちで始皇帝に一刀でも切り付けられなかったとは、とても思えない。
では、なぜ荊軻は切り付けられなかったのか?始皇帝はなぜ佩刀している長剣を抜けなかったのか?「政の袖を取って政を刺そうとした。しかし、間一髪の所で政の袖がちぎれ、政は逃れることができた。」と史記にあるが、袖を持たれた始皇帝が難を逃れれたのか?
それは長きに渡り陰で身に着けた名も知ることが許されぬ王が使う門外不出の武術で荊軻を擒拿で撃退したからだ。
また始皇帝も宮中で暗殺を恐れるあまり自身しか長剣の佩刀を許さず暗殺の危機に陥り、長剣を抜かさぬように荊軻は暗器を持ち戦ったが、始皇帝は【擒拿】で戦った。
【擒拿】とは敵を掴んで捉え、梃子の原理を用いた技法で、四肢や頚部の関節を攻撃して挫き受傷させる、日本の古流柔術でいう「逆技」に相当する技法であり擒拿は経絡・経穴を攻撃する「点穴法」、血脈(血管・神経)を攻撃し分断させる「截脈法」、気道を圧迫して攻撃し呼吸を困難とさせる「閉気法」、打撃を用いて攻撃し関節を挫く「鉄歯法」などと併用されることが多く、広義の意味では、これらの技法も含めて擒拿と総称されて呼ばれることもある。
身体能力、武術、経験は全てが史記を読む限り荊軻の方が優れており、『始皇帝は面相は、鼻が高く、目が長く、くまたかのように胸が突き出し、豺(山犬)のような声をし、虎狼のような残忍な心を持っている』との記述があり、古代の文献を読み解くと恰幅が良く身体的に荊軻に劣るように書かれているが、荊軻による暗殺時に毒をぬった暗器を避けて逃げるだけの体術を使える肉体を所持していたと推理する。
仮にも史上初の中華を統一したと記される武力の象徴が武術に無縁であるわけがない。武術達人でなければ国の運命を背負った達人「荊軻」の命がけの毒をぬった暗器の一撃を避けれるはずがないく、状況的事実の推察により始皇帝が中華武術の権力者側の達人だと断定できる
擒拿で争う荊軻と始皇帝だが、周りの武人が命がけで荊軻を抑え込み、柱を背に長剣を鞘ごと背に回し剣を始皇帝は引き抜くと荊軻の脚を切り倒れる荊軻は、持っていた毒を刃に焼き付けた匕首を始皇帝に最後の必殺と投げつける。
武の達人・荊軻が投げた匕首は避けることが出来ない、しかし武の達人である始皇帝は避けることが出来ないない飛んでくる匕首を手に持った長剣で弾き、剣で弾かれた匕首は壁に刺さり、最後の攻撃も失敗し動けなくなった荊軻に始皇帝は長剣でトドメを刺し殺す。
しかしながら自身の武の達人の事実を隠すために、あえて事実と違う話を史記に記させ書き留め、始皇帝の武の力を隠し自身の暗殺の危険性を減らしたと推察する。
中華思想は権力者の身の安全を図るために莫大な応力と時間、そして金銭を必要とした。「一つの技を身に着けるために山一つ、千金を払う」と言う文献を目にすることがある。古代中華では命を守る最終手段の武術がすごく発展した社会状況を読み取れる。
「始皇帝の暗殺、徐福の中国大陸脱出」
さて話は変わるが、その武術が、いかにして?どのような経緯を経て琉球や日本に伝わったのか?
それを最初に確認できるのが「徐福の中国大陸脱出」である。徐福とは始皇帝をペテンにかけた詐欺師であり、始皇帝を暗殺に成功した一味である。
万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき,東方の島,新たな地への脱出を一味は考え、様々な手を尽くして徐福を含む一味は水銀を始皇帝に献上し毒殺に成功したと推察する。
1982年,江蘇省に徐福が居住したと伝わる徐阜村(徐福村)が発見され,実在した人物だと証明されされ,その村には現在も徐福の子孫が住んでおり、代々,先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかった記述が残されており、徐福は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱・方丈・瀛洲という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました(司馬遷『史記』より)この願いが叶い,莫大な資金を費やして徐福は一度旅立ちますが,得るものがなくて帰国しました。
始皇帝は不老不死を手に入れるために莫大な努力をしましたが、その過程で不老長寿の薬として水銀を献上した人間たちがいます。始皇帝の兵馬俑(始皇帝の墓)に水銀の泉跡が発見されており、この記述が本当だったと証明できます。
徐福は1回目の探索を何もなかったとは報告が出来ず,この時は「鯨に阻まれてたどり着けませんでした(台風や様々な問題を大鯨に例えた)と始皇帝に報告し。1回目の探索の失敗は準備不足だったと始皇帝は考え「そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可しました。若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。」と史記に書かれており、様々な技術集団に紛れ暗殺に加担した一味、そして始皇帝の毒殺がばれ暗殺の嫌疑がかかり、追跡された時に備え優れた武術集団を護衛で連れて行ったと考えられ、これが琉球と日本に伝わる中華武術の一部と考えられる。
何日もの航海の末にどこかの島に到達し徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と史記に書かれており「平原広沢」は日本とも琉球とも考えられ、大船団だったためトラブルで両方の地にたどり着いたかもしれません。これが様々な地に中華武術が広まる政治的な原因と言え、歴史に記された武術の琉球と日本に渡ったと思われる最初の記録である。
また舟での移動と徐福を追手が来るとも考え、戦闘になった時に備え武術の鍛錬を重ね考案された技術が現在の空手で伝わる三戦立ち(古代では陸戦・騎馬戦・海戦を三戦と呼ぶ)が発達し、現在も沖縄に伝わる古流唐手を源流にする龍衛流空手は基礎の戦い方を説明するときは昔の海戦(船同士で戦う)物理学をたとえとして享受する。こうした民族移動の環境で変化しながら琉球唐手の基礎になったと思わざるを得ない武術の記述が現在に伝わる。
「武術は環境に変化する」近代集ごく武術の達人である形意拳の郭雲深は、試合で相手を誤って打ち殺した故に、殺人の罪により監獄に収監され、そこで手枷足枷を付けられたまま虎形拳を練り、手枷足枷つけた少ない動きしかできない環境で虎撲子の一手を編み出したという逸話が伝わる。
ブラジルの格闘技カポエラが手を手錠と鎖に繋がれた状態で音楽のダンスに合わせて武術を鍛錬し独特の足技を生み出したのと同じ経緯をたどる。
ブラジリアン柔術でヒクソン・フレイシーと同等の強さを持つといわれた日本ではあまり知られてないハーフガードを生み出したゴールドは、当時クロスガードしかなかったブラジリアン柔術で、半月板を損傷しクロスガードが組めなくなったので、自身の足の動かす可動範囲が狭く相手の片足を拘束するハーフガードを開発し、不自由な自身の肉体における環境変化で新たなる技術を想像した。
このハーフガードの創始者ゴールドとヒクソン・グレイシーの最強決める戦いは、道場を外から見れぬように締め切り二人だけで戦い、その結果は二人だけが知っている。
次回の第3話は、琉球にどのような達人が訪れて現代に伝わる技法が型となったか?
琉球「手」の社会情勢の変化と発達を書きたいと思います。
本編に入る前にさまざまな伝統武術の推察深めたいと思います