1.名前はリュウ
包丁とまな板がぶつかり合う。軽快なリズムが聞こえる。
蛇口から流れ出る、水たち。
鍋から立ち上る、食欲をそそる香り。
それらが結合され、嗅覚を刺激し、聴覚に響き渡る。
リュウは眠りから呼び覚まされると、急いで台所へと走っていった。
そこには母親が鼻歌交じりに、鍋の美味しい……を小さな皿に乗せ、口へと運んでいる。次の瞬間、満足そうに頷く。
リュウは母の傍に行くと、背を伸ばしシンクに手をついた。
「あらリュウちゃん、お目々覚めたの?」
母は嬉しそうに、目を細めて、愛しそうにリュウを見た。
リュウは母が大好きだ。毎朝、同じ洋服を着てどこかへ出掛けていくが、帰ってくると必ず自分の頭を撫でてくれる。手がガサガサで、この季節は毎年バンドエイドだらけだが、その手で美味しい物を作るのだ。
秘かにリュウは、母を魔法使いではないかと思っているのだった。
「こいつ、お母さんが台所に立つと目が覚めるんだから、どこまで卑しいんだろうね」
香織の声が聞こえてきた。
高校2年生の香織は、どんなに寒くても毎朝短いスカートを穿いて、学校へ出掛けている。帰ってくると、コタツに寝転がってケイタイとにらめっこだ。
「転がってないで、散歩に行ってきなさいよ」
「えー、やだよ」
(えー、やだよ)
つい、心が叫んでしまう。香織には聞こえないだろうけど、言葉が通じるなら、同じ気持ちだと言ってやりたい。
「何でイヤなのよ」
台所から顔を出した母が、香織に向かって眉根を寄せる。
「だって、寒いじゃん」
「当たり前でしょ。冬なんだから」
「だから、イヤなんだよ」
「あんたの犬でしょ!」
今度はリュウの眉間にしわが寄る。
言葉が理解できるわけではないだろうが、言葉のニュアンスで何かが分かるのだろう。よく、意味が分かっているのかと思うほど、タイミングよく表情を変えるのだ。
「リュウが怒ってるよ」
「だらしない香織に怒ってるのよ」
「ああー、ヤダヤダ。寒いよー」
香織が一層、コタツに潜り込む。
「本当に、しょうがないんだから! あんたが欲しいって言うから貰ったのに! あんなに散歩するって言い切ったくせに」
「だって、こんなに大きくなるなんて思わなかったんだもん」
確かに大きい。中型犬にしては、かなり大きい方だ。
「小さいのがイヤだって言ったのは自分でしょ!」
リュウが香織のもとにやってきたのは、香織が中学2年生の頃だった。
学校でいじめに合い、不登校になってしまったため、少しでも香織の気持ちが落ち着くならと貰われてきたのだ。
香織は座敷犬のような小さな犬ではなく、大きな犬を室内で飼いたいとせがんだ。その結果、現在室内に大きな犬が歩き回っているのだ。
名前も香織が付けた。子犬だったリュウが大きくなるようにと、【龍】とつけたのだが、どうせなら格好よくカタカナにしようと現在の名前に落ち着いたらしい。
どうしてカタカナで格好が良いのかは、気にしないで欲しい。あくまでも香織の感性なのだから。
犬のリュウからしてみれば、リュウが龍であろうと竜であろうと、流であったとしても関係ないのだが…。
「分かったよ! 行ってくる。行けばいいんでしょ、行けば」
香織が名残り惜しそうにコタツから這い出してくる。
(えー、香織じゃヤダヨ。お母さんがいいよ)
リュウが情けなさそうに母を見上げる。
「リュウちゃん、そんな顔しないで。大根あげるから」
大根の切れ端を貰って、美味しそうにシャリシャリと食べていると、やっと香織がダウンジャケットを着て立ち上がった。
「ほらリュウ、食べてないで行くよ!」
さっきまで、嫌がっていたのに、行くとなると行動が早い。
「さっさと行って、さっさと帰ってくるんだから」
香織がリュウにリードを見せると、千切れんばかりに尻尾を振って玄関へと走っていく。
「嫌そうな顔してる割に、現金だよね」
「というより、犬の習性じゃない」
母が笑いながら、玄関まで来ていた。
「じゃ、行ってきます」
「ちゃんと、リュウが納得するように、散歩してきてね」
「はいはい」
玄関を開けると、北風が流れ込んできた。
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次回投稿は、来週水曜日となります。
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