髪結い人形
リサイクルショップで働いていると、たまに「売り物ではないもの」が持ち込まれる。
壊れた家電。
古い仏具。
誰が使ったのか分からない寝具。
名前の入ったランドセル。
遺品整理で出たらしい、写真の入ったアルバム。
そういうものは、基本的に断る。
店長はいつも言っていた。
「売れないものを預かるな。捨てに来る奴がいるから」
俺が働いていたのは、国道沿いにある小さなリサイクルショップだった。
家具、食器、古着、玩具、古いゲーム機。何でも扱っていたが、店内はいつも薄く埃っぽかった。入口の自動ドアは半分壊れていて、開くたびに変な音を立てる。
その女が来たのは、閉店まで一時間を切った頃だった。
年は四十代くらい。
黒いコートを着て、両腕で大きなガラスケースを抱えていた。
ケースの中には、市松人形が入っていた。
黒い髪。
白い顔。
赤い着物。
小さな手。
古いものだった。
ガラスケースの木枠は黒ずみ、正面のガラスには細い傷がいくつもついている。人形の髪は長く、肩のあたりでゆるく結ばれていた。
「これ、引き取っていただけませんか」
女は、レジの前に立ってそう言った。
店長は一目見て首を振った。
「人形はちょっとね。うちは古い日本人形はあまり扱わないんですよ」
「お金はいりません」
「いえ、そういう問題じゃなくて」
「処分だけでも」
「申し訳ないですが、供養に出された方がいいと思います」
女は、少しだけ笑った。
笑ったというより、顔の表面だけを無理に動かしたような笑い方だった。
「供養は、断られました」
店長の表情が変わった。
「どちらで?」
「三か所」
女はガラスケースを床に置いた。
その時、人形の髪が、ケースの中でかすかに揺れた。
空調の風だと思った。
けれど、ガラスケースは閉まっている。
「お願いします」
女は頭を下げた。
店長は困ったように俺を見た。
俺は何も言えなかった。
こういう時、店長は最終的に断る。そう思っていた。
でも、ちょうどその時、電話が鳴った。
店長が奥へ引っ込む。
俺はレジに残った。
女はずっと下を向いていた。
数分して電話が終わり、店長が戻ってきた時、女はいなかった。
ガラスケースだけが、レジの前に残されていた。
「おい」
店長が舌打ちした。
「逃げられた」
外を見ても、駐車場には誰もいなかった。
黒いコートの女は、どこにもいない。
店長はしばらく人形を見ていた。
「警察に届けます?」
俺が聞くと、店長はため息をついた。
「落とし物扱いも面倒だな。とりあえず裏に置いとけ」
俺はガラスケースを持ち上げた。
見た目より軽かった。
でも、嫌な軽さだった。
中が空洞なのに、人形だけがこちらへ重みをかけているような感じがした。
バックヤードの棚に置く時、人形の顔が目に入った。
白い顔。
赤い小さな唇。
伏せ気味の目。
きれいな顔だった。
でも、その目だけが嫌だった。
こちらを見ているわけではない。
むしろ、見ていない。
見ていないのに、見られている気がした。
その夜、閉店作業をしていると、バックヤードから音がした。
しゃ。
しゃ。
最初は、段ボールが擦れているのだと思った。
でも、違った。
櫛で髪を梳く音だった。
しゃ。
しゃ。
ゆっくりと、長い髪を上から下へ梳く音。
店長はレジの精算をしていた。
俺はバックヤードの前で立ち止まった。
音は続いている。
しゃ。
しゃ。
中には誰もいないはずだった。
俺はドアを開けた。
音が止まった。
バックヤードは蛍光灯の白い光で明るかった。
棚、段ボール、古着の袋、掃除道具。
そして、奥の棚に置かれたガラスケース。
市松人形は、昼間と同じ姿でそこにいた。
ただ、髪型が変わっていた。
肩のあたりでゆるく結ばれていた髪が、きれいな三つ編みになっていた。
赤い紐で、先の方を小さく結んである。
その赤い紐は、見覚えがなかった。
俺は近づけなかった。
ドアのところで固まっていると、店長が後ろから来た。
「何してんだ」
「あの人形、髪型変わってませんか」
「は?」
店長はケースを見た。
そして、少し黙った。
「最初からこうだったろ」
「違います。結んでなかったです」
「気のせいだろ」
店長はそう言った。
でも、その声には力がなかった。
翌日、店長は人形を売り場に出した。
「置いとくなって言われた気がするから、逆に表に出す」
意味が分からなかった。
ただ、バックヤードに置いておく方が嫌だったのかもしれない。
人形は、和家具コーナーの隅に置かれた。
古い茶箪笥や掛け軸、陶器の狸の横。
値札はつけなかった。
売るつもりではないらしい。
その日から、変な客が来るようになった。
人形を見るためだけに来る客だ。
店に入って、まっすぐ和家具コーナーへ行く。
ガラスケースの前で立ち止まり、しばらく人形を見る。
何も買わずに帰る。
一人ではなかった。
老人。
中年の女。
学生服の男。
小さな子どもを連れた母親。
みんな、人形の前で同じように立ち止まる。
そして、少しだけ頭を下げて帰る。
店長も気づいていた。
「誰かがネットにでも書いたのかね」
そう言っていたが、ネットで検索しても何も出てこなかった。
三日目の夜。
閉店後、防犯カメラの映像を確認することになった。
理由は、ガラスケースの向きが毎朝変わっていたからだ。
閉店時には正面を通路側へ向けている。
なのに朝になると、ケースは少しだけ店の奥を向いている。
誰かが動かしている。
そう思って、店長が映像を見ようと言い出した。
映像は深夜二時十三分で止まった。
店内は真っ暗。
非常灯だけが緑色に光っている。
和家具コーナーの隅に、人形のガラスケースがある。
最初、何も起きなかった。
それから、画面の端に何かが映った。
女だった。
黒い着物のようなものを着た、細い女。
どこから入ってきたのか分からない。
自動ドアは開いていない。
裏口も映像上では閉まっている。
女は、ゆっくりガラスケースの前へ歩いていった。
顔は髪に隠れて見えない。
女はケースの前にしゃがみ込んだ。
そして、ガラス越しに人形の髪を梳き始めた。
櫛は映っていない。
でも、手の動きで分かった。
しゃ。
しゃ。
映像には音がないはずなのに、俺の耳にはあの音が聞こえた気がした。
店長が再生を止めた。
「警察だな」
そう言った。
けれど、その声は震えていた。
翌日、警察に相談した。
映像も見せた。
警察官は不審者として扱ってくれたが、入り口のセンサーも作動していないし、鍵も壊れていない。
結局、「しばらく様子を見てください」という話になった。
その日の夕方、またあの黒いコートの女が来た。
最初に人形を持ってきた女だった。
レジの前に立った女を見て、店長が声を荒げた。
「困りますよ、勝手に置いていかれて」
女は頭を下げた。
「すみません」
「引き取ってください」
「できません」
「できないじゃ困るんですよ」
女は、和家具コーナーの人形を見た。
その顔は、本当に怯えていた。
「もう、うちのものじゃありません」
「は?」
「あの子は、髪を結ってくれる人のところへ行きます」
店長が黙った。
女は続けた。
「昔、祖母が言っていました。髪がほどける前に、結ってあげれば大丈夫だと。でも、母が亡くなって、誰も結えなくなって」
「何の話ですか」
「ほどけると、探しに来るんです」
「誰を」
女は俺を見た。
俺の方を見た。
「次に結う人を」
その目を見た瞬間、背中が冷たくなった。
「じゃあ、供養に出せばいいでしょう」
店長が言った。
女は首を振った。
「供養じゃないんです。あれは亡くなった子の人形じゃありません」
「じゃあ何なんですか」
「髪だけです」
女は低い声で言った。
「中に入っているのは、人形じゃなくて、髪です」
その時、売り場の方から音がした。
しゃ。
しゃ。
営業時間中だった。
客もいた。
それなのに、あの音がした。
和家具コーナーに行くと、ガラスケースの中で、人形の髪がほどけていた。
三つ編みだった髪が、肩から胸元へ長く垂れている。
黒い髪。
長すぎると思った。
人形の背丈に比べて、明らかに長い。
ケースの底に、黒い髪が溜まっている。
それが少しずつ増えているように見えた。
女は後ろから小さく言った。
「今夜、誰かが結わないといけません」
「ふざけないでください」
店長は怒鳴った。
でも、女はもうレジの方へ戻っていた。
俺が追いかけた時には、店の外に出ていた。
駐車場に出ても、姿はなかった。
その夜、店長は人形を段ボールに入れた。
ガムテープで何重にも巻き、倉庫の奥へ押し込んだ。
「明日、処分業者呼ぶ」
そう言った。
俺は何も言わなかった。
閉店後、店内の電気を落とし、裏口の鍵を閉めた。
その時、倉庫の中から音がした。
しゃ。
しゃ。
店長と俺は、同時に動きを止めた。
しゃ。
しゃ。
髪を梳く音。
段ボールの中から聞こえる。
いや、段ボールの中ではない。
倉庫の奥。
床の下。
壁の内側。
店全体のどこからでも聞こえるような音だった。
店長は鍵束を握りしめた。
「帰るぞ」
俺たちはそのまま店を出た。
翌朝、店に行くと、倉庫の段ボールは開いていた。
ガムテープは切られていない。
剥がされてもいない。
ただ、箱の底が内側から濡れたように破れていた。
人形は売り場に戻っていた。
ガラスケースの中。
和家具コーナーの隅。
髪は、きれいに結われていた。
三つ編みではなかった。
誰かが時間をかけて結ったような、複雑な結び方だった。
そして、ケースの前に赤い櫛が一本落ちていた。
店長はその日、早退した。
次の日から店に来なくなった。
俺も辞めようと思った。
でも、辞める前に一度だけ、人形を確かめた。
昼休み。
店内に客はいなかった。
ガラスケースの前に立つと、人形はいつもの顔でこちらを見ていない。
髪はきれいに結ばれている。
でも、首の後ろあたりから、短い黒い髪が一本だけ飛び出していた。
俺はなぜか、それが気になった。
ケースの留め具を外した。
ガラス戸を開ける。
古い匂いがした。
防虫剤でも、埃でもない。
洗っていない髪の匂い。
俺はその一本を指でつまんだ。
軽く引いた。
抜けなかった。
髪は、人形の頭に生えているというより、奥の方へ続いているようだった。
もう少し引いた。
ずる。
音がした。
人形の後頭部ではなく、首の中から髪が出てきた。
一本ではなかった。
束だった。
俺は手を離した。
でも、髪は止まらなかった。
黒い髪が、人形の首の後ろからゆっくり出てくる。
ずる。
ずる。
ケースの底に落ちる。
その髪の束の中に、白いものが混じっていた。
紙だった。
細く折りたたまれた、古い和紙。
俺は震える手でそれを拾った。
和紙には、墨で短く書かれていた。
結う者を替える。
その下に、名前があった。
俺の名前だった。
いつ書かれたのか分からない。
でも、墨はまだ湿っていた。
その瞬間、背後で音がした。
しゃ。
しゃ。
ゆっくりと髪を梳く音。
俺は振り返れなかった。
ガラスケースの中の人形の顔が、初めて少しだけ上を向いたように見えた。
その目が、俺を見た。
はっきりと。
俺は店を飛び出した。
そのまま、二度とバイトには行かなかった。
店長から電話が何度も来たが、出なかった。
数日後、リサイクルショップは臨時休業になった。
一か月後には閉店した。
人形がどうなったのかは知らない。
そう思っていた。
でも、先週から、部屋で音がする。
深夜二時を過ぎると、洗面所の方から聞こえる。
しゃ。
しゃ。
櫛で髪を梳く音。
俺は短髪だ。
この部屋に長い髪の人間はいない。
それでも、朝になると洗面台に黒い髪が落ちている。
一本ではない。
日に日に増えている。
最初は排水口の周りだけだった。
次は鏡の前。
昨日は、枕の上にあった。
長い黒髪が、三つ編みにされて置かれていた。
赤い紐で、先の方を小さく結んで。
今夜、さっきから洗面所の鏡が曇っている。
風呂には入っていない。
お湯も使っていない。
なのに、鏡の下半分だけが白く曇っている。
曇りの向こうに、女がいる。
顔は見えない。
長い髪だけが見える。
その女は、鏡の向こうで髪を梳いている。
しゃ。
しゃ。
音が近づいている。
俺の手元には、赤い櫛がある。
いつの間にか、洗面台の上に置かれていた。
触りたくない。
でも、鏡の向こうの髪が少しずつほどけている。
ほどけた髪が、鏡の縁からこちらへ垂れてきている。
床に届くまでに、結わなければいけない。
そんな気がしている。
誰に聞いたわけでもない。
ただ、分かる。
鏡の中で、女が少しだけ顔を上げた。
白い顔。
赤い小さな唇。
そして、市松人形と同じ目。
今、髪が床についた。




