一人用の部屋
部屋に入った瞬間、自分の匂いがしないと思った。
仕事帰りの夜だった。
時刻は十一時を少し過ぎていて、アパートの廊下には雨の匂いがこもっていた。古い建物特有の、湿った木と鉄の匂い。鍵を回す時、私はいつものように小さく肩をすくめた。
この部屋に越してきて、まだ三週間。
家賃は安かった。駅から近い。日当たりも悪くない。築年数のわりに中はきれいで、不動産屋は「掘り出し物ですよ」と笑っていた。
ただ、契約の時に管理人の老人だけが、変なことを言った。
「ここは一人用だからね。余計なものは置かない方がいい」
ワンルームなのだから、当たり前だと思った。
だから、私は笑ってうなずいた。
その言葉を思い出したのは、玄関に入ってすぐだった。
靴が、一足多い。
私の黒いパンプスの横に、白いスニーカーが置かれていた。
知らない靴だった。
小さめの靴。女物。泥はついていない。まるで、今さっき誰かが脱いで、きちんとそろえたみたいだった。
「……え?」
声が、部屋の中で思ったより大きく響いた。
私はすぐに振り返り、ドアの鍵を確認した。鍵は壊れていない。チェーンもかけられる。郵便受けにも異常はない。
誰かがいる。
そう思った瞬間、背中に冷たい汗が浮いた。
私はスマホを握りしめ、そっと室内を見た。
六畳の部屋。ベッド。小さなテーブル。クローゼット。キッチン。風呂場。トイレ。
隠れる場所なんて、ほとんどない。
それでも私は、包丁を手に持って、ひとつずつ確認した。
クローゼットを開ける。
服しかない。
風呂場を見る。
誰もいない。
ベッドの下を覗く。
ほこりが少しあるだけ。
カーテンの裏も、トイレも、洗濯機の中まで見た。
誰もいなかった。
私は玄関に戻り、白いスニーカーを見下ろした。
やはり、そこにある。
気持ち悪くて、触りたくなかった。けれど玄関に置いたまま眠る方がもっと嫌だった。
私はビニール袋を二重にして、その靴を入れた。
重かった。
靴一足にしては、妙に重い。
底に泥でも詰まっているのかと思ったが、確かめる気にはなれなかった。袋の口を強く結び、アパートのゴミ置き場に捨てた。
部屋に戻ると、少しだけ安心した。
鍵を閉め、チェーンをかける。
ついでにドアノブの前に空のペットボトルを立てた。
誰かが入ってきたら、倒れて音が鳴る。
それだけのことが、妙に心強かった。
その夜、私は電気をつけたまま眠った。
夢を見た。
誰かがキッチンで水を飲んでいる夢だった。
コップを取る音。蛇口をひねる音。水が落ちる音。喉を鳴らして飲む音。
夢の中で、私は目を開けてはいけないと思っていた。
見てしまったら、相手もこちらを見る。
なぜか、そう分かっていた。
朝、目覚めると、キッチンにコップが置かれていた。
私のコップではなかった。
薄い水色のガラスのコップ。縁に小さな欠けがある。中には水が半分だけ残っていた。
私はその場で固まった。
部屋の鍵は閉まっている。チェーンもかかっている。ドアの前のペットボトルは倒れていない。
なのに、コップが増えている。
私は会社を休んだ。
管理会社に電話した。女の担当者は、困ったような声で言った。
「前の入居者の残置物ということはないと思います。清掃も入っていますので」
「でも、靴とコップがあったんです」
「鍵の交換は済んでいます。念のため、今日中に業者を向かわせますね」
業者は午後に来た。
鍵に異常はないと言われた。窓も、ベランダも、換気扇も調べてもらった。人が入った形跡はない。
「気になるなら、防犯カメラを置いた方がいいですね」
業者はそれだけ言って帰った。
私はその日のうちに、小型の見守りカメラを買った。
玄関と部屋全体が映るよう、棚の上に置いた。スマホと連動させ、録画も設定した。これで何か分かるはずだった。
分かるはずだったのに。
その夜、また音がした。
午前二時過ぎ。
布団の中で目を覚ました時、部屋は暗かった。電気を消した記憶はない。枕元のスマホを探したが、指に触れない。
ぺた。
床を歩く音がした。
裸足の音だった。
ぺた。
ぺた。
部屋のどこかを、誰かが歩いている。
私は布団の中で息を殺した。
音はキッチンへ向かった。
食器棚を開ける音。小皿が触れ合う音。冷蔵庫が開く音。
私の部屋で、誰かが当たり前みたいに生活している。
喉の奥が震えた。
声を出しそうになる。けれど出せなかった。
ぺた。
音が近づいてきた。
私のベッドの横で止まった。
布団の向こうに、誰かが立っている。
分かっているのに、見られない。
長い沈黙があった。
そして、耳元で小さく息を吸う音がした。
「……まだ、いる」
女の声だった。
私は悲鳴をあげた。
布団を跳ね飛ばし、起き上がる。
部屋には誰もいなかった。
電気はついていた。
スマホは枕元にあった。
ただ、キッチンの前に、小さな皿が置かれていた。
その上に、半分に切られたりんごがあった。
私はりんごを買っていない。
朝まで眠れなかった。
録画を確認したのは、明るくなってからだった。
深夜二時十四分。
映像の中の私は、ベッドで眠っている。
部屋の電気はついていた。
映像には、誰も映っていない。
それなのに、キッチンの引き出しだけが開いた。
ゆっくり。
中を探るように。
次に冷蔵庫の扉が開く。
誰もいない空間に向かって、白い冷気が流れ出す。
皿が、ひとりで棚から出てくる。
包丁が浮く。
りんごが、見えない手で切られていく。
私は画面を見ながら、涙が出た。
怖いというより、理解できなかった。
でも、もっとおかしいのは、その後だった。
二時二十一分。
ベッドで眠っている私の横に、誰かが立っていた。
いや、映ってはいない。
けれど、毛布の端だけが沈んでいた。
人が手を置いた時のように。
そして、映像の中の私が目を覚ました。
布団を跳ね飛ばし、起き上がる。
その時。
カメラの音声に、女の声が入っていた。
『まだ、いる』
それは、私が夜に聞いた声とは違っていた。
もっと近くて、もっと弱い。
泣きそうな声だった。
私は管理会社ではなく、管理人に電話した。
契約の時に会った老人だ。
番号は、入居時にもらった紙に書いてあった。何度か呼び出し音が鳴った後、老人はすぐに出た。
「二〇三号室の者です」
そう言うと、電話の向こうがしんとした。
「靴やコップが増えるんです。夜中に誰かが歩く音もします。カメラにも変なものが映っていて」
老人は、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「捨てましたか」
「え?」
「増えたものを、捨てましたか」
「靴は……捨てました」
電話の向こうで、老人が小さく息を吐いた。
「あれほど言ったでしょう。余計なものは置かない方がいい、と」
「どういう意味ですか」
「置かないのと、捨てるのは違います」
私は言葉を失った。
老人は続けた。
「その部屋は、一人用なんです。二人分あると、部屋が困る」
「部屋が困るって、何ですか」
「決めるんです。どちらを一人にするか」
電話を持つ手が、汗で滑った。
「何を言ってるんですか」
「名前を書いたものは、手元に置きなさい。保険証、免許証、社員証、契約書。あなたがあなたであると分かるものを、全部」
「警察に言います」
「言ってもいい。でも、その前に確認しなさい」
「何を」
老人は言った。
「今、玄関に靴は何足ありますか」
私は電話を耳に当てたまま、玄関を見た。
黒いパンプスが一足。
白いスニーカーが一足。
そして、見覚えのない茶色い革靴が一足。
三足あった。
喉が詰まった。
老人の声が遠くなる。
「増えていますね」
「……どうすればいいんですか」
「今夜、寝ないことです」
「それだけ?」
「ええ。寝なければ、取られにくい」
「何を」
電話の向こうで、老人は言った。
「あなたの場所を」
電話はそこで切れた。
その日、私は会社に行かなかった。行けなかった。
身分証を全部テーブルの上に並べた。免許証。保険証。社員証。通帳。賃貸契約書。公共料金の明細。卒業アルバムまで実家から送ってもらおうとして、やめた。
親に説明できない。
昼間の部屋は普通だった。
日差しが入って、床の木目が明るく見える。外では車が走り、どこかの部屋から洗濯機の音が聞こえる。
普通すぎることが、かえって怖かった。
夕方、コンビニへ行って、眠気覚ましの飲み物を買い込んだ。帰る時、アパートの前で管理人の老人に会った。
老人は植木に水をやっていた。
「二〇三号室」
私が呼ぶと、老人はゆっくりこちらを見た。
「あの部屋で、前に何があったんですか」
老人は私の顔ではなく、私の後ろを見た。
アパートの二階。
二〇三号室の窓。
カーテンの隙間に、白い指が見えた気がした。
「何も」
老人は言った。
「何もなかったことになっています」
「前の人は?」
「出ていきました」
「本当に?」
「書類上は」
老人の声は乾いていた。
「だから、あなたも書類を大事にしなさい」
私は震える声で聞いた。
「助けてくれないんですか」
老人は、水やりをやめた。
「私が助けられるなら、二〇三号室は空いていません」
その夜、私は眠らないと決めた。
部屋中の電気をつけた。玄関にはペットボトルを並べた。クローゼットには椅子を立てかけた。キッチンの引き出しにはガムテープを貼った。
そして、テーブルの前に座った。
身分証を見つめる。
免許証の写真の私は、今より少しだけ太っていた。社員証の私は、無理に笑っていた。契約書には、私の名前がある。
綾瀬真琴。
この部屋の借主。
間違いなく、私だ。
午前一時。
何も起きない。
午前二時。
ペットボトルは倒れない。
午前三時。
眠気が重くなってきた。まぶたが熱い。飲み物を飲みすぎて、胃が気持ち悪い。
私は頬を叩いた。
寝てはいけない。
寝たら、取られる。
午前三時四十二分。
クローゼットの中で、衣擦れの音がした。
椅子は倒れていない。扉も開いていない。
でも、中で誰かが服に触れている。
私は立ち上がった。
手にはハサミを握っていた。包丁より、こちらの方がなぜか安心できた。
「誰かいるの?」
言った瞬間、後悔した。
部屋が、すっと冷えた。
クローゼットの向こうで、女が笑った。
「いるよ」
返事があった。
私は息を止めた。
「ずっといるよ」
声は、扉の内側から聞こえていた。
「あなたが来る前から」
「出ていって」
そう言うと、クローゼットの中で、何かが爪を立てる音がした。
がり。
がり。
木を削るような音。
「ここ、私の部屋だよ」
「違う」
「違わない」
「契約書がある」
「私もあった」
心臓が嫌な音を立てた。
クローゼットの扉の下から、紙が一枚滑り出てきた。
古い賃貸契約書だった。
黄ばんだ紙。角が湿って丸まっている。
そこには、知らない女の名前が書かれていた。
佐倉芽衣。
入居日は、五年前。
退去日の欄は、空白だった。
「私も、最初は捨てたの」
扉の向こうの女が言った。
「知らない靴。知らないコップ。知らない歯ブラシ。気持ち悪くて、全部捨てた」
私の背筋に、冷たいものが走った。
「そしたら、私が余計になった」
クローゼットの扉が、少しだけ開いた。
暗い隙間ができる。
私は後ずさった。
中から、白い指が出てきた。
細い指。爪が割れている。何度も内側から引っかいたように、血の跡が黒く固まっていた。
「ねえ」
女が言った。
「あなた、まだ自分の名前、読める?」
私はテーブルを見た。
免許証。保険証。社員証。契約書。
全部ある。
あるのに。
文字が、にじんでいた。
水に濡れたみたいに、黒い線が崩れている。
顔写真の輪郭もぼやけている。
私は契約書をつかんだ。
借主の欄を見る。
そこにあったはずの名前が、薄くなっていた。
綾瀬真琴。
最後の「琴」の字だけが、もう読めなかった。
「やめて」
私は契約書を胸に抱えた。
「私の部屋なの」
クローゼットの中で、女が静かに言った。
「みんな、そう言うよ」
その時、玄関の方で音がした。
カチリ。
鍵が開いた。
ペットボトルが、一本も倒れないまま、ドアがゆっくり開いていく。
私は動けなかった。
玄関に立っていたのは、知らない女だった。
二十代半ばくらい。疲れた顔をして、コンビニの袋を持っている。黒いパンプスを脱ぎ、部屋に上がろうとして、ふとこちらを見た。
いや。
違う。
見ていない。
私の体を、透かしている。
「……何これ」
女は玄関に並んだ靴を見て、顔をしかめた。
黒いパンプス。白いスニーカー。茶色い革靴。
そして、私のスニーカー。
女はスマホを取り出し、誰かに電話をかけた。
「すみません、二〇三号室の者です。玄関に知らない靴があるんですけど」
私の喉から、声にならない音が漏れた。
やめて。
捨てないで。
それは私の靴だから。
私は玄関へ走ろうとした。
でも、足が動かなかった。
クローゼットの隙間から伸びた白い手が、私の足首をつかんでいた。
「次の人だ」
佐倉芽衣が、暗闇の中で笑った。
「早かったね」
私は叫んだ。
女は気づかない。
管理会社と話しながら、私の靴をビニール袋に入れていく。
「気持ち悪いので、捨てます」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が変わった。
テーブルの上の免許証から、私の顔が消えた。
社員証の名前が白く抜けた。
契約書の借主欄が、空白になった。
私はクローゼットの中へ引きずり込まれた。
暗い。
狭い。
服なんて一枚もない。
そこはクローゼットではなかった。
壁と壁の間にある、薄い空間だった。
人ひとりが、ぎりぎり立っていられるだけの隙間。
そこに、いくつもの影が詰まっていた。
白いスニーカーの女。
茶色い革靴の男。
水色のコップを持った誰か。
割れた爪で壁をかいている佐倉芽衣。
みんな、部屋の方を見ていた。
私は泣きながら、内側から扉を叩いた。
開けて。
私はここにいる。
ここは私の部屋。
けれど声は、部屋には届かない。
ただ、夜になると少しだけ、音になる。
裸足で歩く音。
水を飲む音。
寝息。
名前を呼ぶ声。
新しい女は、数日後には慣れたようだった。
増えたコップを捨てた。
知らない歯ブラシを捨てた。
私の社員証を見つけた時も、気味悪がって捨てた。
私はそのたびに、少しずつ薄くなった。
名前も、顔も、声も。
最後に残ったのは、靴だけだった。
玄関の隅に置かれた、私のスニーカー。
新しい女は、それを見つけてため息をついた。
「また増えてる」
そう言って、ビニール袋を取り出した。
私は壁の内側から、必死に手を伸ばした。
やめて。
お願い。
それを捨てないで。
女が、ふと顔を上げた。
聞こえたのだろうか。
私の声が。
私の泣き声が。
女は玄関でしばらく動かなかった。
そして、ゆっくりこちらを見た。
クローゼットの扉。
その隙間。
私は息を殺した。
目が合った気がした。
女は震える手で、スマホを握りしめた。
でも、近づいては来なかった。
ただ小さくつぶやいた。
「……誰かいるの?」
答えてはいけない。
そう思った。
でも、もう遅かった。
隣で佐倉芽衣が笑っている。
白いスニーカーの女も、茶色い革靴の男も、みんな同じように笑っている。
この部屋は一人用。
二人分あると、部屋が困る。
だから決める。
どちらを、一人にするか。
私は扉の内側に額を押しつけた。
そして、泣きながら答えた。
「いるよ」
女の顔が、恐怖でゆがんだ。
その夜、玄関にまた一足、知らない靴が増えた。




