大海戦劈頭
トルティーアの船団の中の一つ。
高級な奴隷を運ぶための船の一つにイザク・パシャはいざなわれていた。
船室から階段を降り、船の最下層に作られた薄暗い船倉の扉を開ける。
そこにはドレスを着た輝くような銀髪の少女が、板べりの床に座り込んでいた。
「他国の要人を捕らえたとは聞きましたが…… まさか、美貌を謳われたエカチェリーナだったとは」
上機嫌のマホメッド十七世に連れてこられたイザク・パシャは、鎖につながれたままのエカチェリーナを欲にまみれた目で見降ろしていた。
「これで、ルス王国は人質を取られた形となる。手薄になった本国が北の国境から攻められる心配はなくなった」
「それだけではないでしょう? 我らが王、マホメッド十七世」
イザク・パシャの言葉に、マホメッド十七世は薄い唇をゆがめた。
「ルス王国の第一王女は評判の美少女と聞いていたからな。我がハレムを彩る一輪の花となろう」
ルスとトルティーアの国境にある山岳地帯、コーサカス山脈に住む女は美人ぞろいで奴隷としての需要が高い。
ルスの第一王女はコーサカス山脈の血を引き、幼少のみぎりからその美貌を謳われていた。
「しかしよく捕らえられましたな」
「騎兵隊の潜伏と速度が秀逸だったのだ。人でも隠れるのが難しいわずかなライ麦畑のくぼ地に馬を伏せることで隠し、馬車が近づいたまさにその瞬間に立ち上がって突撃。馬に鞭を当てながらエカチェリーナを抱きかかえた後は再びライ麦畑の果てへと消えていった」
同僚に水を開けられた形となるが、処刑の心配がなくなったことにイザク・パシャは安堵していた。
後は追撃してくるイタリアーナ・シュパーニエンの軍を返り討ちにするだけだ。
「この戦いが終わった後、ゆっくりと楽しむことにする。それまでは指一本触れさせるな。触れたものは胴切りの刑に処す」
マホメッド十七世は見張りの部下に言明すると、船倉の扉をゆっくりと閉めた。
自分を拉致した者たちの王の足音が遠ざかっていく中、エカチェリーナは歯ぎしりして扉をにらみつける。
「ごんなことにならんがっだら、今ごろは……」
ひと月以上に及ぶ虜囚生活の中でも、目の光が消えることはない。
ルス王国から馬で拉致され、白海沿いの小さなはしけ舟からこの大船に乗せ換えられてからずっとこのうす暗い船倉の中だった。
食事と体を拭くための湯は用意されるものの、付き添っていた侍女がいないのは痛い。
トルティーアのチョコレート色の肌の付き人たちは、ルスの習慣に疎く気が利かないものばかりだった。
船倉のたった一つの窓越しに遥か北の自国を偲びながら、絶世の美少女の口から呟きがもれる。
「今ごろは、新作の続きを読めどっだのに」
エカチェリーナは生粋の本好きである。
寝食の時間も惜しんで本を読み、朝になっても日が暮れても本を読み、入浴しながらでも本を読む。
庶民に生まれたら今ごろ彼女は髪は伸び放題、体臭はひどくやせ細っていただろう。
美しさを保てているのは侍女たちが衣食住にスケジュール管理を取り持ってくれているお陰である。
彼女がこのひと月何よりも苦痛だったのは本が読めないことだった。
代わりに、脳内で今まで読んだ本を繰り返して楽しむ。
捕らわれのお姫様を王子様が救いだしてくれるお話。そして。
死んでいった家臣たちが、魔法の薬でよみがえるお話を。
翌日、世紀の大海戦が幕を開ける。
東の空が霞み始め、後を追うように茜色の朝日が海を染め上げていく。
東方には赤地に白い半月の旗をかかげたトルティーアの大艦隊。
大型・小型をあわせざっと四百は越えるか。だが数の上では劣っていても、イタリアーナの海軍は陸中海最強を誇る。
接敵に備え、両軍とも陣形を組み始めた。
お互いに海戦での定石とされる弓型の陣形。中央に旗艦を配置し、敵と真っ先にぶつかる両翼に精鋭を置く。
弓形の陣形の中央にクリスティーナ乗り込む深紅の旗艦が配置され、両脇と背後をパウロ、カルロスをはじめとする勇猛な将が固めた。
カルロスが乗り込むシュパーニエンの旗艦は、櫂までも純白に塗られ深紅のイタリアーナの旗艦とは好対称。
陣形の前方には大砲をズラリと並べた巨船、ガレアッツアが控えた。
トルティーアの陣形もほぼ同じ。
両軍からの砲音が開戦の合図となった。
漕ぎ手が櫂を必死に操作し、互いの船がみるみるうちに距離を詰めていく。




