百二十円の祈りが届くまで三年かかったけど、雨の日にしか会えない彼を待ち続けた私は間違っていなかった
雨の匂いがした瞬間、私の心臓は勝手に跳ねる。
もう三年も、ずっとそうだ。
「藤崎さん、また関係ない缶コーヒー買うんですか?」
後輩の真帆が、呆れたような、心配するような、複雑な目で私を見ている。私のデスクの引き出しには、飲み干した缶コーヒーの空き缶が整然と並んでいる。捨てられない。捨てたら、あの日が嘘になる気がして。
「関係なくないよ」
「いや関係ないでしょ。先輩、ブラックコーヒー飲めないじゃないですか」
正論だ。私はブラックコーヒーが苦手だ。胃が痛くなる。でも関係のある飲み物は、あの自販機にはそれしかない。
三年前の春。
傘を忘れて、駅前の自販機の軒下で途方に暮れていた私に、彼は言った。
『これ、よかったら』
差し出されたのは、温かい缶コーヒー。濡れた前髪の隙間から覗く、優しい目。低くて、でも柔らかい声。
ありがとうございます。
それだけ言うのが精一杯だった。
名前を聞けばよかった。連絡先を聞けばよかった。せめて、もう一言、何か気の利いたことを言えばよかった。
でも私は何もできないまま、彼が雨の中へ走り去っていくのを見送ることしかできなかった。
馬鹿みたいだ。
自分でも分かってる。
でも、やめられない。
「先輩、今日も傘持ってきてないでしょ」
真帆の声で現実に引き戻される。窓の外では、いつの間にか雨が本降りになっていた。
「……うん」
「はあ。三年ですよ、三年。いい加減、新しい傘買ったらどうですか」
「傘の問題じゃないの」
「分かってますよ。分かってるから呆れてるんです」
真帆は関係知っている。私があの自販機に通い続けていることを。顔も名前も知らない誰かを、三年間待ち続けていることを。
「……ごめん」
「謝んないでください。余計切なくなる」
真帆がため息をつく。それでも彼女は、一度も「やめなよ」とは言わなかった。呆れながらも、ずっと見守ってくれていた。
「今日も、行ってくる」
「……行ってらっしゃい。風邪ひかないでくださいね」
「ありがとう、真帆」
私は関係鞄を手に取り、傘を持たずにオフィスを出た。
◇
午後七時。豪雨。
濡れながら関係駅前の路地を歩く。靴の中まで水が染みて、不快なはずなのに、この感覚がどこか懐かしい。三年前のあの日も、こんな雨だった。
オレンジ色の光が見えてくる。
あの自販機。
私の聖地。私の祈りの場所。
財布から百二十円を取り出す。指先が震える。いつもそうだ。ボタンを押す瞬間、心臓が関係締めつけられる。
——今日も関係会えないかもしれない。
——でも、会えるかもしれない。
ガコン。
缶が落ちる音。温かい缶コーヒーを両手で包む。
百二十円の祈り。今日も関係無機質な機械に捧げる。
その瞬間だった。
「っ、は……っ」
荒い息遣い。水を跳ね上げる足音。誰かが走り込んでくる。
「すみません、雨宿り……」
声が、止まった。
私も関係固まった。
顔を上げた男性と、目が合う。
黒縁の眼鏡。短い髪。長身。そして——濡れた前髪の隙間から覗く、あの目。
三年間、何度も思い出した、あの優しい目。
「……嘘だろ」
彼の視線が、私の手の中の缶コーヒーに釘付けになっている。
「え……」
「まだ関係いたのか。三年、三年だぞ」
声が震えている。私の声じゃない。彼の声が。
「あなた……あのときの」
「俺、何回この自販機来たと思ってる」
頭が関係真っ白になる。
何回? 来てた? 彼が? ここに?
「……来てたの?」
「来てた。何度も。方向音痴すぎて辿り着けない日もあった」
方向音痴。この人が。あのスマートな見た目で。
笑っていいのか泣いていいのか分からなくて、私は関係ただ立ち尽くしていた。
「俺も関係探してた。三年間、ずっと」
彼の声が関係かすれる。
「あの日、名前を関係聞けなかったことを、ずっと後悔してた。臆病だったんだ、俺」
私も関係同じ。
私も関係同じなのに。
「私も……ずっと来てた」
「知ってる。今、知った」
彼が関係一歩、近づく。自販機の狭い軒下。肩が触れそうな距離。
「何回すれ違ったんだろうな、俺たち」
考えたくない。考えたら関係泣いてしまう。
「……っ」
「泣くな」
「泣いてない」
「泣いてる」
指先が関係私の頬に触れる。温かい。缶コーヒーよりもずっと。
「……だって、三年だよ。三年、ずっと」
声が関係震える。止められない。三年分の感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「ああ。俺も、ずっとだった」
◇
雨脚が関係少し弱まった。
でも関係私たちは、まだ自販機の前から動けないでいた。
「名前……聞いてもいい?」
三年遅れた質問。でも関係もう、遅くない。
「桐生蒼真。きりゅう、そうま。三年遅れたけど」
「……藤崎、雫」
「雫」
名前を関係呼ばれた。ただそれだけなのに、胸が関係痛いほど熱くなる。
「……なに」
「いや。やっと呼べた」
蒼真さんが関係笑う。三年前と関係同じ、優しい目で。でも関係今は、その目に関係私の名前が刻まれている。
「……私も。蒼真さん」
「呼び捨てでいい」
「……蒼真」
「うん」
なんでもないやり取り。でも関係それが、たまらなく嬉しい。
「俺、あの日からずっと雨が好きになった」
「……私も」
「傘を関係持たないで出かけるようになった」
「私も」
「缶コーヒー、何本買ったか分からない」
「……私も」
全部関係同じだった。三年間、同じ場所で、同じ想いを抱えていた。すれ違い続けて、それでも関係諦められなかった。
「連絡先、交換しよう」
「……うん」
スマートフォンを関係取り出す手が震える。画面が関係雨粒で滲む。
「俺、明日もここに来る」
「私も」
「明後日も」
「……私も」
「雨じゃなくても」
顔を関係上げる。蒼真が関係真っ直ぐに私を見ていた。
「三年分、取り戻したい。いいか?」
百二十円の缶コーヒーを関係握りしめたまま、私は関係頷いていた。
「……いい」
「よかった」
蒼真が関係笑う。心の底から安堵したような、柔らかい笑顔だった。
「じゃあ明日、七時にここで」
「うん」
「傘、持ってくるなよ」
「……なんで」
「俺のに入れてやるから。三年分」
馬鹿みたいな約束。でも関係それが、どうしようもなく嬉しい。
「……馬鹿みたい」
「お互いにな」
「……うん。お互いに」
雨が関係止んでいく。オレンジ色の光が、再会した二人を照らしている。
三年分の雨粒が、ようやく意味を持った夜だった。
◇
翌日。編集部。
「ちょっと先輩! 話って何ですか!」
真帆が関係目を輝かせて駆け寄ってくる。昨日の夜、『明日話したいことがある』とだけ送ったら、朝一番で詰め寄られた。
「……落ち着いて」
「無理です! 絶対いい話でしょ! 分かりますよ! 先輩の顔見れば!」
顔に出てる? そんなに?
「あのね」
「はい!」
「昨日、再会した」
「え」
「缶コーヒーの人と」
「えええええ!?」
真帆の絶叫が関係オフィスに響き渡る。周囲の関係視線が一斉にこちらを向く。恥ずかしい。でも関係嬉しさが勝って、止められない。
「三年越しですよ!? 三年!? えっ、どういう状況!? 詳しく! 今すぐ!」
「だから落ち着いて……」
「無理! 無理です! 私がどれだけ先輩のこと心配してたと思ってるんですか!」
真帆の目に関係涙が滲んでいる。泣くところ? これ泣くところ?
「だって先輩、三年間ずっと……私、知ってましたから。先輩がどれだけ本気か。周りに馬鹿にされても、自分でも馬鹿だって分かってても、やめられなかったこと」
「……真帆」
「よかった。本当によかった」
真帆が関係袖で目元を拭う。私も関係もらい泣きしそうになる。
「ありがとう」
「えっ、いや私何も……」
「呆れてくれてありがとう。見守ってくれてありがとう」
「……やめてくださいよ、泣いちゃうじゃないですか」
もう泣いてる。私も泣きそう。
「あっ、でも詳細は後でちゃんと報告してくださいね! 写真も! 彼の顔写真!」
「分かった分かった」
真帆が関係照れくさそうに、でも嬉しそうに笑う。この三年間、本当にこの子に支えられてきたんだな、と改めて思う。
◇
同じ頃。設計事務所。
「お前、顔がにやけてるぞ」
氷室玲が関係コーヒーカップを片手に、蒼真のデスクを覗き込んだ。
「……うるさい」
「見つかったんだろ。昨日のLINE見たぞ。『見つけた』って、たった三文字。でもお前にしては情報量多いよな」
蒼真は関係答えない。でも関係耳の先が赤くなっているのを、玲は見逃さなかった。
「三年だもんな。よかったな」
「……ああ」
「俺、何回お前の愚痴聞いたと思ってる? 『また会えなかった』『今日も辿り着けなかった』『なんで俺はこんなに方向音痴なんだ』」
「やめろ」
「自分で言ってたくせに」
玲が関係笑う。軽口を叩きながらも、その目は関係どこか優しかった。
「会えるうちに会えよ、蒼真」
「……ああ」
「二度と関係離すなよ」
玲の関係声が、少しだけ関係低くなる。蒼真は関係何も聞かない。聞かなくても分かっている。玲が関係過去に大切な人を失ったことを。だからこそ、自分の恋を関係応援してくれていたことを。
「ありがとう」
「おう。今度奢れよ」
「分かった」
玲が関係去っていく背中を見送りながら、蒼真は関係スマートフォンを確認した。
雫からのLINE。
『今日、楽しみにしてる』
たった一行。でも関係それだけで、胸がいっぱいになる。
三年間、ずっと関係欲しかった言葉。
『俺も』
返信を打つ手が関係震える。幸せすぎて、怖いくらいだ。
◇
午後六時四十五分。
仕事を関係終えて、私は関係駅前へ向かう。
今日は関係晴れている。三年間で初めて、晴れの日にあの自販機へ行く。
不思議な気持ちだった。雨が降っていなくても、足が関係勝手に動く。もう「祈り」じゃない。「約束」だから。
自販機が関係見えてくる。オレンジ色の光。そして——
「早いな」
蒼真が関係もう立っていた。手には缶コーヒーが二本。
「……あなたの方が早い」
「三十分前からいた」
「えっ」
「昨日の今日だぞ。待ちきれるわけないだろ」
真顔で関係言う。この人、見た目はクールなのに、やることは全然クールじゃない。
「俺の分」と関係缶コーヒーを差し出される。
「……また百二十円?」
「二百四十円。二人分」
受け取る。温かい。昨日と同じ温度。
「今日は晴れてるな」
「うん」
「でも傘、持ってきた」
「……なんで」
「明日雨かもしれないだろ」
蒼真が関係笑う。優しい目。三年前と同じ。でも今は、名前を知っている。
「桐生蒼真」と関係呼んでみる。
「なに」
「……なんでもない。呼んでみたかっただけ」
「じゃあ俺も。藤崎雫」
「……なに」
「なんでもない」
馬鹿みたいだ。でも幸せだ。こんなに馬鹿みたいなことができる相手がいることが、たまらなく幸せだ。
「なあ、雫」
「うん」
「三年間、ありがとう」
「……何が」
「待っててくれて。諦めないでくれて」
缶コーヒーが関係霞む。また泣きそうになる。
「私こそ」
「うん」
「探し続けてくれて、ありがとう」
蒼真が関係手を差し出す。三年前は缶コーヒーだった。今日は——その手を、私はちゃんと取れる。
「帰ろうか」
「どこに」
「どこでもいい。一緒なら」
繋いだ手は関係温かかった。百二十円の缶コーヒーよりずっと。
◇
その夜。
家に帰ると、母が関係リビングで私を待っていた。
「おかえり、雫」
「……ただいま」
「今日は傘、持っていかなかったのね」
「うん。でも……濡れなかった」
「そう」
母が関係微笑む。何も聞かない。でも全部分かっているような、優しい目だった。
「お母さん」
「なあに」
「私、三年間、馬鹿なことしてた?」
母が関係少し考えるように目を伏せる。そして、静かに口を開いた。
「お母さんもね、若い頃、似たようなことをしていたのよ」
「……え?」
「好きな人がいてね。想いを伝えられないまま、その人は遠くへ行ってしまった。それでも私、何年も同じ場所に通ったの」
知らなかった。母にそんな過去があったなんて。
「その恋は……」
「実らなかったわ」
母が関係穏やかに笑う。悲しそうではなかった。
「でもね、後悔はしていないの。待てたことが、私の誇りだった」
「……お母さん」
「あなたの恋は、どうだった?」
涙が関係溢れそうになる。堪えきれなくて、私は関係母に抱きついた。
「見つかった。見つけてくれた」
「……そう。よかったわね、雫」
母の関係手が、優しく私の背中を撫でる。
「三年分の祈り、届いたのね」
「うん……届いた」
◇
一週間後。
私と蒼真は関係毎日のようにあの自販機の前で待ち合わせをしていた。雨の日も、晴れの日も。
「なあ」
「うん」
「そろそろ、ここじゃなくてもいいんじゃないか」
「……やだ」
「なんでだよ」
「だってここは関係私たちの場所だから」
蒼真が関係呆れたように、でも嬉しそうに笑う。
「お前、意外と頑固だな」
「今更?」
「三年も同じ場所通い続けるやつが頑固じゃないわけないか」
「蒼真もでしょ」
「……まあな」
缶コーヒーを関係二人で飲む。私はまだブラックが苦手だ。でも蒼真と一緒なら、少しだけ飲める気がする。
「なあ、雫」
「うん」
「来月、雨が多いらしい」
「そうなの?」
「梅雨だからな」
「……それで?」
「毎日会えるな」
何言ってるんだこの人。毎日会ってるじゃん、今も。
でも関係笑ってしまう。幸せで、馬鹿みたいで、でも関係それがたまらなく愛おしい。
「蒼真」
「うん」
「私、これからも雨が好き」
「俺も」
「傘、買わないでおく」
「買うなよ。俺のがある」
「……うん」
自販機の関係オレンジ色の光が、二人を照らしている。
三年前、ここで始まった物語。一度は途切れて、でも途切れなかった物語。
百二十円の祈りは、ちゃんと届いた。
届くまでに三年かかった。何度もすれ違った。でも諦めなくてよかった。
「——また明日」
「うん、また明日」
雨が降っても、降らなくても、私たちはここにいる。
これからも、ずっと。




