第538話 お嬢様寿司ですわー!
休日の夜。黒乃とメル子は浅草駅にやってきていた。地下鉄でどこかに出かけるわけではない。駅に隣接する商店街のある一角を眺めていた。
「ここですか?」
「ここだね」
看板を見上げた。『浅草地下街入口』の文字。店と店に挟まれた小汚い地下への入口。低い天井、二メートルもない幅。知らぬものは、足を踏み入れるのにためらうであろう圧倒的なレトロ感を放っていた。
「いくか」
「いきましょう」
二人は縦に並んで階段に足をかけた。横に並ぶことはできない。慎重に一歩一歩進んだ。しばらく進むと店舗が見えてきた。営業しているのか、いないのか。なんの店なのかもわからない。途中向かいから通行人ロボがやってきた時には、二人ともびくりと震えた。
ようやく狭い通路を抜けると、そこには地下街が広がっていた。長さ五十メートル、幅五メートル。床のタイルは剥がれ、水が溜まっている。天井には剥き出しの配管が走り回り、通路には看板や机が並べられていた。焼きそば屋、焼肉屋、居酒屋、理髪店。狭い空間には肉を焼いた煙が満ちており、燻されるのを楽しんでいるかのように人々が飲み食いしていた。
「ここが浅草地下街か……」
「初めてきました……」
浅草地下街。現存する日本最古の地下街だ。1955年に開業し、今なお庶民の憩いの場として、人々を受け入れ続けている。設備は古く、汚く、狭く、臭い。レトロと表現するのも憚られるほどのボロさだ。だが、人々は地下街に魅了される。日常から隔絶された異世界が、地下に広がっているのだ。
二人は通路を歩いた。たどり着いたのは、閉鎖された飲食店が並ぶ一画に佇む小さな寿司屋だ。
「着いた……」
「着きましたね……」
古めかしい引き戸には曇りガラスが張られており、うっすらと中の光が見えた。軒先に吊り下げられた暖簾には『縦ロール寿司』の文字だ。
黒乃は恐る恐る戸を開けた。
「いらっしゃいまし」
「いらっしゃいまし」
二人を出迎えたのは、金髪縦ロール、シャルルペロードレスのお嬢様と、金髪縦ロールシャルルペローメイド服のメイドロボであった。
「ご予約の、黒乃様とメル子さんですのね。こちらにお座りくださいまし」
アンテロッテは二人をカウンターに座らせた。すかさず湯呑みと、しっかりと巻かれたおしぼりを差し出した。
「ふー」
黒乃は丸メガネを外すと、豪快におしぼりで顔を拭いた。
「ふーい!」
熱々の湯呑みを掴むと、グビリと煽った。
「ぶっふぁー!」
「ご主人様! お下品ですよ!」
「いいじゃないのよ、お寿司屋さんなんだから」
黒乃は店の中を眺めた。L字型のカウンターだけの小さな店だ。壁にはネタ札がかけられ、カウンターの前のネタケースの中には、仕込み済みのネタが並んでいた。
「大将、今日のネタはよさそうだね」
「抜群ですの」
黒乃はつけ場の中で黙々と作業するお嬢様を見た。体が小さいので、台の上に立っている。
「まさか、お嬢様たちがお寿司屋さんを始めたなんて、びっくりしましたよ」
「びっくり寿司だね」
「ご贔屓に頼みますの。さあ、なにから巻きますの?」
「え? 巻く? そうだなあ……」
黒乃はネタ札を見渡した。マグロ、イカ、エビ、イワシ、サンマ、コハダ、ハンバーグ、イクラ、なんでもござれだ。
「エンガワを握ってもらおうかな」
「へいですの」
マリーは巻きすに海苔を広げ、シャリと具材を乗せた。巻きすごとしっかりと巻いていく。
「大将! 見事な手際です!」
「恐れ入りますの」
「さすが大将ですの」
「いや……握り……」
マリーは包丁で海苔巻きを切り分けた。
「へいお待ちですの」
「おいしそうです!」
メル子は大喜びで海苔巻きをつまみ、醤油に軽くつけた。そして口の中に放り込んだ。
「海苔の噛みごたえのあとにくるシャリのほろりとした歯触りが心地いいです! エンガワの塩気がほどよくて、コリコリとした食感が癖になります!」
「あれ……握りは?」
黒乃も海苔巻きをつまんだ。先端に醤油をちょびりとつけ、口に放り込んだ。
「うん、シャリの締まり具合が絶妙だ。歯ごたえのあるネタだから、あえてシャリを緩めにしているんだね。うまい」
「恐縮ですの」
「さすが大将ですの」
「でも海苔巻きなんだよなあ……」
黒乃は再びネタ札を見渡した。
「お、光り物いっちゃおうかな」
「いいですね」
「じゃあ、イワシを握ってもらおうかな」
「へいですの」
先ほどと同じように、巻きすに海苔とシャリを広げた。その上に丁寧にイワシを並べていく。
「へいお待ちですの」
「おお、きたきた」
「きました」
「ワサビではなく、ショウガで食べてほしいですの」
「よしきた」
黒乃とメル子は海苔巻きを口に放り込んだ。脂が溶け出し、シャリと一体になって口の中でほぐれた。
「うまい。イワシの脂っぽさがショウガで中和されて、旨みだけを舌に与えてるよ」
「仕込みが丁寧なので、臭みがないです! 光り物は痛みやすいので、空気に触れない海苔巻きは最適ですよ!」
「痛み入りますの」
「さすが大将ですの」
「いやでも、海苔巻きは頼んでないんだよなあ……」
アンテロッテがお椀を机の上に置いた。
「こちら、おサービスのお吸い物でごじゃりますの」
「おお、ありがたいねえ」
「お寿司は基本冷たいですから、温かいものは嬉しいですね」
二人は漆塗りのお椀の蓋を開けた。中から立ち上る湯気は二人の鼻腔をくすぐり、若干の驚きをもたらした。
「なんだこれ……」
「ロールキャベツですね……」
透き通った汁の中に堂々と浮かぶキャベツの塊。熱が通った葉の向こうには、具材が透けて見えていた。
「なんで寿司屋でロールキャベツが……」
「謎ですね……」
お椀を持ち上げズズとすすった。昆布出汁が口の中を爽やかに通り抜けた。
「む? ロールキャベツだからコンソメかと思ったら、ちゃんとお出汁だ」
「しかも、キャベツの中は挽肉ではなく、魚のツミレです! これはアジですね!? あと、微かな香りが……」
「さすがメル子ですの。アジとサンマのツミレですの」
「おいしいです!」
寿司屋において、汁物はオアシス。夢中ですすった。
「さてと、そろそろガッツリとした握りがほしいね」
「ご主人様、マグロをいきますか?」
「いいね。大将、今日のマグロはどこのかな?」
「大間の本マグロですの。今がお旬ですの」
「ご主人様! 私、大トロを食べたいです!」
「ひょー! いっちゃうか!? 大将! 炙りを握ってもらえる!?」
「へいですの」
マリーは冷蔵庫を開け、中から布に包まれた大きな塊を取り出した。布をめくると、白とピンクの縞縞模様の身が現れた。
「うわ! すっご!」
「脂がしっかりと入っているので、赤い身がピンクに見えます!」
「この白い部分は筋でございますので、『はがし』をしますの」
マリーは塊から身をはがすように包丁を入れていった。手間のかかる仕事なので、これをしている店は少ない。
「すごい包丁さばきだ!」
「大将はお寿司のジュニアチャンピオンですので、当然ですの」
はがした身を細切りにして、甘く煮詰めたタレに漬け込んだ。みるみるうちに脂が浮いてきた。身に串を刺し、バーナーで炙った。タレの焦げた香りが店の中で爆発した。
「うおっ! この香り! たまらん!」
「串に刺して炙ることで、余計な脂を落としているのですね! さあ! それを握ってください!」
マリーは巻きすに海苔とシャリを広げた。そこに炙った大トロを並べた。
「結局巻くんかい!」
「ズコーです!」
「お味はついてございますので、そのまま召し上がってくださいまし」
二人は海苔巻きを口に放り込んだ。まず焦げたタレの香り、そのあとに甘み。続いて大トロの脂の甘み、噛むことで生まれるマグロの旨み。
「あまあまうまうまです!」
「こりゃあ、贅沢すぎて言葉が出てこんな」
ひたすら海苔巻きを放り込む。
「アン子さん! お茶をください!」
「よござんす」
口の中の脂をお茶で洗い流す。えも言われる充足感が二人を襲った。
「ああ、なんか……大トロを食べたあとはこんな感じになるよね」
「脂のパワーですね……」
うっとりと椅子の背もたれに寄りかかり、お腹をさする。そろそろ締めの頃合いだ。
「じゃあ、最後はお任せで珍しいのを握ってもらおうかな?」
「へいですの」
マリーは巻きすに透き通ったシートを乗せた。そこにエビ、きゅうり、大葉を盛り付けしっかりと巻いた。今度は包丁を入れずに、丸のまま手渡した。
「なにこれ!?」
「もはや、海苔巻きですらありません!」
「こちらのおソースにつけて召し上がってくださいまし」
小皿には緑色のトロリとしたソースが入っていた。
「なにこれ!? バジルのジェノベーゼ!?」
「いえ、これは大根おろしです! ワサビを溶かしてあるのです! それに大量の大葉を刻んでペースト状にしています!」
二人はソースをたっぷりつけ、謎の巻物にかじりついた。ワサビが清々しく鼻を通り抜け、舌を刺激した。そして押し寄せてくる大葉の瑞々しい香り、エビの弾けるような食感。
「これは生春巻きだ! おいしいけど、寿司じゃないよこれ!」
「ご主人様! 生春巻きに使われているのはライスペーパーです! 包んでいるのはあくまでお米。そして具材はお寿司のもの! これはお寿司ですよ!」
ご主人様とメイドロボは、夢中で寿司にかじりついた。お嬢様二人は、それを満足げに見つめた。
「さて、デザートは……」
「桜餅ですね……塩漬けの桜の葉で巻いてあります」
二人は膨れた腹をさすって店を出た。
「うう……苦しい……」
「海苔巻きざんまいは胃にきますね……」
二人はお互いを支え合って浅草地下街を歩いた。漂ってくる焼肉の煙が今はうらめしい。
この世は縦ロール。都会の忙しない時間に巻かれ、長いものに巻かれ、煙に巻かれ生きていく。二人は地下街から地上に上がった。
「うう……さぶさぶ!」
「寒いです!」
そうだ。今日は温かい布団に巻かれて寝よう。




