第532話 ラーメン大好きメル子さんです! その十五
浅草から四十分。黒乃とメル子は、満員電車に揺られて川崎駅へとやってきていた。ホームに降り立った二人は、げっそりとした顔で押されるように階段を上り、弾き出されるように改札を抜けた。
「ハァハァ、ようやく到着した……」
「ずいぶんと混んでいましたね……」
それもそのはず、現在の時刻はなんと午前七時。ド朝、ドラッシュアワーだ。
「いったい、なぜこんな朝早く電車に乗らなくてはならないのですか?」
「決まっているじゃないか。ラーメンを食べるためだよ」
「朝からラーメンですか!?」
二人は川のように流れる人々とともに駅の構内を抜けた。その先に待っているものはなにか? もちろん、ラーメンである。
「ここが川崎ですか!」
メル子は天を仰ぎ見た。竹の子のように突き出た高層ビル群は、人々の上にのしかかってくるかのような威圧感があった。多摩川と鶴見川に挟まれたこの土地には、川に乗って微かな海風が吹き込んできているようだ。
神奈川県川崎市。東京都と横浜市に挟まれた人口百五十万人の大都市だ。工業地帯として発展し、繁華街とベッドタウンとしての機能も充実している。
「いやー、きれいでいい町ですねえ!」
「うーむ……」
「どうしました?」
黒乃とメル子は十二月の冷たい風の中、人が行き交う通りを歩いた。朝なのでほとんどがサラリーマンだが、なにやら怪しい風体の人々も見受けられる。
「実は川崎は、治安が悪いというイメージがあってね」
「ええ!?」
実際、特別治安が悪いというデータは存在しない。そのイメージがついてしまったのは、川崎駅周辺の歓楽街、競馬場、競輪場の存在のためだ。ごくごく一部のエリア以外はとても安全なので、ご安心願いたい。
「そういえば、駅を少し離れただけで、スラム感が出てきましたね……」
メル子は周りを見渡し、黒乃の腕にしがみついた。駅前の整った一画とは違い、雑多な雰囲気を持つガード下は、荒々しい昭和の時代を連想させた。
「怖いです! チンピラロボが出てきたら、大相撲パワーで倒してください!」
「お、ここだ。着いたよ」
「ここですか!?」
ガード下の小さな店。朝だというのに店の前には行列ができていた。中からは活気と熱気が溢れ出してくるかのようだ。
「『ニューロボちんラーメン』ですね!」
「そうそう。さ、並ぼうか」
黒乃は券売機で食券を二枚購入し、列の最後尾についた。ここはパドック。レース前の出走馬のように、心を落ち着かせる場だ。
「ご主人様! ここはどのようなラーメンを食べられるのですか!?」
「ふふふ、今日はね『ちゃん系ラーメン』を食べようと思ってね」
「ちゃん系ラーメン!? なんですか、それは!?」
ちゃん系ラーメンとは、近年都内で急速に勢力を伸ばしているラーメンで、狭義では『ちゃんのれん組合』に加盟しているラーメン屋のラーメンをさす。広義では、それに準ずるラーメンを言う。
「へー……いや待ってくださいよ」
「どした?」
「都内で勢力を伸ばしているのですよね?」
「そうだけど」
「では、なぜ川崎まできたのですか!?」
「いや、なんとなくだけど」
「なんとなく!? ハァハァ、まあいいです。ところで、ちゃん系とは面白いネーミングですね。どういう由来があるのでしょうか?」
「ふふふ、それはね……」
名前の由来は店舗名から取られている。神田ロボちゃんラーメン、新宿ロボチャンラーメン、新橋ロボちゃんラーメンなど、『ちゃん』がつく店が多いのだ。
「なるほど! だからちゃん系なのですね!」
「そうそう」
「へー……いや待ってくださいよ」
「どした?」
「屋号にちゃんがつくから、ちゃん系なのですよね!?」
「そうだけど」
「ここはロボちんラーメン! ちんです! ちゃんではなく、ちんです! ちん系ラーメンです!」
「ははは」
「ワロてる!?」
大騒ぎしながら待っていると、いよいよ二人の番がやってきた。
「ご主人様! 入れますよ!」
「列の割にはけっこう早かったな」
「お二人様、どうぞー!」
二人は店員ロボに大声で迎え入れられた。すかさず空いているカウンターに滑り込む。店内ではこれから仕事に向かうであろうサラリーマンが、立ったまま夢中になってラーメンをすすっていた。明るい照明、飾り気のない内装、店内に響くビートルズ。ラーメン屋というより、食堂を連想させた。
「あれ? ご主人様」
「どした?」
「椅子がありませんが」
「ないね」
「椅子がない!? はるばる川崎くんだりまできて、椅子がない!? どういうことですか!? 店長! 出てきてください、店長!」
「こらこら、落ち着きなさい。ここは立ち食いのラーメン屋だから」
「立ち食いラーメン!?」
「川崎っぽくていいでしょ?」
「ハァハァ、そういうことですか。これは失礼しました。レトロなスタイルのお店ということですね」
しばし、ラーメンの完成を待った。カウンターは発馬機だ。食券番号のコールがスタートの合図。二人はトレイに乗せられた丼と、『めし』が盛られた茶碗を持ち帰ってきた。
「きたきたきた!」
「きました!」
二人は丼を見て瞳を輝かせた。
「これがちゃん系ラーメンですか!」
丼になみなみと注がれたスープは、今にも溢れ出しそうだ。薄切りのチャーシューがこれでもかとまぶされ、大量のネギがちりばめられている。全体的におしゃれとはほど遠い忙しい丼面ではあるが、光り輝いていた。
「光っています! ラーメンが光っています!」
「うひょー! これこれぇ! 表面を覆う油に、強めの照明が反射しているのだ!」
黒乃の言葉のとおり、透き通ったスープの表面には油の層ができているようだ。醤油ベースのスープが具を押し上げ、今にも噴火しそうだ。
「では、いたーだきーます!」
「いたーだきーます!」
二人は迷わずスープから攻めた。レンゲですくいあげると、油の玉がいくつもできた。
「あちちっ! あちっ!」
「熱いです! でも……おいしい! 醤油ベースなので、最初に醤油の香りがくるのかと思いきや、まず塩味がやってきます! けっこうしょっぱいです!」
「そのあとにすかさずやってくる醤油のキレ! 豚骨を煮出したコクと甘み! あ〜、なんか落ち着く〜」
熱々のスープの次はもちろん麺だ。箸で麺を持ち上げると、光り輝く滝が現れた。
「これは!? 中太の平打ち麺ですね!? 珍しいです!」
「油を纏った多加水麺の、透明感のある美しさよ! ズルズル!」
熱々の麺が唇をするりと通り抜けた。多加水麺にしては、しっかりと噛みごたえがあり、同時に滑らかさは油によって倍化されていた。
「んん!? 麺がおいしい! 幸せを感じる麺です!」
「これは特別な麺だよ。ちゃん系ラーメンの定義の一つとして、達磨製麺の麺を使うことが挙げられるのだ」
そして、チャーシュー。雑多にスライスされた切り立てチャーシューは、丼に必要以上の華やかさを加えていた。
「チャーシュー麺ではないのに、けっこう入っていますね」
「ありがたいねえ」
一口噛み締める。繊維をしっかりと感じる肉質は、滑らかな麺との対比により、脳に大きな刺激を与えた。
「うおっ! これ、米だ! 米がほしい!」
黒乃はめしをがっついた。米の甘みと肉の塩味が、同時に喉を通り抜けた。
「こっちのチャーシューは脂身多めです! 柔らかい!」
メル子はめしにチャーシューを乗せて、めしごとがっついた。どうやらチャーシューは、さまざまな部位が提供されているようだ。
「めしが無料なんて、太っ腹ですね!」
「朝からがっつりとラーメンとめしをいただく。こんなに元気が出ることはないよ」
卓上調味料も豊富だ。コショウ、ニンニク、豆板醤、漬物、きっちりそろっている。黒乃はメル子の丼にニンニクをぶち込んだ。
「ほいよ」
「ぎゃあ! かってに入れないでください!」
メル子はめしにきゅうりの漬物を乗せた。軽くスープをふりかけ、一気にかっこんだ。
「白米と漬物! 日本の朝です!」
黒乃はスープに豆板醤をこれでもかとぶち込んだ。
「くうう! きくー! さっきまでのほんわかとした一杯が激変! 荒々しく働く川崎市民になった気分だ!」
卓上調味料はムチだ。最終コーナーを回り、ゴールへと突き進むためのムチだ。立ったまま麺をすすり、熱々のスープを流し込み、白銀のめしをかっ喰らう。なにかが体の奥底から湧いてくるような感じがした。二人は丼を傾けスープまで完飲することで、ラーメンという名のレースを完走した。
「ふ〜」
「ふわ〜」
黒乃とメル子は、恍惚の表情で丼を置いた。圧倒的な満足感、えも言われぬ幸福感、そして研ぎ澄まされた直感。店を出た時には、二人の体は無敵感に包まれていた。
「いやー、ご主人様。ちゃん系ラーメン、おいしかったですね! 最近生まれた系統というから、意識高い系か、ドカ盛りガッツリ系かと思っていたら、庶民的な親しみやすいラーメンでした」
「ふふふ、そうだね。一周回って、昭和の時代に戻ったかのようなラーメンだったよね。でもけっして古臭くはない、洗練された懐かしさが丼に込められているのを感じたよ」
二人は十二月の寒風にさらされた。しかし、少しも寒くない。これから始まる戦いの準備は整った。
「じゃあ、いこうか」
「はい!」
背中を押すビートルズの音色は、勝利のファンファーレだ。二人は、川崎競馬場に向けて歩き出した。




