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第120話 誰の為でもない、自分の為に



 障壁によってだいぶ減衰していたが、それでもヒロの拳は確実にレーナの左頬に届いた。

 まともに頬を殴られた形になった彼女は、悲鳴すらもあげられず、背後の壁まで叩きつけられる。

 ぐったりと壁から崩れ落ち、へなへなと座り込むレーナ。

 やりすぎたか。一瞬、ヒロはそう危惧したが――



「貴方ね……

 大人にこんなことをして、ただで済むと思っているの!?」



 すぐにギロリと眼を光らせ、真正面のヒロを睨みつけたレーナ。

 青白い肌に乱れた髪が被さり、その奥から覗く眼球は真っ赤に血走っている。

 ヒロの拳は幸か不幸か、物理的にはそこまでのダメージではなかったようだが――

 抵抗してくるはずのない弱者に、ご自慢の障壁を破られ、一方的に殴られた。

 その事実がレーナの狂気を、さらに加速させていく。



「どうしてなの? 貴方もユイカも、どうして抵抗するの?

 貴方もユイカも、ぜんぶ私のものになれば、みんな幸せでしょ?

 そうすればレズンちゃんだって幸せになれる。なのに、どうして邪魔するの!?

 どうしてみんな、私が幸せになるのを邪魔するのよ!??」


 その両目から、血混じりの涙が流れ出す。

 ヒロの眼前にも関わらず髪を振り乱し、子供のように泣き叫ぶレーナ。



 俺に一発殴られた。

 それが、こんなにもショックだったのか――この人にとっては。



 そう思いながらも、ヒロの全身からも不意に力が抜けていく。

 魔妃の力を暴走させたレーナに、一撃を与える。それだけで魂術を使い切ったせいか、身体に纏っていた光がどんどん消失していく。

 同時に手足も弛緩し、意識までが再びぼうっとし始めていた。

 朦朧とした視界の中で、ひたすら座り込んでわぁわぁ泣きじゃくるレーナが見える。



 レズンは、殴らなかったのかな。この人のこと。

 多分、抵抗したことはあったんだろう。だけどこの人にとっては、レズンの抵抗など抵抗のうちに入らなかったのかも知れない。

 そもそも、息子に「抵抗された」と認識すること自体が出来なかったんだろう。レズンがどれだけ暴れたとしても、この人にとっては「術で軽く封じることが出来る、可愛い子供が騒いでいるだけ」だったのかも知れない。

 世界にはどこまでも自分しかいない。世界の全ては自分を幸せにする為の踏み台。自分の息子でさえも――

 強烈にそう思い込んでいるレーナにとっては、他人の、しかも子供からの抵抗で自分がダメージを受けるなど、ありえない出来事だったのだろう。



 でも……

 それが分かったところで、俺ももう、限界だ。

 出来ることは全てやった。レーナと話が出来たし、母さんがどんな風に最期を遂げたかも分かった。

 だけど……レズンを母親の呪縛から解放するのは、到底無理だ。

 そりゃそうだろう。母さんだって出来なかったのに、俺に出来るわけが……



 ヒロを包んでいた光は既にほぼ消失し。

 同時に、その身体は完全に力を失い、いつしか逆さになって落下していた。

 真下に迫るものは勿論、あの治癒の水面。

 どれほどボロボロになっても強制的に回復させられる沼。

 レーナにヘタに抵抗した結果、俺はさらに玩具にされるのか――

 そんな絶望がヒロの胸を満たしていく。だがもう、どうすることも出来ない。



 ――ルウ。

 ごめん。俺、あれだけカッコつけて、結局……



 その瞬間だった。

 天井のどこかが、大地を割るかの如き轟音と共に大爆発を起こしたのは。

 そして、最早聞き慣れたあの甲高い叫び声が聞こえたのは。


「ヒロ様~!!

 ヒロ様、ヒロ様、ヒロさ~ま~ぁああああぁああ!!

 わたくし、やっと、ようやく、たどりつきましたわぁあああぁああああぁああ!!!」




 ******




 わたくしはずっと見ていました。レズンのミラスコごしに、ヒロ様の姿を、ずっと。

 ヒロ様がレーナと正々堂々と対峙し、その想いを真っ正直に拳に変え、魂術と共にヤツに叩きつけた。その、あまりにも神々しく成長したお姿を!!


 会長が突き止めてくださった、ヒロ様とレーナの居場所。

 そこへ、おじいさまの用意した超弩級汎用決戦兵器……もとい、魔鍵解錠装置でワープを試み、ようやくわたくしはヒロ様のところへ到着いたしました!

 勿論、魔妃レーナの手による強固な結界が張り巡らされておりましたが、わたくしの触手により物理で何とかいたしました。

 わずかな間に同じことを2回ぐらいやってる気がしますが、これもヒロ様の為。

 そして2度目ともなれば、わたくしもそう簡単に触手に戻りはしません。人間の美少女姿を保ちながら、見事ヒロ様の元に飛び込めました! 


 ただ、結界をぶち破る為、手足だけは触手にする必要はありました。

 そして結界の魔力と解錠装置のパワーが拮抗しまくった結果、双方が大爆発を起こし、わたくしの制服までボロボロに煤けてしまいました。

 勿論身体自体は全然平気ですけども、制服はほぼ原形を保っていません。下半身は触手のままなのでスカートは元から履いてないからいいですが、上着も肘のあたりまでが爆風で破け、さらにセーラー襟も破れてしまい胸元が……


 って、そんなことを言っている場合ではありません!

 とにかく、ヒロ様を救出しなければ。その一心でわたくしは炎上する結界から飛び出しました。

 その場所はまさしく、魔妃の巣窟のド真ん中。レズンのミラスコごしに見せつけられたあの地獄の光景が、わたくしのすぐ眼下に広がりました。

 触手族の王族たちが集う懐かしのダンスホールにも似た、天井のやたら高い空間。

 しかし床には一面に水が張り巡らされ、ろくに底が見えません。しかも周囲には蛍光緑や紫といった、毒々しい色の木やら根やらが森のように生い茂っております。

 この植物の色、わたくしたち魔族にとってはリラックスできるのですが、人間のヒロ様にとっては見た目だけでも気持ち悪かったことでしょう。


 そんな奇妙な部屋の中心から伸びる、白銀の装飾が施された階段。

 その先に――ヒロ様と、レーナはいました。

 魂術の美しいエメラルドの光に包まれ、奇跡的に呪縛を解き。

 渾身の拳で魔妃をぶん殴った、勇者様が。



 ヒロ様がレーナに語りかけた時の声――

 冷静さを保ちながらも尋常ならざる怒りをこめたあの声は、わたくしの身さえ一瞬凍り付くかというほどの威迫でした。

 それを前にしたレーナは、完全に子供。


 ――貴方は子供なんだから、私の邪魔をしないで。


 そう言い放ったレーナこそ、わがまま放題だったところを初めて大人に怒られ、苛立っている幼児そのもの。

 しかしヤツから放たれる衝撃波の威力はさすが魔妃というエグさで、ようやくたどりついたわたくしまでが押し戻されかけるほどでした。

 ですがそれでも、ヒロ様は攻撃に耐えながら、叫んだのです。


 ――俺にだって、幸せになる権利ぐらいある。


 それはまさしく、ここまで耐えに耐えたヒロ様の、魂の絶叫。

 レーナからの攻撃だけではありません。親友だと思っていたレズンからずっと長い間痛めつけられた苦悩、怒り、悲しみ、屈辱、恥辱、トラウマ。

 壮絶な忍耐の果てに痛みの全てを叩きつけた拳は、魔妃の障壁すらも打ち破り、見事その顔面を砕いた。

 レズンにあれだけのことをされてもヤツを信じ続け、どれほど傷つけられようと滅多に誰かを攻撃しようとしなかったヒロ様。

 そんな彼が、真正面から魔妃を打ち据えた。しかも他者の為ではなく、「自分の為に」。

 これは――ヒロ様の中で、革命的な何かが起こった証と言えましょう。



 それだけでヒロ様は全ての力を使い切ってしまったのか。

 魂が抜けたかのように、ふうっと下の水面に真っ逆さまに落ちていくヒロ様……

 当然わたくしは飛び込みました。この世で最も尊く健気な勇者様を抱きしめるべく。

 そばで魔妃を名乗るゲスババァが泣きわめいていた気もしますが、関係ありません。

 わたくしは触手の全てを最高限度まで伸ばし切り、水面に落ちる寸前でどうにかヒロ様を救い上げることに成功!

 あぁ。この世の何より愛おしいヒロ様を、この触手に!!



「ヒロ様!!

 ヒロ様、ヒロ様、ヒロ様あああぁあああぁああ~~~!!!」



 自分でも大層やかましいと思いますが、仕方ありません。

 わたくしは遂に、こんな可愛らしいお姿のヒロ様を、全触手を使って抱きしめられたのですから!!

 時間にすればほんの半日程度。しかしわたくしにしてみれば数か月、いえ数年にも感じられるヒロ様との別離。

 その身体は想像以上に傷だらけのボロボロでした。

 魂術によりある程度回復したとはいえ、バケモノ蜘蛛に散々痛めつけられた傷は完全には塞がらず、今もあちこちから出血が続いています。

 何よりわたくしの視線を奪ったのは勿論、ボロボロにされまくった執事服。

 可愛らしかった燕尾服は跡形もなく食いちぎられ、残っていたのはセーラー襟の部分とブラウスのみ。ズボンも両膝のあたりまで引き裂かれ、右脚ときたら太ももまで露出しております。


 それでも――ヒロ様はわたくしに抱き留められた瞬間、ほんの少し目を開いてくださいました。

 ただでさえ美しい、大きなエメラルドの瞳。しかし今は何故かその瞳孔付近に、神々しい炎のような光が揺れていました。




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