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竜珠の花嫁  作者: 理子
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何もないところから、ふわりと風が起こり、ブルーノに向かって空気が集まりだしていく。

その空気はどんどんと圧を増していき、ブルーノ以外は立っていられなくなって床に倒れこんだ。

ブルーノが一歩、イリーナの方へ歩みを進めると、床がミシミシと音を立ててへこんでいく。

空気の圧は徐々に大きくなっていき、床だけでなく、天井もメリメリと音をたてながらヒビを作っていく。


イリーナはブルーノが少しずつ近づいてくるのを見て、恐怖で体が凍り付いた。

そして息苦しいと思った次の瞬間、大きな爆発音とともに執務室の窓ガラスが勢いよく割れて灯りが消える。

球体の圧力に部屋が耐えられずに崩壊したのだった。

慌ててガラスの破片から身をかばおうとするが、空気を吸おうにも酸素がなくなり呼吸が出来なくなってパニックに陥る。

床にうつ伏せになって全身を縫い留められたような姿勢になり、苦しくてもがきながら目線だけを上に向けると、その先にいるブルーノが無表情のままイリーナを見下ろしていた。


ブルーノの目は竜のそれになり、金色に光っている。髪は背後からの月光に照らされて真っ白になっていた。

セドラークは、と視線を泳がせると、今の衝撃で執務室のドア付近まで飛ばされ、身動き一つしない。おそらく気を失っているのだろう。

ようやくテラスからゆったりとした風が部屋の中に入って来た。

それと同時に酸素が行き渡り、何度か咽せながらもようやく呼吸ができたことに心の底から安堵する。

いつの間にか空気の圧もなくなり、イリーナはゆっくりと体を起こしながら、いつでも逃げられるように身構えようとした。


「イリーナ。今まで目をつぶってきたが、お前も同罪だ」


頭上からの冷ややかな声音に、イリーナは体を起こしても恐怖で顔をあげられなかった。

ボコボコになった床にブルーノの影が伸びている。今日は満月で月のあかりが室内まで届く。

床に伸びた影の、腕の部分が徐々に形を変えていくのを見て、思考が停止した。

無意識のうちに少しだけ目線を上げると、ブルーノの左腕に白い鱗が生え始め、どんどんと太くなっていき指先は鋭利な爪が伸びていく。

ツェベレシカ王国の王族がみんな化け物だったなんて。

なんなの? あの腕と指よりも長くて大きな爪は…。

私はあの爪で殺されてしまうの?

イリーナは震えながらも座ったまま後退しようとするが、ドレスが足にもつれているのか思うように動けない。


ブルーノがゆっくりと近づいていき、手を振りかざそうとした瞬間、ぎゅっと目を瞑る。


……?


身構えていた痛みなどは全く感じられなかった。

ゆっくりと瞼を開き、おずおずと顔を上げる。


フードを被った誰かが自分とブルーノの間に割り込んでいるのが見える。

ブルーノの竜化した腕を掴みながら肩越しにイリーナを振り返る。


「…いけ!」


ものすごいしわがれただみ声だったけれど、それがヴァレリーだということはわかった。

イリーナは腰を抜かしたまま動けない。

遅れてやってきた睡蓮はイリーナの腕を無言のまま掴み、なかば引きずるような形で執務室の外へと連れ出した。

執務室の外の廊下には爆発音ですぐさまやってきた護衛騎士たちが集まってきていたが、中に入るのを躊躇している様子だったのでイリーナとセドラークの保護を頼むとすぐに二人を連れていった。

睡蓮は執務室へ振り返ると、いまだ倒れて動かないでいるニコルが気がかりだった。


「はなせ」


冷静な声でブルーノがヴァレリーに詰め寄るが、ヴァレリーも一歩も引かなかった。


『頭を冷やせ。今度はお前が教会に行く羽目になる』

「あいつらのせいでニコルが毒を飲んだんだ。なあ、ニコル……」


ブルーノが振り返ると、ニコルは倒れたまま動かない。


「ニコル……!」


我に返ったブルーノの腕が元に戻り、ヴァレリーの掴む手を振り払ってニコルに駆け寄ってそっと抱き起こす。

ニコルは目を瞑ったまま、動かない。


「ニコル! おい! 目を開けてくれ!」


ニコルの首に手を添えて脈を測ると、脈がものすごく弱くなっていた。


「だめだ、ニコル。まだだめだ、行ったらだめだだめだ」


ブルーノは彼女の頬をさすりながら、ニコルに何度も声をかける。


「……ボス……」


ニコルはブルーノの気配を間近に感じつつ、まぶたを閉じたまま呟く。


「あっ…ああ! なんだ? どこか苦しいところはないか?」

「……ものすごく、眠い」


ものすごい眠気はさっきの薬が効いてきたのかもしれない、とニコルは思った。

竜珠の花嫁になれるだなんて眉唾なもの。結局、単なる毒薬の一種だったのかもしれない。眠気が来るだけで苦しさが一切ないのが救いだ。

ボスが私の体を揺さぶっているけれど、耳も遠くなっているようで何を言っているのかあまり聞こえない。

彼がこんなに慌てているのは、私が子供の時に流行り病に罹った時以来のような気がする。

こんなにも感情が振り切れるほど大切に想ってくれていただなんて、全然知らなかった。

そんな風に想われているってわかってたら、あの薬を飲まなければよかったかもしれない。

ボスに特別大事にしてもらえてることを一生の思い出として、別の人と結婚していたかもしれないのに。


ううん。そうじゃない。

本当はずっと、祖母が羨ましかった。

小さな頃からボスのことが大好きで仕方なくて、嫌がられてもしつこく後をついていっていた。

母や周りの大人たちからは、距離を置いた付き合いをした方がいいと諌められたことは何度もあった。

それでもやっぱり諦めきれなくて婚期も逃したし、最後にこんな困らせるようなことをしてしまった。

私がボスの竜珠の花嫁だったら、絶対に寂しい思いをさせないのにな。

ごめんね、ボス。


**************


ニコルが呼びかけに反応しなくなり、腕もだらりと床に伸びる。


「……ニコル?」


呼吸を確認するために口元に顔を寄せると、かすかな薬の匂いがブルーノの遠い記憶を呼び覚ました。

ここのところ平和すぎて、この匂いをずっと忘れていた。

これは昔、”彼女”に飲ませた自分の血と同じ匂いだ。


ニコルがそれを飲んでしまったことを悟り、愕然とする。

先祖返りをしたブルーノの血は猛毒だった。

疫病で先の見通しがないと言われた”彼女”に、せめて最後は苦しまないようにと自分の血を飲ませて旅立たせた。

この体に流れている血は、生きているものを苦しまずに逝けるよう、すべての感覚を麻痺させるものだった。


「今、ツェベレシカにいる竜の血を引く男はヴァレリーとオリバー以外に誰がいる」

『……把握しきれていないが、俺たちほど血の濃い人間はツェベレシカにはいないはずだ』

「……人間ならな」

『どういう意味だ?』


ブルーノはニコルを抱き上げて立ち上がる。体に力が入っていないため、首はだらりと下がっていてその姿に睡蓮は口元に手をやって言葉を失っていた。


「……間違いない。王都に始祖がいる」

『……始祖?』

「ツェベレシカ王国が出来た時に存在していた、本物の竜だ。そいつを見つけ出して解毒剤を作らせる」


ブルーノの怒りが再燃しはじめ、空気が振動し始めた時、テラスの方に人影が現れた。


「ちょっとみんな、一旦落ち着こうか」


突然声がかかり、ブルーノとヴァレリーが身構える。

そこにはいつの間にか、フードを深くかぶった男が一人立っていた。

体格はすらりとしていて細身。身長は睡蓮より少し高いぐらいだった。

男の持つ気配に押されて、ブルーノとヴァレリーが動けなくなっている。


「まずブルーノ。そこの彼女は無事だ。お前の部屋に連れていけ。後で説明してやる」


つかつかと室内に入って来て、フードを下ろすと赤い髪に赤い瞳が印象的で中性的な顔立ちの男の顔が現れた。

男はヴァレリーと睡蓮を交互に見やり、一人で納得したようにうなずいていた。


「ああ……やっぱりブルーノの方を先に説明してからにしようか。お嬢さん、今後一切ヴァレリーの血を摂取しないように。じゃないと取り返しのつかないことになるから」

「……え?」


男はそれだけ言うと、ブルーノと一緒に部屋を出ていった。

部屋に残された二人は意味がわからずに困惑するしかなかった。


**************


ブルーノは自室へ入るとすぐさま自分のベッドにニコルを横たわらせ、ベッドの端に腰を掛けた。


「始祖。解毒剤を早く」

「その始祖ってのやめてくんないかな。俺、ルフスって名前があんの」

「……わかった。ルフス。早く解毒剤を処方してくれないか」

「この子が薬を飲んだのはいつ頃?」

「飲んで15分もしていないぐらいだと思う」


ブルーノの答えに、思案顔でふぅん……と相槌を打つ。


「薬を飲む前にお前の体液を摂取したことは?」


体液…と聞いて、いきなりキスされたことを思い出すが、黙ったままでいるとルフスはニヤニヤと笑った。


「ふーん? ……どうやって摂取したのかまでは聞かないよ」

「だから…っ! 解毒剤を!」


なかなか動かないルフスにブルーノがしびれを切らして声を荒げるが、ルフスはどこ吹く風といった風情で受け流す。


「いいから落ち着けっての。俺の血はさ、自覚を促す薬でもあるんだよ」

「……は?」

「二人とも自覚しろってこと。お前は彼女を、彼女はお前を唯一無二の存在として認めるってことをさ」


何の因果か宰相が婉曲な表現でその薬を欲しがったために処方してみたが、うまい具合にお目当ての彼女に行きついてよかったとルフスは笑った。

一歩間違えれば誰かが亡くなってしまったかもしれないのに、あくまでも楽観的なルフスの言葉に呆然となる。


そんなことよりも。


ブルーノはルフスの言葉に愕然とした。

ニコルが、唯一無二の存在……?

彼女が、自分の竜珠の花嫁?


「……そんな。俺は昔、竜珠の花嫁を自分の手で……」

「あー、それな。ブルーノ。お前まだ竜珠を持ってるだろ?」


ルフスは確信めいた言葉でたずねてきた。

ブルーノが昔、彼女を見つけたとき、彼女には既に夫がいたため、自分の竜珠を取り出して渡すということはせずにいた。


「ヴァレリーを見ろよ。勘違いもいいところだが有無を言わさず母親の方に無理やり渡しただろ? 俺たちはお目当てに伴侶がいようがいまいがお構いなしに、自分の命を一方的に捧げるもんなんだ。お前が今まで気づかなかったのは、彼女自身がずっと自分は竜珠の花嫁じゃないと思い込んでいたからだ。彼女の自己暗示の力が強すぎて、本来なら察することができる竜珠の気配が欠けてたんだ」

「……だけどニコルは現に今……」

「彼女は今、深い眠りについてるだけで、3日も待てば目が覚めるさ。起きた時には彼女から竜珠の気配も感じられるだろうよ」


年甲斐もなく泣きそうになり、顔を俯かせるとルフスはブルーノの頭をぽんとたたいた。


「最長3日。早ければ明日にでも目が覚めるさ。それまでにお前の気持ちの整理をつけておくんだな」


ルフスはそう言って、次はあのお嬢さんだ、と独り言ちて部屋を出ていった。

部屋に残ったブルーノは、ゆっくりと手を伸ばしてニコルの頬を撫でた。

深い眠りについているだけだと聞いて、安堵のため息をつく。


小さい頃から何をするときにも自分の後をついてきて、大人になってからはずっと一緒に仕事をして。

娘や孫みたいなものだと思っていたのに、いつの間にか隣に並んでも変わりないぐらいに大人の女性になっていたっていうのに。

そして、彼女が薬を飲んでしまった時、言葉にできないほど自分の感情が乱れたことに、自分が思っていた以上にニコルのことを大事に思っていたのだと自覚する。


「……気づけなくてごめんな。ニコル……」

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