無くした切符
「無くした切符」
腕時計を確認する。約束の時間にはあと時計の長針が一周する余裕があった。今日という日に備えて昨晩は十時にはベッドに潜り込んでいた。夜更かしの出来る金曜日の夜、それは社会人にとって所謂花の金曜日と呼ばれる一日の終わりであったはずなのに、だ。だからこそ志木祐司の足がいま向かっている先にあるのが残務処理を待つ勤め先のデスクの前だったなら、休日出勤という憂鬱さもプラスされて、鉛を埋め込まれたかのように重たいはずだ。今朝クリーニング袋から取り出したシャツが風に揺れるたびに独特の消毒液の匂いを漂わせる。そろそろだろうな、志木の思考に合わせたかのように振動を始めた携帯電話を取り出し、耳に当てる。聞きなれた、それでいて愛おしい声。
「ちゃんと起きてる?」
待ち合わせ場所は志木が住む永福町から電車で二十分先にある、代々木公園時計下。遅刻癖の抜けない志木のために、簡易目ざまし時計がデートの日になるのはいつも、待ち合わせの一時間前だった。
「おはよう、ナミ」
意外そうに息を飲み込む気配のあとに、恋人は言葉を返した。
「あれ、起きていたんだ?珍しいね」
代々木公園の緑が見えてくる手前、志木は街に備え付けられた喫煙所で肩にかけていた荷物を下すと取りだした煙草に火をつけた。
「今日くらいはちゃんと、起きるよ」
「なにそれ、いつも待たせている人のくせに生意気」
不機嫌の中に上機嫌を器用に浮かべた恋人の声に、志木は一人ほほ笑む。空に溶けていく煙草の煙が、乳白色から透明に化けていく。
「で、すこし早く着いたからってそんなとこで油売っているの?」
突然に二重に聞こえた声に志木が振り向くと、携帯を耳にあてたまま悪戯っこの笑みを浮かべた間ケ部ナミが秋の木漏れ日のした、静かに立っていた。
夏の日差しが苦手な間ケ部にとのデートは、その間ずっと屋内だった。だからだろう、日差しの下を、目を細めながら歩く間ケ部は志木の目に懐かしい。
「なによ、人のことジロジロ見て」
頬を撫ぜていく秋の風は春先のそれと違い、暖かいだけではない。しかしそれでも、東京の真ん中に出来上がった人工的な森が作り出す木々の紅葉の薫りを運んでくる。
「その服、よく似合っている」
途端に口をあけたまま固まっている間ケ部は、繋がっている左手に力を込めると足を速めた。
「そんなこといったって、トマトは食べなきゃだめだからね」
今日のこの公園でのピクニックを言い出したのは間ケ部だった。お互いに社会人で金銭的な余裕もある二人が、たまの平日に出かける先が自宅から目と鼻の先の公園、そしてそこでピクニック。その発案を聞いた時、志木は心がくすぐられていた。
「ということは、本当にお弁当作ってきてくれたんだ」
木々の間を抜けてくる陽光が優しい光のアーチをいくつも作り出す秋の歩道で、今度は志木が右手に力を込めていた。
「どうかなあ」
志木の顔を覗き込むように笑った間ケ部は、志木の肩にかけられたショルダーバックに視線を落とした。そして、志木が守りたいと思う笑顔を浮かべる。
「祐司が約束守ってくれていたなら教えてあげる」
昼過ぎの代々木公園には老若男女、絶えず多くの人間が行き来しているようだった。その人波にまぎれるように、百円で購入したシートの上で志木は感嘆の声を上げていた。
「こりゃすごい」
間ケ部が持っていた籠のバックから出てきたのは色とりどりのお弁当たちだった。そのどれもが一つ一つ、可愛らしいナプキンと保冷剤で包まれていた。
「子供みたいにはしゃがないでよ、恥ずかしい」
「だってさ」
興奮冷め切らない志木に、間ケ部が差しだしたのは卵とハムのサンドイッチだった。
「これ、祐司が好きだって言っていたから」
この女性のこういった正直な愛情が好きなのだ、思わず足を正してそれを受け取った志木に間ケ部は大声で笑った。
「ほら、いいから食べてよ」
涙を浮かべながら言葉を区切った間ケ部は急に真面目な視線で志木を見つめる。分かっているさ。
「いただきます」
それを口に含んだ志木は、たとえそれが美味しくなくても掛ける予定であった言葉を忘れるほどに、今日二度目の感嘆の声を上げていた。
「うまっ」
日々の喧騒に埋もれていた、こそばゆい子ども時代の心に刻まれた過去の想い出達、久しぶりに顔を覗かせた懐かしい感情と秋の空に、頬を緩ませた志木は最愛の女性に「ありがとう」と呟いていた。
「今度は祐司の番だからね」
そういった間ケ部は楽しそうに志木のショルダーバックを指差した。そこに入っているのは一年記念日を祝うためのサプライズプレゼント、といってももうバレテいるのだからサプライズでもないのだが。
「約束は守るよ、だって今日はナミの誕生日でもあるんだしな」
ショルダーのチャックをあけた志木はサプライズのそれを取りだすと間ケ部の前に置いた。その時だった。そのプレゼントと一緒に、一枚の切符がビニールシートの上に落ちた。
「あ、それこの前無くしたっていっていた切符じゃないの?」
まったく切符の管理もできないなんて、そんな小言を呟きながらプレゼントよりも切符に手を伸ばした間ケ部は、ほほ笑みながら言葉をつなげる。
「電車に乗るたびに切符を私に預けるなんて、体は大きくてもそういうところは子供だよね、本当」
「まあ、それも愛嬌だろ」
しかし、くだけた志木の言葉に帰ってきたのは間ケ部の震えた声だった。
「なんで、持っているの」
小刻みに震えた指先に握られた切符を受け取った志木は、その切符に刻印された日付をみて、間ケ部の震えの意味をはっきりと理解した。




