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第十二話 推しと本当に結婚しました

結婚式は、王城に併設された大聖堂で執り行われた。


高い天井を支える白い石柱のあいだから、

色硝子を通した春の光が柔らかく差し込んでいる。


長い通路の両側には、王族や国内の高位貴族、

近隣国から招かれた来賓たちが並んでいた。


その視線の先、祭壇の前にアレンダートが立っている。

父の腕に手を添えて大聖堂へ足を踏み入れたマリアンネは、小さく息を呑んだ。


遠くからでも分かる、白と金の婚礼衣装と深紅の髪。

近づくにつれ、

その姿は前世で何度も眺めた設定資料集の結婚スチルへ重なっていく。


けれど、決定的に違うことが一つあった。

あの絵の中で彼の隣にいたのは、セラフィーヌだった。


今日は違う。

彼が待っているのは、自分だ。


「……大丈夫か?」


隣を歩く父に小声で尋ねられ、マリアンネは一度深く息を吸った。


「はい。大丈夫です」


今のところは。


朝、婚礼衣装姿を見た瞬間には本気で眼福死するかと思ったが、

セラフィーヌにも処理落ちしないようにと言われたばかりだ。

王太子妃になる者として、せめて式くらいはきちんと務めなければ。


ゆっくり祭壇へ向かうあいだも、視線は自然とアレンダートへ引き寄せられた。

昔なら、遠くから姿を見られるだけで一日幸せだった。

それが今、自分から彼のところまで歩いている。


やがて父の腕から手を離し、差し出されたアレンダートの手へ重ねると、

彼はほんの少し指先に力を込めた。


「綺麗だよ。マリアンネ」

「……今言わないでください。めちゃくちゃ緊張してるんです」

「知ってる。でも、言いたかったから」


小声で交わされるやり取りは、こんなときまでいつもどおりだった。

けれど、その声を聞いたおかげで、張り詰めていた肩から少しだけ力が抜けた。

式は厳かな祈りと祝福の言葉の中で進み、やがて聖職者が二人へ向き直った。


「アレンダート・イシュメリア。汝、マリアンネ・スターフェルトを妻とし、

これを愛し、支え、生涯をともに歩むことを誓いますか」

「誓います」


迷いのない声だった。

分かっていたことなのに、その即答を聞いただけで胸の奥が熱くなる。

続いて、聖職者の視線がマリアンネへ向いた。


「マリアンネ・スターフェルト。汝、アレンダート・イシュメリアを夫とし、

これを愛し、支え、生涯をともに歩むことを誓いますか」


夫。

その言葉が、今までとは違う重みを持って胸へ落ちてきた。

今日からこの人は、推しであり、王太子であるだけでなく、自分の夫になる。


マリアンネは一瞬、アレンダートを見上げた。

紫紺の瞳が穏やかにこちらを見ている。


「……誓います」


声は、思っていたよりきちんと出た。

アレンダートの口元が嬉しそうに緩み、マリアンネも自然と笑みを返す。

大丈夫。ちゃんとできている。


セラフィーヌ様、見てますか。私、処理落ちしてませんよ。

むしろ、かなり立派にやれてます。

そんな妙な自信まで湧いてきたところで、指輪が運ばれてきた。


「それでは、誓いの証を」


銀の盆に載せられた二つの指輪を見た途端、心臓がまた少し速くなった。

まず、アレンダートが指輪を取る。


「左手、出して」

「……はい」


差し出した手を彼がそっと支え、薬指へゆっくりと指輪を通した。

ぴたりと根元に収まったそれを見て、固まりそうになる。


結婚指輪を、自分の指に、アレン様が。

いや、待って。これはまだ耐えられる。

問題は次だ。


「マリアンネ」


呼ばれて頷き、銀の盆からもう一つの指輪を取る。

差し出された彼の左手へ触れたところで、また動きが止まった。


綺麗。

やっぱり、綺麗すぎる。


以前、生徒会室で思わず「殿下の手、綺麗ですね」と言ったことを思い出した。

あのときは、これなら分かりやすいだろうと言われて手を重ねられ、

それだけで死ぬほど騒いだ。

その手を今は自分が支え、薬指へ、自分との結婚指輪を嵌めようとしている。


「……マリアンネ?」


小声で呼ばれ、慌てて顔を上げた。


「少し待ってください。今、その綺麗な指に、

私が結婚指輪を嵌めるんだなって思ったら……」

「また処理落ちしそう?」


「まだ大丈夫です。がんばります」

「そうか、頑張って」


囁き返しながら、どうにか指輪を通した。

それがぴたりと収まった瞬間、胸の奥に何とも言えない感覚が広がる。

自分の指にも、彼の指にも、同じ意味を持つものがある。

アレンダートは指輪へ目を落とし、それからマリアンネだけに聞こえる声で呟いた。


「マリアンネとお揃い、嬉しい」


その一言に、何も返せなくなった。

それでも、指輪交換まで終わった。誓いもきちんと言えた。

もう大丈夫。ここまで問題なく進んでいる。

そう思った直後だった。


「それでは、お二人で誓いの口づけを」


思考が止まった。


誓いの口づけ。

つまり、キス。

しかも、口に?


「……マリアンネ? 大丈夫か?」


目の前から小声で呼ばれる。


「……聞いてません」

「何を?」

「キスするなんて、聞いてません……!」


アレンダートが一瞬、本気で不思議そうな顔をした。


「結婚式だからするだろ? 式の流れも確認したよな?」

「しました……!」


「じゃあ、聞いてるじゃないか」

「知識として聞くのと、今から本当にするのは違うんです……!」


必死に声を抑えているので、

傍目には緊張する花嫁へ新郎が優しく語りかけているように見えるだろう。

実態は大混乱だった。


「……無理です」

「嫌?」

「嫌じゃないです」


そこだけは即答した。

アレンダートは少し笑い、それ以上距離を詰めずに待ってくれた。


「じゃあ、落ち着いてからしような」


優しい。こういうところは、本当にずるい。

嫌だと言えば止まり、自分が頷くまで待ってくれる。

だから、逃げたいわけではないのだ。


ただ、心臓が壊れそうなだけで。

マリアンネは深く息を吸った。

熱くなった顔はどうしようもなかったが、それでも小さく頷く。


「……大丈夫です」


アレンダートの顔が、ゆっくり近づいた。

紫紺の瞳が近くなる。

息が触れそうになり、やっぱり無理だと思った。


それでも、逃げなかった。

目を閉じると、唇が重なった。

ほんの短い、優しい口づけだった。


それだけなのに、頭の中では何かが盛大に弾けた。

唇が離れても、すぐには何も考えられない。


「……マリアンネ?」

「無理です……推しとキスしました……」


「もう、夫だな」

「今、そこ訂正しないでください……」


その瞬間、大聖堂いっぱいに拍手が響いた。


祝福の声が降り注ぐ。

大勢の中から一人一人の顔までは追えなくても、

家族も、セラフィーヌも、ケヴィンもいる。


全員がこちらを見ているのだろう。

けれど、マリアンネはそれどころではなかった。


今、アレン様とキスした。

初めて、唇に。


「顔、真っ赤だな」

「見ないでください……」


「無理。可愛いから」

「今それ言わないでください……」


式は終わった。

このあとは二人で大聖堂の外へ出て、集まった人々の祝福を受ける。

当然、自分の足で歩かなければならない。

そう分かっているのに、どうにも膝に力が入らなかった。


「……アレン様。腰が抜けそうです……」


アレンダートは一瞬だけ考えた。


「じゃあ、こうしようか」

「え?」


背中と膝裏へ腕が回り、ふわりと身体が浮く。

気づけば、完全に彼の腕の中へ収まっていた。


「ええええええ!?」

「ほら。これなら歩かなくていいだろ」


「そういう問題じゃありませんー!」

「落とさないから大丈夫」

「心配してるの、そこじゃないです!」


アレンダートは何事もなかったように、花嫁を抱いたまま歩き始めた。


「待ってください! みんな見てます!」

「俺たちの結婚式なんだから見るだろ」


「お姫様抱っこまでされるとは思ってませんでした!」

「でも、歩けないんだろ?」


「今、降ろされても多分もう歩けません!」

「じゃあ、ちょうどいいな」

「よくないですー!」


そうこうしているうちに大扉が開き、明るい春の光が差し込んだ。

その向こうで待っていた人々から、一斉に歓声が上がる。


花びらが舞い、拍手と祝福の言葉が降り注いだ。

ただでさえ王太子夫妻の結婚式なのに、

新郎が花嫁を抱き上げたまま現れたのだから、歓声が大きくなるのも当然だ。


外から見れば、これ以上ないほど仲睦まじい新婚夫婦だろう。


実際には、初キスで完全に処理落ちした花嫁を、

新郎が物理的に運搬しているのだが。

耐えきれず、マリアンネはアレンダートの胸元へ顔を埋めた。


「もう無理です……」

「何が?」


「指輪を嵌めて、初キスして、夫になって、抱っこされて、

この人数に祝福されて……情報量が多すぎます……!」


「そのうち慣れる慣れる」

「今日中には無理ですー!」

「今日は、まだまだ長いけど?」


マリアンネは、ゆっくり顔を上げた。


「その言い方やめてください。

このあとまで考えたら、本当に意識が飛びそうです……」


アレンダートはからかうのをやめ、柔らかく笑った。


「じゃあ、今は考えなくていいよ。まずは祝福されようか」

「……はい」


花びらの向こうから、温かな声が届く。


花びらと人波の向こうに、家族も友人たちも、

遠い国から来てくれたセラフィーヌたちも、きっと笑ってくれている。

アレンダートの腕は、変わらずしっかりと自分を抱いていた。


遠くから眺めているだけでいいと思っていた人と、今日、本当に結婚した。

そう思うだけで、マリアンネの胸はまたいっぱいになった。


◇


披露の宴まで終わる頃には、マリアンネはすっかり疲れ果てていた。


朝から花嫁支度をして、大聖堂で式を挙げ、初めて唇に口づけられて処理落ちし、

そのままお姫様抱っこで大勢の祝福を受けた。


宴でも、王族や高位貴族、外国からの来賓、

友人や家族から、途切れることなく祝いの言葉をかけられた。

何度「おめでとうございます」と言われたか、もう数える気にもならない。


その中で、セラフィーヌはマリアンネの顔を見るなり、楽しそうに笑った。


「やっぱり最後まで立っていられなかったわね」

「あれは不可抗力ですよー!」


「口づけ前からパニックになってたものね」

「見ないでください!」


「参列者席なのに見ないわけにはいかないでしょう?」

「そうでしたー!」


アレンダートは終始そばにいて、疲れればさりげなく休憩へ連れ出してくれた。

それでも、今日一日で受け取った情報量は、間違いなく人生最多だった。


「お疲れになりましたよね」

「はい……」


ようやく宴を終えたマリアンネは、王太子夫妻の私室へ案内され、

奥の寝室で侍女たちに身支度を整えられていた。


重かった髪飾りが外され、結い上げられていた髪が丁寧に梳かれていく。

婚礼用のドレスを脱ぎ、湯浴みを済ませ、用意された夜着へ袖を通した。


そこで、少し違和感を覚えた。

いつもの寝間着とは明らかに違う。


肌触りのいい上質な布で、首元は詰まりすぎず、

かといって露出が多いわけでもない。

それなのに、妙に柔らかく、女性らしく見えた。


「……これ、王太子妃用ですか?」

「もちろんでございます。本日のためにご用意しました」


侍女がにこりと笑う。

本日のため、とは。

意味を考えているうちに、侍女たちは支度を終えて一礼した。


「それでは、私どもは失礼いたします。何かございましたら、お呼びくださいませ」

「あ、はい」


「おやすみなさいませ、妃殿下」

「お、おやすみなさい……」


最後の一人が出て、扉が閉まった。

静かになった寝室に、一人取り残される。

立派な天蓋付きのベッドに、柔らかな灯り、ほのかな花の香り。


この部屋は、今日から自分とアレンダートの寝室だ。

マリアンネはゆっくりベッドを見て、次に自分の夜着を見下ろし、

それから扉へ目を向けた。


「……待って」


今日、結婚した。

アレン様と夫婦になった。

そして今は夜で、ここは夫婦の寝室。侍女たちは全員いなくなった。

ものすごく大事なことに、今さら気づいた。


「もしかして、これから……初夜?」


口に出した瞬間、顔が一気に熱くなった。


「ええええええ!?」


今さらである。


「そうですよね!? 結婚したんだから、そうなりますよね!?

なんで私、そこを考えてなかったんですか!?」


誰に尋ねているのか分からない。

考える暇がなかったのだ。


結婚式の日程を知らされたのは、わずか二週間前。

その日々は衣装合わせや式の確認、王妃教育であっという間に過ぎた。


前日は、本当に明日結婚するのかと騒ぎ、

今日は婚礼衣装姿のアレンダートに眼福死しかけた。


指輪交換、初キス、お姫様抱っこ、披露宴。

そこまでで容量を使い切り、その先を具体的に考えていなかったのである。


「む、無理……」


両手で顔を覆う。

相手はアレン様。前世からの最推しで、今日初めて唇にキスをした人だ。

それだけで腰が抜けそうになり、抱き上げて運ばれたのに、その先まで……!?


「無理ですー……!」


反射的にベッドの端へ座り込んだ。


逃げる?

どこへ?

今日からここが、自分の部屋でもある。


そもそも、恥ずかしすぎるだけで、嫌なわけではなかった。

アレン様が好きで、結婚できて嬉しい。

触れられることも嫌ではなく、むしろ嬉しい。

そこが一番困る。


「感情が追いつかないだけなんです……」


小さく呻いて頭を抱えたとき、扉が開いた。


「マリアンネ?」


身体が跳ねた。


振り向くと、アレンダートが立っていた。

もう婚礼衣装ではない。湯浴みを終えたらしく、深紅の髪は少し湿っていて、

身につけているのも軽い部屋着だった。


昼間よりずっと気を抜いた姿が目に入り、また思考が止まる。

彼は扉を閉め、こちらの様子を確かめた。


「顔、真っ赤だけど大丈夫? 具合悪い?」

「大丈夫です。具合は悪くないです」


「じゃあ、どうした?」

「……今、気づいたんです」


「何に?」

「……初夜だって」


アレンダートが一瞬黙った。

それから、少し笑う。


「今気づいたのか? 結婚式の前から分かってなかった?」

「概念としては分かってました! 具体的には何も考えてなかったんです!」


ついに声を出して笑われた。


「笑わないでください!」

「ごめん。ちょっと面白くて」


「私は今、心の準備で大変なんです! ただでさえ、今日初めてキスして、

それだけで腰が抜けそうになったんですよ!?」


「うん。真っ赤になってたもんな。可愛かった」

「だから、追い打ちかけないでくださいー!」


また笑ったものの、アレンダートは一気に近づいてくることはなかった。

ベッドから少し離れたところで足を止め、穏やかに尋ねる。


「マリアンネ。怖いか?」


マリアンネは少し考えた。


「……怖いというより、恥ずかしいです。

あと、情報量が多すぎて頭がパンクしそうです」


「今日ずっと情報量多いって言ってるな」

「だって、多すぎるんです!」


彼の表情が柔らかくなった。


「じゃあ、まずは話そう。別に急がなくていいよ」

「……アレン様」


「今日結婚したからって、

マリアンネの気持ちが追いつく前に何かするつもりはない。嫌なことはしない」


そうだった。

彼は、何でも自分のしたいように進めているように見えて、

こちらがどう感じているのかは確かめてくれる。

マリアンネも、嫌なら嫌だと言えるようになっていた。


アレンダートがゆっくり近づき、隣へ座る。

肩が触れそうで、触れない距離だった。


「マリアンネのペースで、ゆっくりでいいよ」

「……はい」

「でも、今日は一緒にここで過ごしてくれる?」

「……います」


アレンダートは、とても嬉しそうに笑った。


◇


隣へ座ってからも、アレンダートはすぐに触れようとはしなかった。


今日の式や披露の宴について、他愛のない話をする。

そのうち、大聖堂でマリアンネが本当に立てなくなりかけたことも話題に上った。


「そこは忘れてください……」

「無理だな。かなり可愛かったし」


「そういうことを言うと、また処理がですね……」

「はいはい」


楽しそうに笑った彼が、ふと視線を落とす。


「マリアンネ。手、貸して」


言われるまま左手を差し出すと、アレンダートの手のひらへ重ねられた。

長い指が、薬指にある結婚指輪の輪郭をゆっくりとなぞる。


「……やっと、夫婦になれたんだな」


あまりにも静かな声だった。

いつものように、マリアンネを慌てさせるために言ったわけではない。

指輪を見つめる紫紺の瞳が、嬉しそうに細められていた。


「長かった気もするし、早かった気もする」

「二週間で結婚式まで持っていった人が、長かったって言います?」

「そこじゃなくて。君を知ってから」


アレンダートが笑う。


「最初は、俺のことを妙に見てくる変な令嬢だと思ってたのにな」

「変な令嬢」


「目が合ったら逃げるし」

「推しと目が合ったら逃げますよ!」


「普通は逃げないと思うけど」

「私は逃げるんです!」

「マリアンネが、そうなるのは分かってる」


そう返されては、何も言えない。

アレンダートは少し笑ってから、ふと思い出したように続けた。


「実は最初、君のことを調べた」


マリアンネの瞬きが止まった。


「……はい?」

「影にな。王太子を継続的に見ている令嬢がいる以上、

念のため政治的な意図がないかだけ確認させた」


数秒、意味を理解するまでに時間がかかった。


「推し活が国家権力に監視されてたー!?」


思わず叫ぶと、アレンダートが苦笑する。


「国家権力って」

「王家の影ですよね!? 私、何も悪いことしてませんでしたよ!」


「それは分かってる。調べさせたから」

「そこを根拠にしないでください!」


握られていない右手で額を押さえる。

まさか遠くから推しを眺め、絵を描いていただけの日々が、

王家へ報告されていたとは思わなかった。


「……それで、何を報告されたんですか?」

「学年首席のスターフェルト伯爵令嬢。

政治的に怪しい動きなし。俺に接触しようとする様子もなし」


そこまではいい。

問題は、その先だった。


「殿下をただ遠くから愛でているだけのようです、って」

「やめてくださいー!!」


さらに、絵を描いていることまで報告されていたらしい。


「全部バレてる……」

「それで逆に気になったんだよ」


マリアンネは顔を上げた。


「なんでですか。目的なんて、

アレン様を見かけるたびに幸せな気分になってただけですよ!」

「それが一番分からなかった」


アレンダートは肩を揺らして笑う。


「好きなのに近づいてこないし、話したがらない。ただ見て、満足して帰っていく」

「理想的な推し活じゃないですか」

「俺からしたら謎だったんだよ」


なるほど。

つまり、自分は静かに推し活をしていただけなのに、

本人から不審がられ、調査された結果、逆に興味を持たれてしまったらしい。


「……それで、アレン様から話しかけてきたんですか?」

「うん」


マリアンネは少し遠い目をした。


「因果がおかしい……」

「でも、そのおかげで今こうなってるだろ」


彼の指が、もう一度結婚指輪へ触れた。

握られた左手、薬指の指輪。そして、隣にいる夫。


確かに、あの日アレンダートが興味を持たなければ、

卒業するまで本当に遠くから眺めているだけだったかもしれない。


「……そうですね。でも、影を使われたのはまだ少し納得いってません」

「まあ、王太子だからな。そこは許してくれ」

「軽い!」


マリアンネも、とうとう笑ってしまった。

笑いが落ち着くと、アレンダートはまた指輪へ目を落とした。


「俺は、これがかなり嬉しい。マリアンネが俺の妻になったって分かるから」


マリアンネは自分の指輪を見てから、

彼の左手にもある、同じ意味を持つ指輪を見た。


「……私も嬉しいです」


答えると、アレンダートの目元が柔らかくなった。

しばらくそのまま手を握り合っていたが、やがて彼が顔を上げる。


「あと、今日キスできたのも嬉しかった」


マリアンネの顔が、また熱くなった。


「今、それを蒸し返すんですか?」

「ずっと額で我慢してたからな」


「……我慢してたんですか?」

「してたよ。額にキスしただけでも毎回あれだけ騒いでただろ?」


「いつも急にするからです!」

「だから、唇はまだ早いかなと思って我慢してた」


そんなことまで考えていたらしい。

マリアンネが黙ると、アレンダートは少し笑い、それから穏やかに尋ねた。


「……もう一度、してもいい?」


昼間の口づけが蘇り、心臓が騒ぎ始める。

それでも今度は、あまり迷わずに頷けた。


「……はい」


頬へそっと手が添えられ、マリアンネは目を閉じた。

二度目の口づけは、誰にも見られていない分だけ、余計に恥ずかしかった。

顔が離れると、思わず彼の服をつかむ。


「……推しが近すぎます……」

「もう夫だろ?」

「分かってますけど、長年の習慣が!」


アレンダートは苦笑し、少しだけ顔を寄せた。


「この近さで照れてるなら、まだまだ先は長そうだな、マリ?」

「な、な、なんでその呼び方するんですかー!?」


勢いよく胸元へ顔を埋める。


「なんで今その名前で呼ぶんですか! 前世の名前なんですよ!?」

「ああ、やっぱりそうだったのか」


思わぬ返事に、マリアンネはそろそろと顔を上げた。


「……やっぱり?」

「前に『マリって呼んでもいいか』って聞いたら、ものすごい勢いで止めただろ。

前世の話を聞いてから、もしかしてそうなんじゃないかと思ってた」


「そんな初期のやりとりを覚えてたんですか!?」

「君が『私が死にます』って大声で叫んでたからな」


「忘れてください!」

「無理だな。マリって呼び方可愛いし、

俺だけが呼べる愛称としていいと思うんだけど」


楽しそうに笑われ、また顔が熱くなる。


「だから余計に駄目なんです。前世で最推しだったアレン様本人に、

前世の名前で呼ばれるんですよ!?」


「でも、今の俺は君の夫だろ?」

「そういう問題じゃありません!」


アレンダートは少し笑ってから、声を和らげた。


「本当に嫌なら呼ばない」


マリアンネは、彼の服をつかんだ指先へ目を落とした。

嫌ではない。

もう誰にも呼ばれることはないと思っていた名前を、この人に呼んでもらえる。

それが、どうしようもなく嬉しいのだ。


「……嫌じゃないです。ただ、私の心臓がもちません」

「じゃあ、ゆっくり慣れていけばいい」

「今日だけで要求される耐性が多すぎるんです……」


アレンダートはそれ以上からかわず、髪を優しく撫でてくれた。

しばらく胸元へ顔を預けていると、

さっきまで騒いでいた心臓も少しずつ落ち着いていく。


「……アレン様。たぶん私、これから何度も処理落ちすると思います」

「そうなると覚悟してるから大丈夫」


「そこは即答なんですね」

「でも、マリアンネの気持ちが追いつくまで待つから」


顔を上げると、紫紺の瞳が穏やかにこちらを見ていた。


「無理はしなくていい。疲れているだろうから、今日は、このまま休んでもいいし」


マリアンネは少し迷い、それから彼の服をつかんでいた手に力を込めた。


「……大丈夫です。まだ休まなくても」

「じゃあ、もう少し話す?」

「あの、そうじゃなくて……ちゃんと……」


最後まで言えなかった。

それでも伝わったらしく、アレンダートの表情が柔らかくなる。


「……いいの?」


恥ずかしさも、不安もあった。

けれど、この人となら。

マリアンネは自分から少し身を寄せ、小さく頷いた。


「……できるだけ、お手柔らかに、お願いします」

「うん。分かった」


そっと抱きしめられ、今度は自分から、その背中へ腕を回す。


「好きだよ、マリアンネ」


少しだけ身体を離した彼が、もう一度その名を呼ぶ。


「マリ」


もう、やめてくださいとは言わなかった。

近くで呼ばれた名前に小さく返事をすると、アレンダートが微笑む。

嬉しそうなその顔を見て、マリアンネはそっと目を閉じた。


その夜、二人は夫婦として初めての夜を過ごした。


◇


翌朝、マリアンネはカーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。

まだ頭がぼんやりしている。


見慣れない天蓋に、自分の部屋とは違う寝台。

そして、すぐ隣から伝わってくる人の温もり。


ゆっくり横を向くと、アレンダートがいた。

深紅の髪に閉じられた瞼。

いつもよりずっと無防備な寝顔が、眼鏡がなくてもよく見える距離にある。


「……夢じゃなかった……」


思わず声が漏れた。


「うん。夢じゃないな」

「ひゃあ!?」


寝ていたと思っていた彼が、普通に目を開けた。


「起きてたんですか!?」

「今起きた」


「なら先に言ってください!」

「言う前に君が『夢じゃなかった』って言ったから」


「恥ずかしいので、聞かなかったことにしてください!」

「無理だな」


朝からいつもどおりだ。

いや、いつもどおりではない。

ここは夫婦の寝室で、アレンダートは昨日から自分の夫なのだ。


そこまで考えたところで、昨夜のことを思い出した。

マリアンネは反射的に毛布を頭まで引き上げた。


「何してるの?」

「思い出しました……」


「何を?」

「全部です……!」


「そっか」

「そっかじゃないですー!」


毛布の中から叫ぶ。

朝なのに、顔がものすごく熱い。

アレンダートは楽しそうに笑っていたが、少しすると声が柔らかくなった。


「身体は大丈夫? つらいところない?」


その質問で、せっかくぼかしていた昨夜の記憶が一気に鮮明になる。


「……今それ聞きます?」

「今だから聞いてるんだけど」


「大丈夫です……たぶん」

「たぶん?」

「詳しく確認しようとしないでくださいー!」


また笑われた。


「ほら、出ておいで。息苦しいだろ?」

「今はこっちのほうが安全です!」


「なんで?」

「アレン様から距離をとれるので!」


「夫から逃げないでよ」

「その単語にもまだ慣れてませんー!」


少し間を置いて、彼が穏やかに言った。


「そこもまだ慣れないのか。マリアンネ、左手見て」


言われて、毛布の中で左手へ目を落とす。

薬指には、昨日、大聖堂で彼が嵌めてくれた指輪があった。

それを見ていると、騒がしかった心がほんの少し静かになる。


結婚した。

本当に、この人と夫婦になったのだ。


「……出てこられそう?」

「ちょっとだけ」


毛布を目元まで下げると、すぐそこに紫紺の瞳があった。


「近いです!」

「最初からこの距離だったけど?」

「寝起きで認識してませんでした!」


また隠れかけたところで、アレンダートがそっと左手を取った。

結婚指輪へ親指が触れる。


「昨日も言ったけど、やっぱり嬉しいな」

「……何がです?」

「マリアンネが俺の妻になったって分かるから」


朝からまた、そういうことを真っ直ぐ言う。

マリアンネは毛布を少し下げ、今度は彼の左手を見た。

そこにも、自分が嵌めた指輪がある。


「……まだ、変な感じです。アレン様が自分の夫だというのが」

「まあ、そのうち慣れるだろ」

「はい……」


きっと、少しずつ慣れていくのだろう。

推しだった人が婚約者になり、夫になったことも。

こうして朝から隣にいることも、いつか当たり前になる。

そんなことを考えていると、額に軽い口づけが落ちた。


「おはよう。マリアンネ」


また心臓が跳ねた。


「……昨日あれだけ色々あったのに、

まだ、おでこにキスされるだけでも心臓に悪いです」


「それは困るな。もっと慣れてもらわないと」

「朝から耐性訓練を始めようとしないでください!」


アレンダートが楽しそうに笑った。


「マリ」

「その呼び方も心臓に悪いです!」

「俺は好きだけどな。マリって呼ぶの」


前世の名前。

この世界では誰も呼ばなかった名前を、

今は、最推しだった人が夫として呼んでいる。

マリアンネは少しだけ目を伏せた。


「……本当に、夢みたいです。前世の私が知ったら、絶対に信じないと思います」

「だろうな」


「攻略対象ですらなかったんですよ? 何回も要望を送ったのに」

「それが今は、攻略された側だもんな。しかも結婚までした」

「改めて言わないでくださいー!」


笑っていたアレンダートが、少しだけ目を細める。


「今も俺は『推し』なの?」


マリアンネは少し考えた。


「……推しでもあります」

「でも?」

「推しで、夫で、好きな人で……これからも一緒にいたい人です」


今度は、アレンダートが黙った。


「……朝からそれ言う?」

「アレン様が聞いたんじゃないですか!」

「そうだけど」


本当に分かりやすく、嬉しそうな顔をしていた。


「そんな顔しないでください」

「無理。君から言ってくれるの、まだ嬉しいから」


最初は、遠くから見ているだけでよかった。

話せなくても、触れられなくても、自分を知らなくても。

推しが幸せなら、それでいいと思っていた。

けれど今は、手を繋いで、名前を呼ばれて、その人の隣にいることが嬉しい。

マリアンネは彼の手を握り返した。


「……私、本当にいつになったら慣れるんでしょうね」

「俺に?」

「はい。遠くから見ていた頃も、全然慣れなかったし」


アレンダートが、少し楽しそうに笑った。


「遠くから見てたからじゃないか?」

「……はい?」

「これからは、もっと近くで慣れてもらわないと」


繋いだ手を引かれ、そっと抱き寄せられる。

マリアンネは慌てて顔を上げた。


「朝ですよ!? 起きなきゃだめですよね!」

「新婚なんだし、そんなに早く起きなくても大丈夫だろ」


額へ口づけが落ちる。

いつものそれで終わると思ったのに、

今度は頬にも口づけられ、そのまま至近距離で紫紺の瞳に見つめられる。


「……アレン様?」

「近くで慣れるんだろ? マリ」

「朝から心臓がもちませんー!」


そう言いながらも、マリアンネは離れなかった。


遠くから、静かに愛でていただけだった。

それなのに、本人に見つかり、近づかれ、好きになられて、最後には妻になった。


どうしてこうなったのか。

その答えを、マリアンネはもう知っている。

自分も、画面の向こうでは知らなかった本当の彼を、好きになったからだ。



――推しを遠くから愛でてただけなのに捕まりました。



―Fin-



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

10月からは、今回とはまったく毛色の違う新連載をスタートする予定です。

よければ、また読みに来ていただけると嬉しいです。

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