第八幕 魔手の囁き 第四場 海底に沈む夜
「ラムダ」
ラームファダは初めて男の名を口にした。男は、苦悶に顔を歪めながらも、こくりとただ頷いた。
「……ラムダ」
もう一度、噛みしめるように、口の中で反芻する。そして、意を決したように、妖精はラムダに手を伸ばした。
ラームファダは、ラムダの喉元にきらめくマントの留金をカチリと外した。しんと静まり返った森の中で、思いのほか大きく響いた気がして、誰もいないのに一瞬手を止めた。
だが、すぐにリネンのローブの内側へ手を滑り込ませる。ラームファダの素肌の冷たさのせいか、ラムダは恍惚として瞼を伏せた。荒い息に波打っていた肩も、次第に鎮まっていく。
(こんな背骨の一本で……)
ラームファダは、ラムダの背中に手をかざしながら、あの夜のことを思い返した。
(なんて無謀なことをーー)
こんな背骨の一本で、重力に逆らい受け止めるには、幼いとはいえ生命の塊。重すぎるのは明らかだろうに。
「あった……」
小さく呟いて、ラームファダはその氷の手に何かを捕まえた。ラムダの背筋に渦巻いていた、熱砂の痛みの原因である。
「……おまえか」
それは、不知火に似た、小さな炎の下級精霊だった。火の精霊の翻る舌に似て、氷雪の妖精の捕縛から逃れようとしている。握りつぶせば済むほどの微弱な力しかないが、こと相手が人間なら威力はそれなりにある。
「お行き」
ラームファダは、両の掌で炎を包み込むと、氷の息を吹きかけた。
ものも言わずに星を引き連れて、月が傾いでいく。ラムダの頬にも、うっすらと微笑がにじむ。それに呼応して、樹々も安堵したように、葉をさらさらと揺らした。
(……あの男ーー)
ラームファダは、背後の気配にとうに気づいていた。妖精の逃げる速度と軌跡についてきたのかと思うと、その異常なまでの好奇心には怖さを通り越して呆れるしかなかった。
(まるで使い魔の猫のように、木陰に隠れたつもりの詩人よ)
ラームファダは、ついと立ち上がると、長い銀髪をふわりと揺らして、詩人の方を振り向いた。
(いま見たことを伝える術が、お前にあるなら謳うがいい)
館のなかは、それでも穏やかな緊張と静寂に包まれていた。アミィストーンは、ほんとにほんとの目と鼻の先で、妖精の雪の貌と静かすぎるラムダの寝息を、まじまじと無遠慮にずっと見比べつづけている。
(ーーこの子の碧い瞳はまるで……水晶の玉そのものだなぁ)
確かに何かを映しているのに、読みとることができるのは、きっと許された人だけなんだろうと思う。それは、能力ではなく、心根で、だ。
ラムダは昏々と、眠り続けている。あの、大怪我を負って帰って来た夜から今日まで、まるで痛みを支えとしているように見えた。その杖を外されてしまったら、沈み込んでそれっきり浮かび上がってこれないのではないかと、アミィストーンは心配になった。
(ーーあの大怪我で……生きてる方が不思議なほどだよ……)
今頃は、大毒蛇の子守歌だか説教だかを、聴かされてでもいるのだろうか。
(ーーゾッとしないことだよなあ!)
と。そんなことを考えて、気を紛らわしていたとき。
「……彼もやはり妖精なのか」
いきなり、ラームファダが口を開いたので、アミィストーンの尻尾がぴくんと跳ね上がった。
(あー、びっくりした)
「いいや、ラムダの兄貴は大魔術師だ。人の子だよ。アイトーリアの生き残りなんだ」
(アイトーリア……)
その名を聞いても、もう動揺しなくなっている。
(あの戦禍を生き延びたのか)
「首に賞金かけて、南嶺兵が追ってきててさ。それから逃げて、逃げまくって、嫌になって世間を捨てたのさ」
少し違うが、アミィストーンには難しいことはわからない。
「今は結界のこの館で、正しい魔薬を作ってる。よく効くっていって、高値で売れるんだ」
「……そうか」
ラームファダは、無邪気にラムダを褒めちぎるホブゴブリンの少年を、包み込むように見つめた。
「大好きなんだな」
「……」
その一言に、アミィストーンがふっと黙り込む。そして、ラームファダの傍らに来ると、綺麗な髪を指に巻きつけながら言った。
「ラムダは、ずっと、ずっと、あんたを見ていた」
「……」
「朝も昼も夜も、ずっと、水晶玉を覗いて、あんたを見ていた」
「……」
「ずっと、愛する人を護っていたんだよ」
ぽろりと、アミィストーンの赤い目から涙が零れる。
「……」
(あぁ、だから、か)
ラームファダは思い出す。だから、心が塞いだときには必ず、黒豹は来てくれたのだ。
「でも、わたしがあのとき心を許していたのは、ラムダではなく黒豹なのだけど」
「違うね!」
アミィストーンは、自分事のように口を尖らせて反論した。
「違うね! あんたが惹かれているのは、ラムダの兄貴の魂なんだよ! なんにもわかっちゃいないんだから」
すごい剣幕に、ラームファダは言葉もない。
「なんにもわかっちゃ……いないんだから。だって、あの夜……」
アミィストーンは、ぼろぼろと泣き出した。
「おいら、あの夜、ラムダはもう死んじまうのかと……思って……」
(わたしを助けた、あの夜か)
背骨も四肢も限界のなか、わたしをあの四阿の近くまで運んで、どうにかここまで辿り着いたのか。
(本当に無茶をするーー)
「……そうか。そうだな」
ラームファダは、しくしくと泣くアミィストーンの赤い髪を撫でてやり、あとでミルクをあげようか、と言った。そう言ったにも関わらず、妖精はラムダの傍を離れなかった。
相変わらず表情は乏しいが、その冷たい横顔に丸みを帯びた慈悲が差し込んだように見えた。
今夜ばかりは、アミィストーンはミルクなどどうでもよかった。その夜の間じゅうずっと、まるで別の次元でふたりが会話しているのがわかった。
ときどきラムダは、寝言ともつかぬ独り言を呟いていたが、夜明けとともに意識を取り戻した。




