羊たちの沈黙
義人の腕から伸びる2本の触腕は周囲の街灯や看板、さらには民家の壁を掴み、筋肉の塊のような肉厚な触腕とともにその体は空気を引き裂いていく。
「な、なんだぁ!? ありゃあ……!?」
避難を急ぐ人々が頭上を弾丸のように飛び去っていく影に目を見開いた。円運動と遠心力。文系の彼にはその定義をさっぱり理解していなかったが、そのイメージだけは鮮明にある。スパイダーマンのスイングだ。触腕を軸に己の質量が巨大な円を描く。
「ぐっ……!!」
叩きつけられるような遠心力を義人は強引にねじ伏せた。そして振り子の頂点、慣性が最大限に達する瞬間、触腕を放す。蓄えられたエネルギーは彼を弾丸として目的地に向かって撃ち出した。
簡単だ……。俺はやれる!!
赤子が自然と立ち上がるように。鳥が羽を動かし空へ飛び立つように。義人はハリウッドのクリエイターたちが心身を削り造り上げた映像を頼りに空を自在に飛んで行く。時には重力を無視した軌道で垂直な壁を駆け、住宅の屋根から屋根へと跳躍した。背後で上がる通行人たちの悲鳴を無視して。人々の視線も、向けられる恐怖も、今の彼にはノイズに過ぎない。
——あと、少し!!
見えた。触腕が電柱を掴み、円を描き、頂点で離す。義人は私服警官に向けて巨大な拳を振り上げた青白い男の脇腹にミサイルのような鋭さで両足から激突する。
「大丈夫ですか!? 早く逃げて!!」
しゃがみ込む男性に声を掛け、手を貸し、起き上がらせて彼を逃がした。
なんなんだ。あれは……。
飛んでいった男は辛うじて人の形は保っていたものの、もはや人という枠組みを内側から否定し、食い散らかしているようだった。肌の色素は薄く、死体のように色が悪い。まるで出来の悪い泥人形だ。
身に着けているものも灰色のスウェットのみで、上半身は裸。靴も履いてはいない。抉れた腹が閉じられていく様子から同じ超高速再生能力持ちだと判断する。
「…………」
表情は皆無。瞳は固定されたビー玉のように骨の奥へと入り込み、暗く、黒く外の世界を映し出す。そして、そこに殺意はない。心というものを持たせては貰えなかったようだ。
「やあ、ヒーロー。さすがに早いな」
声を掛けられた。右側に顔を向けると、男を守るように5人の女性が前に立ち、その姿を隠す。
「…………」
操られているだけなのか。もう手遅れなのか判断が付かない義人は無視することにし、手負いの男の頭を触腕の刃で斬り落とすと、すぐさま残りの4体を処理するために駆け出した。
「つれないなぁ」
これは思ったよりも早く片が付きそうだ…………。
冴島はそう判断し、ドアを閉め、カーテンを閉じ、温かい部屋へと戻って行く。
「ア……ギ……ギ……」
しかし、義人が次を仕留めに駆け出そうとした瞬間、アスファルトに転がった男の頭部が、自らの血溜まりの中で目玉をギョロリと動かし、義人の姿を捉える。
な、なんだこいつ……!!
喉がないはずの断面から気泡の混じった不快な音が漏れていた。義人は理解する。こいつらは首を撥ねた程度では止まらない。冴島が用意したのは、勝利の爽快感など微塵も与えてはくれない汚物の群れなのだと。
だったら!!
義人の判断は素早かった。斬っただけで止まらないのであれば、再生の余地すら与えないほど叩き潰せばいいだけだと。
「……」
すぐさま触腕の先端を螺旋状に丸め、振り下ろす。硬く編み上げた即席のハンマーは白い頭を骨ごと砕く。果肉が爆ぜ、中の種が砕ける音とともにそれはようやく動きを止めた。擦り潰された赤い肉がコンクリートの隙間という隙間を丁寧に埋めていく。
コイツは面倒だな…………。
残り4体。その内の1体と目が合った。目の前の個体も先程のものと同じ格好で、その人知を超えた肉体を外気に晒している。4本の触腕をただ生やすだけの異形からは何もない。何も感じられなかった。その大きな瞳に殺気はないが、標的を義人に変えたことだけは理解できる。
来いよクソ野郎……。
義人はハンマーを振り、遠心力と重力をともに男へと叩き付けた。




